

今年の当家の柿は、大豊作でした。昨年は凶作、結実少なくほとんど成りませんでしたので、これぞ「隔年結果」ということでしょう。ただ、選定をサボッたために、味はあまり甘くありません。それでも程よい甘味で、さわやかです。毎日、各地でクマ出没のニュースが流れています。命を落としたり、大怪我をした人身被害も、近年では多くなっています。我が京都府でも、京丹後市に出たとか、城陽市に出たとか、報道されています。京丹後市は遠く離れていて、( そうか ) と思ったものの、城陽市は近くて、心配になってきます。当家のように柿の木があって、今年のように実がいっぱい成っていれば、クマが食べに来るのではないかと、家内は心配しています。昨日のインターネットのニュースで、クマが市街地に出てくる原因を、神奈川県山北町の猟師が解説していて、なるほどと思いました。日本の林野政策は、建築材としての材木を育てて売るために、自然の原生林をスギとヒノキという針葉樹林に変えて来ました。しかし、目論見は外れ、建材はカナダなど外国から格安なものが輸入されて、日本の材木は完敗、山はスギとヒノキが生い茂ったまま放置されてしまいました。もともと、日本の林野は、サクラやケヤキ、ブナといった広葉樹林であつたのが、スギとヒノキの針葉樹林に変わってしまったといいます。広葉樹林の森は、クヌギやトチ、クリ、クルミといつた実をつける樹木の森で、クマやシカにとっては食糧が豊富ですが、その森が針葉樹の放置森になってしまったため、食料は乏しくなります。特に冬眠前のクマは身体に栄養を蓄える必要があるのに食料がないと、クマは人里、市街地にエサを求めて進出してくるようになります。この環境の変化が原因で、クマが市街地に現れるようになったと、その猟師は説明していました。また、林野で仕事をする人々や猟師にとって、クマとの遭遇は特段珍しいことではなく、彼らは襲われない方策を知っているようです。クマとの遭遇を、普段から当たり前の日常と心得ていて、いちいち「クマが出た」なんて通報なんてやっていないと言います。この意見を読んでいると、クマが市街地に出るのを、猟銃やオリで駆除するのは場当たり的、対症療法だと思えてきます。森をクマやシカが生きられる林野に戻し、根本から土壌を変えるような方法で解決すべきだと思いました。
とは言え、私は毎朝5時過ぎに起床し、山手にある琵琶湖疎水を40分かけて速足歩きをします。今、11月になりますと、まだ夜は明けきらず、腕に登山用の照明をつけて出発します。今朝は冷え込んで、自分の息が白く見えていました。琵琶湖疎水の森は、北へ如意ケ岳、大文字山、比叡山と続いていて、比良山系そして福井県へとつながっています。それはクマが出てきても少しも不思議ではない状況です。しかし、それらの森林は広葉樹林帯で、クヌギやカシ、ケヤキ、カツラの森なので、多分、クマやシカにとっては、食料が得られない森ではないと考えています。天智天皇の御陵の北には、法華宗の大本山・本圀寺があり、毎朝6時には梵鐘から大音響で「時の鐘」が鳴り響きます。疎水の南側をJR東海道線、湖西線が走り、通勤電車・貨物列車、京阪電車京津線の走車音が響きます。疎水運河の流れの両側には、遊歩道が整備され、早朝5時でも6時でも、ジョギングをするひと、犬をつれて散歩するひと、おしゃべりをして歩くオバチャン達がいて、クマは近寄ってこないと勝手に納得して自分にいいきかせていますが、本当に安全なのかどうか・・・・。
以前、何かで読んだ記事を思い出しました。北海道に生息するヒグマはもともと、肉食動物だったそうです。河川を遡上するサケや、大量に生息していたエゾシカを主食としていたようです。ところが明治時代以後、人間が北海道へ侵入し始め、サケもエゾシカも人間が食料として食べ尽くしてしまいました。原住民のアイヌ民族は、それらの動物を獲り尽くすことは愚かなことだと知っていて、獲物を神 ( 自然 ) からの恵みとして、生きてゆくうえでの必要量以上には捕獲せず、資源として均衡を保っていました。ところが、本州から侵入してきた日本人は、明治になっての悪いクセ、「富国強兵」「殖産興業」精神に侵され、どんどん林野を切り開き、農地、居住地を広げてゆき、その食料需要を満たすために、サケもエゾシカもウサギも獲り尽くし、特にエゾシカは根こそぎ食べ尽くしてしまったそうです。当然ヒグマは主食だった肉類を得ることが不可能になって、仕方なく草食動物に変わったと言います。しかし、忘れてはいけません。ヒグマのDNAの中には「肉食動物」の血が眠っています。時に人間を襲って食べたり、2019年から2023年にかけて標茶町と厚岸町で飼育中の牛66頭を襲い、32頭を殺したOSO18 ( オソ18 ) のような凶暴な個体が出現したりするのです。人間が自然を歪めてしまった事実として、気候変動・温暖化とともに、反省材料として忘れてはならない事例です。
学校を卒業後、東京で働いていた私ですが、2年ほどして京都の親から「帰ってこい」という強烈な働き掛けがありました。理由は告げられず、毎回毎回、職場まで電話が来て、閉口していました。東京での生活は、超貧乏でしたが、自由を満喫し、将来への夢もありました。そこへしつっこい連絡が度重なって入り、 ( 一体、実家で何が起こっているのか ) と不明ながら心配にもなりました。まだ23歳でしたので、 ( 一度帰ってみて、問題があればそれを解決し、それからまた、東京へ戻って再出発すればイイか ) と安易に考えたのが失敗でした。それでもすぐに帰省する気にはならず、上野駅から北海道へ向かう汽車に乗りました。彷徨える青春旅のはじまりでした。一昼夜かけて旭川へ着き、目的もなく地図を頼りに大雪山旭岳の山中、「勇駒別」という温泉へバスでむかい、その頃はたった一軒家だった小さな宿へ着いて、夕食を待っていた時刻だったと思います。いきなり中年の男性が、真っ青な顔をして息せき切って、玄関へ転がり込んできました。そのひとはその旅館のご主人で、歩いて帰ってきた道で、茂みから出てきたヒグマに遭遇し、10分余り至近距離でにらみ合っていたと言います。生きた心地がしないまま、にらみ合っていたあと、ヒグマはスーと茂みに戻っていき、ご主人は慌てて走って帰ってきたそうです。 私は改めて、 ( 大変なところへ来たナ ) という気がしたものです。 悩みながら約1か月北海道を彷徨い、それから家業に就いた地獄の10年のはじまりでした。
今、81歳になって毎朝、さほど身の危険を感じずに行っている散歩ですが、さすがに毎日、クマによる人身事故のニュースに接すると、少し不安になってきます。今朝から、散歩時、薪割り用のナタを腰につけて行くようにしました。このトシで、手術によって体重20kg近く落ちた身体で、クマに襲われたとき「ナタを持って何ができるのか ? 」と皆さんに笑われそうですが、徒手空拳でやられるよりは、負傷するにしても殺されるにしても、せめて一撃か二撃の抵抗ができる気持ちを持ちたいと、まだまだ吾輩はカラ元気なオトコノコです。長生きできたナーと実感しています。
疎水の小径に落ちているクヌギのドングリ
クヌギのドングリと殻斗
( 追伸・ブログ )
こうも毎日、クマ出没や人身被害のニュースが流れ続けると、ご近所の家庭は、我が家のたわわに実った柿の木を見て、 ( 柿の実を目当てに、クマがやってくるのではないか ? ) と心配されているかも知れません。今朝、出勤前の時間、柿の実を一生懸命収穫しました。時間がなくて、甘柿は全部収穫しましたが、渋柿まで手が回らず、来週に渋柿を全部収穫するつもりです。なんとなく、物騒ですナ。