祖父の命日

いつも朝起きると、お仏壇に水を供え、ローソクに点火し線香を炊きます。その前に過去帳、今日の日のページを開きます。今日は2月24日、母方の祖父の命日でした。亡くなったのは昭和35年(西暦1960年)、私が高校1年生の時です。丁度、中間テストでしたか学期末テストの最中で、少し迷いながらも、テストを優先し2日後の葬式を欠席しました。葬式の翌日の朝のことだったと思います。一夜漬けの試験勉強、徹夜してウトウトと居眠りに入った時、「コラッ」と言う大声とともに頭をガツーンと殴られた感じがあり、飛び起きました。ゾッとしました。(まぎれもなく爺さんの声、葬式に出なかったことを怒ってるンや !  )。この不思議な幻覚は、今でもはっきり覚えています。それまで一緒に暮らしたこともなく、接点の少ないひとでした。それが亡くなる前、健康を害してからは、当家や長男(私の叔父)宅を行ったり来たり。祖父はよく文句や小言をいうひとでした。気位の高いひとでもありました。生意気盛りの高校生だった私とは、当然合いません。表だって喧嘩をしたわけではありませんが、何となく疎ましい存在でした。祖母(祖父の妻)とは、とっくに数十年間別居の夫婦状態で、祖母は我が家に身を寄せていました。私と妹は、その祖母が母代わりのようになって育ててくれましたので、そのことも祖父とは合わなかった原因かも知れません。亡くなって「2日後に葬式」と聞いたとき、まだ続いていたテスト優先、葬式欠席を決めてしまいました。「コラッ」頭をガツーン。仏壇に水や線香を供える朝、過去帳の2月24日を開くたびに、この幻覚体験を思い出します。

昨年末、私は仕事場の事務所で、めまいに襲われました。天井も床もグルグル回って立っていられません。このトシでもまだクルマを運転して通勤していますが、その日はとても運転は無理でした。仕方なく娘に運転してもらい、帰宅しました。翌日1日仕事を休み、睡眠をとって回復しました。その翌日、高校2年生になる孫娘がやってきて言うのです。「お爺ちゃん、死なんといてヤー」。意外でした。(へー ? ちょっとは心配してくれてるンや )。また、東京で暮らしている娘夫婦が、年に1~2回家族でやって来ます。今年小学校へ上がる孫娘が東京へ帰るとき、いつも手のひらを掲げて「お爺ちゃん、ハイ・タッチー」とタッチを求めてきます。どうやら、孫達には今のところ嫌われていないようです。行儀・しつけは別にして、教育(宿題も含む)や遊びに口出ししないこと。くどく関わり合いを持たないこと。多少のことは受け流すこと。小学校高学年ぐらいになってくると、両親や祖父母よりも、友達の方が大切になってくる・・・などなど、孫に嫌がられない方策を自覚できるようになりました。これらは、先述の祖父から「反面教師」として学んだことです。こうして孫達とは、良好な淡交関係が保たれています。

祖父とは1回だけ、ふたりで一緒に外出した思い出があります。まだ幼かった頃、祖父と京都御苑 ( 京都のひとは「御所」と言います ) の一般公開見学に同行したことです。祖父に連れられて行った思い出は、後にも先にもこれだけです。どうして私だけが連れられていったのか、いまだに合点がゆきません。祖父が亡くなった時期、高校1年から3年にかけては、私の人生にとって大きな転換点でした。孤独で寂しく、つらく、しかし必死にもがいていました。結果、何とか道が開けたように思います。今日あるのはそのお陰。懐かしい日々です。祖父の命日2月24日には、これらのことを、いつも思い出しています。

右の石垣の内側が京都御苑(=京都御所)