年頭に際して

明けましておめでとうございます。

11年ぶりの癌再発、手術、リハビリといった、嵐のような一年が過ぎ去って、ピッカピカの新しい年が明けました。西暦2023年、令和5年もまだ我が生命はシツッこく継続しております。手術前に説明を受けたとき、チームの親玉教授から言われました。「この手術は70歳のひとまでしか行ったことがない。アンタは78歳、施術すれば最高齢の記録になる。見た所、元気そうやネ。・・・やるか ? 」かくして最高齢の手術になりました。3月には79歳になります。両親よりも3歳多く生きたことに、父方の祖父母よりは5歳、9歳多く生きたことに。一方、母方の祖父母は82歳83歳まで生きましたが・・・・・。つまり私にも、男性の平均寿命の年齢が近づいてきました。

月日は百代の過客にして、行き交う年もまた旅人なり

人生はよく旅にたとえられます。いま、2023年の正月、遠く過ぎ去りし日、来し方を見渡せば、物心ついた時から苦闘の連続でした。振り返ってこれからの人生を見渡せば、そうそう残り長くはない旅路も、昨年に転換点を見て、なんとなくひとつの峠を越した気がしています。さて、峠の上に立って、行く末を遠望、次の旅路はどうなるのかと、期待が胸にみなぎっております。お正月という節目には、いつもこんな感情を抱きます。去年のお正月、病気治療の一年になるなんて、考えもしないで・・・。また、2020年3年前のお正月、コロナ・ウイルスが世界中にこれほど蔓延するとは、ひとは予想もしなかったでしょう。一般のひとは、ロシアがウクライナへ侵攻するなんて、戦争が始まるなんて考えていなかったはずです。何が起こるのかわからないのが、この世の中。気持ち新たに年のはじめに立って、平穏平和で、恵み多い年になることを願って止みません。

昭和史研究家・保阪正康氏の平成天皇ご夫妻(現上皇様夫妻)との会見を読むと、平成天皇は、戦前「日本に民主主義が根付かなかったのはなぜ」、「満州事変について」、東京裁判で真偽が問われた「田中メモは誰が書いたのか」と言う疑問などから、「先帝(昭和天皇)はどうして太平洋戦争を止められなかったのか ? 」と痛恨の極みを心底に抱いておられた様子が感じられます。それは、天皇を引退されるときの「私の天皇就任期間(平成)には、戦争がなく、天皇のために若い人が命を失うということがなく、終わることができた」とのお言葉に凝縮されています。去年から始まったロシアのウクライナ侵攻戦争を思えば、平和がいかに大切なものか心に響きます。私が生まれたのは昭和19年、太平洋戦争の最中でした。2歳3歳のころ、まだ空高くB29爆撃機を見ることがありましたし、町中を進駐軍MPがジープに乗って疾走していました。小学校ではクラスの3分の1ぐらい、父親を戦争で亡くした母子家庭の子が普通でした。戦場から帰還し、片足、両足、片手を無くしたり、顔や眼がつぶれた傷痍軍人が、街頭で物乞いをしている光景も普通に見ていました。両親を亡くした戦災孤児は悲惨で、地下通路で生活していました。以来、77年間、私たち戦争のない人生を歩めたことは、幸福だったと運命に感謝するしかありません。

袖振り合うも他生の縁、たくさんの知り合い、先輩、友人、はたまた後輩も、あの世へ旅立ちました。それでも、ご縁があるひとびとが、まだまだたくさん生き残っています。会ってとりとめもない会話をしたり、いや、政治や世の中のことに、口角泡を飛ばして議論をしたり、年賀状を取り交わすこと、手紙や電子メールを送り、受けることも大切なことです。今まで大勢の学生をアルバイトとして使ってきました。彼ら彼女らと話していると「この先、人生が堪らなく不安だ」と言います。私は、「それでイイ。当たり前、若い頃は誰だって不安なんだヨ」と答え「何があっても一生懸命生きればいい。私の年齢になれば、不安はなくなり、『人生ってこんなだったのか』と思うようになるヨ」と言うと、羨ましいような顔をします。先が見えなければ[不安]、通り過ぎて振り返れば[安心]とでも言うのが人生です。永年、家業がコケないように経営努力をし、家庭をもって子供を育ててきました。正直言って、経営努力にはもう疲れ、子供は自立してくれました。それでも、私はまた別の目標を持っています。去年で終わっていたかもしれない人生、夢を追って突き進んで参ります。肩肘張らず、淡々と、できるだけクールに。

今年もブログを始めるにあたって、・・・皆様への年頭のご挨拶でした。