家業を継いだ顛末

年の瀬も押し詰まって参りました。健康上、大ピンチだった年だけに、この年末は、我が人生を振り返ることが多くなりました。我が人生のターニング・ポイントはいくつかありましたが、24歳で家業を引き継いだことも、そのひとつです。家業とは料亭です。料亭は、女将という女が中心の商売。姉は学校卒業後、自然に家業に参加し、女将である母と一緒になって料亭を切り盛りしていました。男である私は当然、家業を継いで参加するなんて、考えてもいませんでした。ところが思いがけないことが起こります。姉は、お客にモテたのです。客にすれば、年のいった女将よりも、若い娘の方が良い。母がお酌の挨拶に出ても、客は口には出さないものの、(オバハンは出てこなくてヨイ。あっちへ行け。娘 ! 娘がお酌に来い)と思い始めました。そしてそれは、態度に表れます。これが毎日度重なると、お山の大将だった女将の母は面白くない。やがて(母vs娘)の喧嘩になります。姉も向こう意気の強い方、大喧嘩の末、姉は家を飛び出してしまいました。しかし妹がいます。母は妹に店を継がそうと躍起になっていたようです。私が学校を卒業する頃、まさか男の私がこの料亭を継ぐなんて、考えてもいませんでした。実際は、(さて、どう生きようか ? )と自分の進路に迷っていたのが正直なところです。やろうとしていたのは、Aという職業と、Bという職業。どちらも自営業。既存の会社に就職する気持ちは、さらさらありません。卒業後Aでやっていこうかと決心して、東京へ出ました。A職のツテ、コネを探るべく、安アパートに住んであちこち、いろんなひとを訪問する日々が続きました。そして、1ヶ月も経たない或る日、ポツンとひとりアパートの部屋にいる時、腹の底から「俺のやりたい仕事はB職なんだ」と気づくことになります。しかし、B職はA職よりも余計、ツテ、コネの手がかりがわかりません。それでも、東京に住んでいればなんとかなるだろうと、取りあえず、収入を得るためにアルバイトをはじめました。貧乏でした。何日も飢餓に近い空腹を経験しました。それでも生活には、何物にも代えがたい自由がありました。単身の心細さとシアワセが同居していた生活でした。やがて1年が経つころ、横浜に住むIさんから電話が入るようになります。会ってみると、「京都へ帰りなさい」と理由は言わずに繰り返します。アパートの電話は共同電話、しかも昼間はアルバイトに出ていていない。そのうちIさんはアルバイト先へ電話をかけてくるようになります。これには困りました。会えば「京都へ帰りなさい。お母さんを助けてあげなさい」の一辺倒。Iさんは元々京都T百貨店の外商社員です。T百貨店が横浜に新店を出すとき、京都から横浜へ来たひとです。京都の外商時代、母からは特別目をかけられていたようです。なぜか毎年、大晦日の前日ぐらいに単身、我が家料亭に来て、元旦の早朝、母が大阪にある不動明王様に貸し切りのハイヤーでお参りするのに同行、三賀日を店で過ごし、横浜へ帰るという変なそして家族同然のひとでした。ここで母の卑怯な面が現れます。自分から頭を下げて、私に「店を継いでほしい。帰って来てほしい」とは言わずに、Iさんにそれをやらせたのです。繰り返されるIさんとの接触で、理由を聞かなくても、店のピンチはわかっていました。ここで私は人生の大失敗をやらかします。(家業はピンチらしい。だけど料亭の立て直しぐらいやってやれないことはない)。・・・・若気の至りでした。東京を引き払って京都へ帰りました。30歳までに家業を立て直し、もう一度東京へ出て、自分の人生を歩こう。そんな魂胆でした。待っていたのは、母の放漫経営が積み重ねた1億5千万円の借金。当時は初任給が1万8千円の時代です。今の初任給が23万円ほどなので、1億5千万円はどれほどの値打ちの借金か換算してみて下さい。これは甘やかされて育った妹が後を継いでも、とても無理だとわかりました。まず、弁護士さんは「息子よ、会社の株式を全部自分の名義に変えろ」と言います。私は「先生、株を買い取るカネを持っていません」と言うと、「これだけの赤字会社、値打ちはゼロ。名義書き換えはタダでできる」。かくして、私は株式を全部自分名義にし、そして代表取締役のハンコを持たされました。銀行は疑心暗鬼だったようです。カネの借り入ればかり要求して、一切返済しない放漫経営者に代わって、若い息子があとを引き受けるようだ。どうかな ? 銀行に呼ばれて行くと、貸付係長、貸付課長、審査部長、本店長、常務がずらっと並んでいました。料亭の敷地面積は3千5百坪ありました。そのうち母の強運でタダ同然に手に入れた700坪の土地は使っていませんでした。その土地を処分するのが解決策でした。代物弁済と言って700坪の土地を銀行に引き取ってもらい、銀行はそれを売却してその代金で債権を消す。やれやれ、これで一挙に解決かと思ったのも束の間、会社に4千万円の税金が降りかかってきました。会社の借金を、母の個人資産の土地を処分して消した→会社は母から1億5千万円の贈与を受け、利益が出たことになるというのです。借金は母がやったこと、それを自分の資産処分で消して、なぜ会社に税金がかかる。納得できませんでした。税理士は「この税金は逃れられない」と言います。予想外の誤算でした。借金は会社名義、土地は母名義。これも母のズルさでした。かくして私は4千万円の借金を背負い、加えて母は安心してますます浪費と放漫行為を続ける。やがて会社の借金は7千万円まで膨らみました。地獄の20代30代。母と血みどろの大喧嘩の毎日、東京へ戻って自分の人生を生きる・・・なんて、夢物語になってしまいました。それでも倒産せずに何とか切り抜けられたのは、日本の高度成長とインフレに支えられたお陰です。昭和50年頃まで、接待交際費は経費でした。各会社は「利益が出て税金に持って行かれるくらいなら、接待に使って利益を減らせ ! 」いわゆる社用族の時代、銀座、梅新、祇園にはバー・クラブが乱立していました。料亭もその恩恵にあずかりました。今よりも厳しい人手不足の時代でしたが、睡眠時間を削ってでも若さで乗り切りました。もうひとつ大きかったのは「債務者利得」と言われる状況です。高度成長時代、インフレが激しく、物価は高騰を続けました。インフレの時は、借金をしている方が得なのです。周りの物価が上がるのに比例して、自然と料理の売り値も上がりました。店を継いだ当初、ひとり2千円だった料理単価は、4千円になり、8千円になり、1万円になり、1万5千円、2万円に、3万円にまでなりました。反面、借金の額面はまったく変わりません。月々の返済額も変わりません。収入が自然に増えてゆく分だけ、借金の値打ちは下がってゆきます。そして、日本は豊かになり、銀行には預金が集まり、膨らみ続けました。カネを借りるひとは減ります。当初7.5%支払っていた利息は、2%にまで下がりました。期せずして売上と利益は増え、借金は額面のまま価値が下がり続けました。地価も高騰しました。代物弁済で銀行に渡した時の地価は、坪単価21万円強。20年後、相続税支払いのために処分したその隣の地価は、バブル期だったこともあり坪180万円でした。

私は「頑張って借金を返した」なんて偉そうなことをウソぶくつもりはありません。インフレのお陰で、借金の価値は自然に落ちていったのです。

 

気がつけば所帯をもち、3人の子供を設けいつしか40歳を超えてしまい、京都から抜け出られず、時は流れ78歳の現在に至ります。かくしてこれが、私が家業を継いだ顛末です。振り返れば、小学校の頃仲良くしていたKクンは交通事故で脳に損傷を受け、歩けなくなり20歳の時亡くなりました。また、学友の何人かは、家庭を持ち子供ができたのに、40歳で逝去、小学校からずっと一緒だったNクンは48歳で急死しました。去年、今年と友人の訃報が続いています。我が人生にとって、家業を継いだことは痛恨事ですが、今年大手術の末、生き延びられただけでも、由として人生に感謝しなければならないのでしょう。

「ひとは何処から来て、何処へ行くのか」なんて哲学的な問いかけほどではなくても、しかし「人生って、いったい何だったんだ」と思う年の瀬です。