「生きザマ」という言葉はおかしい

写真はAdobe Stock より

最近、よく耳にする言葉で、いつも気になっているのが「生きザマ」という言葉です。「死にザマ」という言葉はあります。れっきとした言葉としてあります。「死に様」と書きます。「ザマ」とは「みっともない様子」を表現する言葉です。「見ろ ! 案の定、このザマだ 」とか「何てザマだ」などと使います。それがいつしか、生きている格好を表現する意味で間違った使い方をして、あたかも「格好イイ生き方」として褒め言葉のように使われはじめました。「ザマ」と言う限りは、スマートに楽々というニュアンスではなく、「必死にあえぎ喘ぎ」生きている感じに受け取ってしまいますが、ひとによっては、スマートに誇らしげな生き方のように使っているようなことがあります。「これが男の生きザマです」なんて平気で使っています。しかし、おかしいのです。調子に乗って傲慢極まりないひとが、躓いて取り返しのつかない不運で惨めな状態におちいったとき「ザマー見ろ」なんて言い方をするのです。「ザマ」とはそんな言葉です。

とは言うものの

言葉は時の流れとともに変化するもののようです。平安時代の文章にたびたび登場する「いとをかし」という言葉、現代語で解釈すれば「ずいぶん変だ」とか「大変不審である」とか「凄く面白い」とかになるのでしょう。古文の授業で習ったとおり、平安時代には「非常に興味深い」とか「味わいがある」というイイ意味に使われていました。

清少納言は「枕草紙」という随筆で、

春はあけぼの。やうやう白くなりゆく山ぎは、すこしあかりて、紫だちたる雲のほそくたなびきたる。
 夏は夜。月のころはさらなり。やみもなほ、蛍の多く飛びちがひたる。また、 ただ一つ二つなど、ほのかにうち光りて行くもをかし。雨など降るもをかし
 秋は夕暮れ。夕日のさして山の端いと近うなりたるに、烏の寝どころへ行く とて、三つ四つ、二つ三つなど、飛びいそぐさへあはれなり。まいて雁などの つらねたるが、いと小さく見ゆるはいとをかし

 

と「イイね」の表現に使っています。「飛びいそぐさへあはれなり」とありますが、

ご存じの通り「あはれ」「もののあはれ」とは「しみじみとした趣がある、すばらしい」との表現です。もちろん「いたましい」とか「かわいそう」だとかの意味も含まれているようです。

鎌倉時代初期に編纂された「新古今集・秋上」で西行法師は

「心なき身にもあはれは知られけり鴫立つ沢の秋の夕暮れ」

と詠んでいます。「寂しさ、粋、無常」などがひしひしと心に響いてくる歌です。こうして、古人先人の言葉、日本文化を思い起こしてみると、その上品さ、折り目正しさを感じて、背筋をピンと伸ばしたくなるのです。

今の若者達が、「マジ」で「ヤバい」とか、「ウザい」「キモい」と言っているのを聞くと、願わくばそれらは一時的な流行で、せめてスラング(俗語)ぐらいになって、早く消えてくれないかと思います。更に言えば「めっちゃオモロイ」なんて言います。男子が使っている内はまだいいのですが、若い女の子までが言います。この「オモロイ」と言う言葉、大阪のお笑い芸人の影響でしょうか、余り上品な表現ではありません。女の子は「オモ」と「ロイ」の間に、「シ」を入れて、→「オモしロイ」と言った方がよろしい。私自身、こうして文句や小言を言い出すと、前々回のブログで書いた、我が爺さんに似てきました。この辺にしておきましょう。とにかく「生きザマ」という言葉が、電波メディアばかりでなく、印刷メディアの中でまで市民権を獲得しつつある状況を見ると、いささかこころが暗くなるのです。「生きザマ」という言葉は「おかしい」→この場合の「オカシイ」は古文で言う「いとをかし」の「興味深い」とか「味わいがある」とかの意味ではありません。正真正銘の現代語「変だヨ、間違ってるヨ」の意味です。念のため。