ジョン・ウエインにアメリカを見た

 

ネコのひたいほどの小さな我が家の庭ですが、数年前に植えた柚子が花をつけました。サクランボの小木は2本あり、春に開花したとき、おのおのの花弁に綿棒をくっつけて、受粉を試みました。蜜蜂が飛んで来て、花の蜜を吸いにくると、それぞれの花弁にもぐり込んで、交互の木の花粉をからだにつけ、両木間を行き来するので、自然と受粉できるのですが、我が家近辺では蜜蜂が見当たりません。「蜜蜂の巣を作って飼育すると(養蜂)、楽しくて感動する」とインターネットに載っています。また、そうして蓄えられた蜜は、市販の西洋蜜蜂のものよりも、濃厚で美味しいと書いてあります。しかし、住宅地で養蜂をやりますと、蜂が近隣家庭に干してある洗濯物を汚したり、何よりも蜂が飛び交うことを危険に感じるひとも多いと言います。森林の一軒家に転居しないと無理だと、養蜂は思い留まっています。去年は受粉を試みたあと、入院したので結果を見ることができず、家内から「2粒だけ実がなった」と知らされました。今年は、早く開花したほうの木はダメですが、遅咲きの木のほうには、たくさん実がなっています。果樹にかぎらず、農業行為は生育を見ているのが楽しみです。自分の子供の成長を眺めている感じがします。

「子供の成長を眺めている楽しみ」という言葉、60数年前に観た映画「アラモ」を思い出しました。1830年頃、北米大陸のテキサスは、メキシコ領で住民は独裁政治、圧政に苦しんでいました。「アラモの戦い」とは、反政府、独立反抗戦争のことです。アメリカ人にとっては「Remember Pearl Harbor」と並んで「Remenber the Alamo」と称され、国民の独立自尊の象徴となっています。映画でジョン・ウエイン扮する、テネシーから援軍にやってきたデイビー・クロケットが、勝ち目のない戦いへの参加を暗に応えて言います。「Republic(共和国) 、Republic、この響きがいい。自由に暮らし、話せる国だ。人の往き来、物の売り買いも自由。感動的な言葉のひとつだ。『共和国』と聞くと胸がつまる。自分の子供が歩き出す時と同じだ。胸が熱くなる言葉。それが共和国だ」 。1960年に製作されたこのMGM映画は、ジョン・ウエインが出演と同時に、製作まで手がけた映画です。彼がこの映画に込めた想いは「Republic」という言葉に凝縮されていると感じました。結果的には、アラモの砦に籠もって戦ったひとびとは全滅しましたが、独立反乱軍の軍員増強立て直しの時間稼ぎに貢献して、最終的には反乱軍に勝利をもたらし、テキサスは独立後、アメリカ合衆国のひとつの州になりました。この映画の音楽はデミトリー・ティオムキンが担当しています。数々のアメリカ映画音楽を作曲した巨匠です。この映画のテーマ曲は「The green leaves of summer」。これに「遙かなるアラモ」とか「アラモの歌」なんて変な日本語訳名がついていますが、若い日の緑葉の夏、種まき、収穫の頃を歌った望郷の内容です。明日のメキシコ軍の大攻撃で、砦を守る者達の全滅が必至の夕刻シーンに、哀愁を帯びたこのメロディーが流れます。ティオムキンの出身は、旧ロシア帝国領だった「ウクライナ」です。ロシアの侵略、独裁政治への反抗戦争が続いている現在、何か目に見えない縁(エニシ)を感じます。

この映画を観たのは、大阪梅田のOS劇場、当時売り物だったシネラマ方式の大画面、私は高校3年生、終戦から15年が経過という時代でした。私たち戦中生まれの者は、物ごころついた時からアメリカ文化の洗礼を浴びています。進駐軍、チューイング・ガム、チョコレートからはじまり、映画はもちろん、音楽、デニムのジーパン、アメ車、ダンス、コカ・コーラ・・・ETC.。アメリカそれは、食い物も文化も飢餓状態だつた子供の前に突然開けた、夢の国でした。そんな憧れの映画スター、ジョン・ウエインに会った経験があります。私が小学生だった頃の記憶として残っているのですが、調べると「1958年昭和33年映画『黒船』の撮影で来日」となっています。そうすると私は中学3年生。時期にズレがあります。昭和29年~30年ころに、撮影以外で非公式に来日していたのか、私の記憶が間違っていて、やはり昭和33年だったのかどちらかです。我が家の家業は料亭です。その日、誰かが「ジョン・ウエインが来てるヨ」とそっと教えてくれました。私は門の内側でじっと待っていました。どれほど待ったか、石段の奥、砂利道の暗がりを誰かこちらへ歩いてきます。小山のような大男というより、電信柱のように天を突く大男でした。ジョン・ウエインはひとり足早に石段を降りてきて、待ち構えていた私と目が合うと「Oww」と言って手のひらを上に向け、微笑みながら門の外のハイヤーに乗って消えて行きました。「Oww」と微笑みは、彼がファンの少年に接するとき、いつもしている動作だったに違いありません。その間、ものの15秒ほど。それでも会ったのです。本物のジョン・ウエインに。天にも昇る気持ちでした。誰彼なしに友達に自慢したいと思った覚えがあります。アメリカ映画、文化の象徴としてのスターと遭遇した記念碑的出来事でした。ジョン・ウエイン、1979年、癌で死去。享年72歳。ネバダの核実験場近くで、撮影を続けたのが原因ではないかと言う説もあります。

「アラモ」。この映画が強く印象に残っているのは、私にとって高校3年生だったことが関係しています。高校3年生、それは私のターニング・ポイントでした。それまでと、それ以後と私の人生は大きく変わりました。詳しくは述べませんが、あることがキッカケで、人生を積極的に生きようとの意識が芽生えた時期でした。1960年代は、良き時代のアメリカが更に興隆を極めて行く時期と重なっています。子供の成長を見守るこころ=圧政下で自由を求め、立ち向かって行く精神を、映画「アラモ」に見て、強く印象に残った体験です。