祇園町の会社事務所にいて、特段用事のない日、午後になると散歩に出ます。三条大橋から鴨川左岸におりて、河川敷の遊歩道を上流(北)へ向かいます。御池大橋、二条大橋、丸太町橋、荒神橋をくぐって賀茂大橋 ( 出町柳 ) 手前で川端通りへ上がり賀茂大橋を西へ。この東西の道路は今出川通り、青春の思い出が数十メートル単位でいっぱい、ころがっています。中学、高校は男子校でした。服装は黒の立襟制服・学生帽という装いで6年間通いました。高校卒業して、この今出川通りを歩くようになると、私服の女子中学生・高校生そして女子大学生に遭遇します。なんとまあ、そのきらびやか華やかなこと。世界が一変しました。高校までの通学電車で会う女子中高生はみんなダサいセーラー服。少し年上になる通勤のお姉さん方は華やかでしたが、何か遠い遠い存在に見え別世界のひとびとでした。高校卒業後、自分の服装も自由な私服になって、今出川通りですれ違う私服の女の子たちの輝く世界に、なんとなく溶け込んだような気分になったものです。いまも散歩でこの賀茂大橋を西へ渡るとき、向こうから歩いてくるたくさんのカッコイイかわいい女子学生を観察して楽しんでいます。今出川通りを西へ、寺町通りをこえると左手は京都御苑です。京都人は正式なその名称ではなく「京都御所」もしくは「御所」といいます。学生時代好きになった女の子はたくさんいましたが、デートを重ねた子はひとりです。最初のデートは、御所でした。夢見心地、雲の上を歩いているような気分で慣れないデートをはじめました。楽しい日々がつづいたあと、女性のこころを理解できていなかったと言うか、扱いに慣れていなかったと言うか、別れがきて以後は別々の人生になってしまいました。謝罪の気持ちと後悔が残りました。今、御所を歩いてみると50数年前のはじめてのデート、そして苦い、甘酸っぱいもろもろの思い出がよみがえってきます。失敗と悲しみのない人生なんてありません。青春とはそれに抗って、何とか何とか乗り越えて歩く旅なのでしょう。振り返れば、理屈では説明できない運命をいくつも体験しています。友達に怪我をさせてしまったり、すんでのところで、大事故になっていたかも知れない行為、思い出すだけでも冷や汗が出ます。無事是吉祥、無事がどれほど有り難いことかいまは実感しています。今出川通りをはさんで、北側に煉瓦づくりの図書館がありました。期末の試験が危なく、単位を落としそうな時、友達に隠れてこの図書館でひとり勉強したことが何度もあります。実家が料亭で、宴会客の歓声、芸者衆の三味線音・長唄常磐津の歌声と嬌声、板前、仲居たちのあいだで戦場のように飛び交う怒号、器を整理洗う音、とてもじゃないが帰宅して勉強には向いていない自室よりも、午後の静かな図書館は有り難い空間でした。試験になんとか合格しようとしたセコい勉強ではなく、そこで本格的に学問に取り組んでいたら、違った人生が展開していたかも知れません。平岡精二作詞・作曲「学生時代」・・・秋の日の図書館のノートとインクの匂い、枯れ葉の散る窓辺、学生時代→青山学院大学出身のヴィブラフォン奏者が作った歌ですが、ここもまったく同じ雰囲気です。
そのまた北には相国寺があります。南門を入って左手には池があり、その前に門があります。結成したアメリカン・フォークソングの練習はいつもその門の下でした。雨の日も濡れずに練習できました。久しぶりに見に行きましたが、網のフェンスが設けられていて、入れなくなっていました。あの頃は自由に入れて、大声で歌っていても、だれにも注意されませんでした。ここで始めたバンドは、以後わたしの人生に、聴くだけではない、音楽をするという宝物をもたらせてくれました。この近辺の思い出を書き出せばキリがありません。いまは烏丸今出川まで歩いて、敬老乗車券をつかって地下鉄で帰ってくる。逆に地下鉄に乗って烏丸今出川まで行って、歩いて帰ってくるパターンが散歩のルートのいくつかのひとつです。このエリアに足が向きがちなのは、青春時代にもどったような気分になれるからなんでしょう。いま振り返って見ると、若い頃が輝いて見えていますが、当時の気分は暗いトンネルの中にいて、先行き不安におびえながら、無限大の可能性にも希望をふくらませる二律背反に揺れていました。このトシになると、その不安は解消されたものの、いろんな可能性も秘めていた青春に、もう戻れない寂しさを感じます。人生って、こんなものですかネ。