時の流れが速すぎる

 

勤務先の近く、古い豆腐屋がありました。親爺ひとりが頑張って豆腐を作っていました。配達はせず、店頭で販売するだけ。時々タッパウェアを持って買いに行ってました。以前買いに行った後、半月ほどして、買いに行って見ると店は閉まっていて、豆腐は買えませんでした。それからしばらくして、前を通ると古い建物は取り壊され、更地になっていて、その後コイン・パーキングになってしまいました。今、ほとんどの人は豆腐を豆腐屋ではなく、スーパー・マーケットの食品売り場で買っているのでしょう。自宅から地下鉄のひとつ離れた駅に、ターミナル・ビルがあります。4階に文房具店があって、家内が地下の食料品売り場で買い物をしているあいだ、私は用がなくても立ち寄ります。文房具店は見ているだけで、好きで楽しいのです。万年筆、便箋、封筒、ノート、手帳、メッセージ・カードなどなど。しかし、考えればこれらはすべて、今の時代パソコンとスマート・フォンで用が足せるのです。メモ、メール、辞書、予定表、電話、LINE・・・・・。文字のタッチ、色、紙の風合いなどにこだわれば、文房具に軍配が上がるのですが、収納や写真送付、リアル・タイムの交信などでは、パソコン、スマホには勝てません。いつも立ち寄っていたこの文房具屋さん、この3月末で閉店しました。

 

日本中の書店が減って行ってます。書店に立ち寄り、あれこれと本を手にして、見て調べている時間は、読書好きには楽しいものでしょう。書店には取次と呼ばれる問屋から、毎日数回トラックが入ってきて、たくさんの書籍が降ろされるそうです。書店主は、それを1冊1冊見て、販売棚に並べる売れそうな本と、返品する本を選びます。毎日その作業に追われると聞きます。もちろん、返品される本の方が圧倒的に多く、ほとんどの本は読者に読まれることなく、出版元へ帰って行くそうです。「あなたの原稿を本にしませんか」なんて広告を見かけます。内容も価値もどうでも良くて、出版料金さえ支払ってくれれば商売になるとの魂胆です。返品され、出版元に山のように積み上げられ、廃棄されるこの無駄な在庫本の存在を考えるとき、書店がなくなって行くのを嘆く向きもおられますが、捜しているテーマ、問題を瞬時に見つけられて、玄関まで届けてくれるAmazonをむげに批判はできません。更にKindleというパネルを持っていますと、電子出版されている本が、すぐに安価にダウンロードして読めます。著作権期限の切れた本は無料。野鳥類の図鑑をダウンロードしたら、調べている鳥の鳴き声が収められていてパネルから聞こえました。もちろん印刷された本ではありませんので、場所をとらず、印刷された紙はなく、不良在庫問題もありません。

6年前に我が会社を移転しました。現在首都圏で生活している同輩に、「この頃、キミの生家の前を良く通る」とメールしました。同輩から「生家を東へ50メートル行った○○湯へいつも通っていた」と銭湯を懐かしむ返事が戻って来ました。ところがその銭湯、照明が消えたまま、のれんも出ていないままでした。先日、前を通ったら、建物が取り壊されていました。古くから「浮世床」と並んで「浮世風呂」という言葉があるように、銭湯は庶民の交流の場。広くて深い湯船に浸かれる開放感が好きで、私は良く銭湯を利用します。しかし、徐々に銭湯にも、閉店が忍び寄ってきているようです。

60年前私の学生時代、日本にも「大量生産・大量消費」の波が押し寄せ、スーパー・マーケット文化が花開きました。ジャスコ、ニチイ、ダイエーイトーヨーカドーイズミヤ・・・・。それから60年、食料品はスーパーで買い物することが定着、街角からまず魚屋が姿を消し、酒屋、米屋も消え、八百屋と肉屋が細々と残っているのみです。薬局は医薬分業とかで、調剤薬局になって残りましたものの、大手薬局の売り場は、まるでスーパー・マーケットです。

    

こうして時の流れを見渡して、世の中の変遷を体験していると、これで良いのかと思ってしまいます。ダーウインは進化論を述べた著書「種の起源」の中で「環境変化の中で生き残るのは、最も強い個体ではなく、賢い個体でもなく、変化に適応できる個体だけだ」と述べたと聞き及びました。時の速い流れの中で、コロナ・ウイルス蔓延が更に追い打ちをかけ、負けて消滅して行く商売がたくさん見受けられます。そんな中、気になっているのが、テレビのトーク番組に出演してきて、勝ち誇ったように「負け商売」を小馬鹿にしている美術工芸会社、社長のガイジンAです。Aは言います。「日本の零細企業は生産性が低い。厚生年金の掛け金ぐらい負担できない企業は、生産性が低いんだから退場すべきだ」と。これを聞いていると。腹がたちます。永らく継続してきた日本の伝統的企業は、それほどカネ儲け一辺倒ではありません。世の中に対して、取引先に対して、つつましい額の利益を、適正利潤としてやってきました。その零細企業にも行政は、どんどん税金を課し、労働を悪として「働くな」と言い、将来の退職金、年金の負担をかぶせてきました。零細企業の適正利潤と、国家や自治体という行政が課す負担のあいだには、「勘定」が釣り合っていないのです。行政は毎年毎年、予算が増幅します。減ることはありません。これを「パーキンソンの法則」と言います。英国の歴史学者政治学者シリル・パーキンソンが行政組織を研究して導き出した法則です。行政の「仕事量は、完成のために与えられた時間をすべて満たすまで膨張する」「支出の額は、収入の額に達するまで膨張する」という研究結果です。毎年、経済が成長を続ければ何とかなるのですが、一旦成長がマイナスに振れれば、そうは行きません。自治体の中には、退職間際の職員の労働時間を、1日8時間にならないようにして、正規の職員を非正規労働者にしようとする動きがあるそうです。金欠で退職金を支払いきれない苦肉の策、非正規だと退職金の支給はありません。それも結構多くの自治体でやってるらしい。ですから、赤字の零細企業にもゼニ払わせようと、固定資産税を上げつづけ、厚生年金の負担を押しつけるのです。それに賛同しているガイジンAの論理は、要するに「もっとガメつく儲けろ」ということです。西欧人がすべて「カネの亡者」とは言いませんが、弓矢しか武器をもっていなかったアフリカの人々を銃で制圧し、奴隷売買を行い、大航海時代、南の国々民族を圧して植民地とし、ボロ儲けを行った歴史があります。対して、日本をはじめ穏やかな民族は、自然の恩恵に感謝することを知っていました。日々食べて行ける分だけ、自然からの恵みとして頂戴し、それ以上を獲ることは強欲で恥と感じていました。そのおかげで、資源は守られ、永い持続可能な安定した社会が成立していたのです。漁場に集まった船団は、どの船もそこそこの収穫を分けあって共存してきたのです。Aの論理は、その船団の中で、われの船だけ格段に大漁乱獲を企てるやり方です。そしてほかの船に「キミ等は生産性が低い」と恥ずかしげもなく言ってるのと同じです。どの船もわれ先に、目いっぱい獲れるだけ獲れば、資源が枯渇してしまいます。「漁獲制限」が検討される事態は、明らかに日本のルールから逸脱しています。聞けばAは政府や自治体の顧問を務め、議員や行政官たちは、そのご託宣を有り難く拝聴しているようです。これは間違っています。我々がいにしえから守ってきたルールを捨ててはいけません。日本の「恥の文化」をもう一度考え直す機会だと思います。それを忘れてツッ走ると、必ず手痛いシッペ返しを喰らうに違いありません。永らく続いてきた良い日本文化を、西欧人のゼニ感覚で滅ぼしてはいけません。

 

人生が二度あれば

餓鬼道図         ameblo.jpから
私の人生、80歳を過ぎました。近頃、何かにつけて、つい自分につぶやくのです。「人生が二度あれば」と・・・。しかもこの言葉、あるメロディーを伴ってつぶやいています。そう、和製フォーク・シンガー井上陽水が歌った同名の曲です。この歌は、彼の1枚目のアルバム「断絶」に収録された曲で、そのアルバム全曲は作詞・作曲、井上陽水です。「傘がない」というヒット曲も収められています。「人生が二度あれば」は、仕事に追われて年老いた父と、子育てだけに人生を費やした母とが、こたつでお茶を飲みながら、若い頃を話し合っている風景を歌った曲です。そんな親を見ていると、「人生が誰のためにあるのかわからない」と・・・・。そして「人生が二度あれば。この人生が二度あれば」と歌います。

若者の中には「自分が何をしたいのか見つからない」とか「人生の目標が見つからない」と言うひとがいます。私は逆でした。20代の早くから、これを追いかけて歩んで行こうという明確な目標がありました。学生時代、所属していたサークルの2年先輩Wさんが書かれた論文を読み、感銘を受け、そのW先輩の背中を見てやって行こうと思っていました。それが、私が学校卒業間際の立春の日、羽田空港へ向かっていた全日空機が東京湾に墜落、W先輩はその便に搭乗していて、事故死。25年ぐらいの短い人生でした。彼は大手広告代理店に就職、札幌出張からの帰途でした。いま振り返ると「人生が二度あれば」とつくづく思います。W先輩の背中が見えなくなった私は、卒業後ふるさとを離れてひとり暮らしを続けながら、その目標はますます大きくふくらんで行きました。ひとり暮らしは、気楽で自由にあふれていた時代でした。乏しい稼ぎで、喰うに困る生活で、一杯いっぱいでしたが。そんな生活も、人生の目標も、卒業後2年でヘシ折られます。家業が傾き、無理やり実家へ連れ戻される事態となりました。「家業を継がなくてもよい」という親との約束は反故にされ、「世の中で一番やりたくない職業」に取り組んで50数年、今つい、つぶやいてしまいます。「人生が二度あれば」と。

私のように、思い通りに行かなかった人生経験者は、世の中で大半だと思います。

何もかも上手く行って、結構な人生を歩んだひとなど、ごくごく少数のはずです。それでも言いますか ? 「こんなに幸運・結構だった過去を振り返り、もう一度「人生が二度あれば」と ??? 。人生に目標を見つけられず、無為に過ごしてしまったひともおられるでしょう。道に迷い、右往左往したことを悔いてつぶやきます。「人生が二度あれば」と。

輪廻六道のうち、喰っても喰っても、まだまだ喰いたい状態を餓鬼道と言います。人生の目標を先に見据えているのに、そこへ一歩も近づけない。この様に私のような喰いたいのに喰えない状態も、餓鬼道なんでしょう。ひるがえって、我が女房殿を見ていると、3人の子供を育てたあと、今はお茶会、食事会、たまに歌舞伎鑑賞など、友達との交友優先、人生に悔いがあるのかないのか、わかりません。「人生が二度あれば」などと見受けられないのは、不思議でもあります。ひとそれぞれ、人生いろいろ。私のように、夢・願いを追いかけて、餓鬼道、修羅道をのたうち回って、釈迦力に喘ぎながら「後悔」に苛まれ「人生が二度あれば」とつぶやくのも人生。風のごとく水のごとく、すべてを「あるがまま」に受け入れて、「一度限り」の人生に満足して、自然のままに生きるのも「人生」なんでしょう。80歳になって「人生が二度あれば」などと思いながら、正直、「疲れました」と言うのが私の実感です。

「生きザマ」という言葉はおかしい

写真はAdobe Stock より

最近、よく耳にする言葉で、いつも気になっているのが「生きザマ」という言葉です。「死にザマ」という言葉はあります。れっきとした言葉としてあります。「死に様」と書きます。「ザマ」とは「みっともない様子」を表現する言葉です。「見ろ ! 案の定、このザマだ 」とか「何てザマだ」などと使います。それがいつしか、生きている格好を表現する意味で間違った使い方をして、あたかも「格好イイ生き方」として褒め言葉のように使われはじめました。「ザマ」と言う限りは、スマートに楽々というニュアンスではなく、「必死にあえぎ喘ぎ」生きている感じに受け取ってしまいますが、ひとによっては、スマートに誇らしげな生き方のように使っているようなことがあります。「これが男の生きザマです」なんて平気で使っています。しかし、おかしいのです。調子に乗って傲慢極まりないひとが、躓いて取り返しのつかない不運で惨めな状態におちいったとき「ザマー見ろ」なんて言い方をするのです。「ザマ」とはそんな言葉です。

とは言うものの

言葉は時の流れとともに変化するもののようです。平安時代の文章にたびたび登場する「いとをかし」という言葉、現代語で解釈すれば「ずいぶん変だ」とか「大変不審である」とか「凄く面白い」とかになるのでしょう。古文の授業で習ったとおり、平安時代には「非常に興味深い」とか「味わいがある」というイイ意味に使われていました。

清少納言は「枕草紙」という随筆で、

春はあけぼの。やうやう白くなりゆく山ぎは、すこしあかりて、紫だちたる雲のほそくたなびきたる。
 夏は夜。月のころはさらなり。やみもなほ、蛍の多く飛びちがひたる。また、 ただ一つ二つなど、ほのかにうち光りて行くもをかし。雨など降るもをかし
 秋は夕暮れ。夕日のさして山の端いと近うなりたるに、烏の寝どころへ行く とて、三つ四つ、二つ三つなど、飛びいそぐさへあはれなり。まいて雁などの つらねたるが、いと小さく見ゆるはいとをかし

 

と「イイね」の表現に使っています。「飛びいそぐさへあはれなり」とありますが、

ご存じの通り「あはれ」「もののあはれ」とは「しみじみとした趣がある、すばらしい」との表現です。もちろん「いたましい」とか「かわいそう」だとかの意味も含まれているようです。

鎌倉時代初期に編纂された「新古今集・秋上」で西行法師は

「心なき身にもあはれは知られけり鴫立つ沢の秋の夕暮れ」

と詠んでいます。「寂しさ、粋、無常」などがひしひしと心に響いてくる歌です。こうして、古人先人の言葉、日本文化を思い起こしてみると、その上品さ、折り目正しさを感じて、背筋をピンと伸ばしたくなるのです。

今の若者達が、「マジ」で「ヤバい」とか、「ウザい」「キモい」と言っているのを聞くと、願わくばそれらは一時的な流行で、せめてスラング(俗語)ぐらいになって、早く消えてくれないかと思います。更に言えば「めっちゃオモロイ」なんて言います。男子が使っている内はまだいいのですが、若い女の子までが言います。この「オモロイ」と言う言葉、大阪のお笑い芸人の影響でしょうか、余り上品な表現ではありません。女の子は「オモ」と「ロイ」の間に、「シ」を入れて、→「オモしロイ」と言った方がよろしい。私自身、こうして文句や小言を言い出すと、前々回のブログで書いた、我が爺さんに似てきました。この辺にしておきましょう。とにかく「生きザマ」という言葉が、電波メディアばかりでなく、印刷メディアの中でまで市民権を獲得しつつある状況を見ると、いささかこころが暗くなるのです。「生きザマ」という言葉は「おかしい」→この場合の「オカシイ」は古文で言う「いとをかし」の「興味深い」とか「味わいがある」とかの意味ではありません。正真正銘の現代語「変だヨ、間違ってるヨ」の意味です。念のため。

そして誰もいなくなった

写真はGetty Imagesから

そして誰もいなくなった「and Then There Were None」。これはアガサ・クリスティをベストセラー小説家にしたミステリー作品の題名です。販売数は、歴代世界で6番目に売れた書籍だそうです。

この数年、アメリカで「トランプ現象」とでも言うべき現象が起こっており、(これ一体何なんだ ? ) と不思議に思っていました。ドナルド・トランプ共和党という政党内での人気はもちろん、前々回 ( 2017年 ) の大統領選挙で、民主党ヒラリー・クリントンを破って当選しました。前回の大統領戦では、民主党ジョー・バイデンに敗れましたが、得票数は僅差で、皆さんご存じのように、今年11月の選挙に向けて、共和党予備選で圧倒的な強さを示しています。彼の掲げる政治姿勢は「アメリカ第一主義-アメリカ・ファースト」です。

私はこのブログで、日本の現状を、「現場を軽んじる危険な国」として警告し続けてきました。若者に教育の大切さを示すのはいいのですが、それは多くの意味で「学問」や「創造性」への導きではなく、なんとなく「有利な就職」への切符を手に入れようとする行為に見えます。結果、基礎研究 ( 科学 ) や現場での開発 ( 技術 ) という「学問」から乖離し、目的のほとんどが 、( 楽して暮らしたい ) デスク・ワーク事務職への就職希望となってしまっています。私の小学生時代、昭和20年~30年代は、就労人口の内「農業」従事者が、圧倒的多数を占めていたようです。私の町京都では親の職業は、商店・飲食業・職人・運送業など現場労働がほとんどでした。そんな中で、親が夕方に帰宅し、一家揃って夕食の卓を囲める職業がありました。会社員です。我らワル餓鬼が日が暮れても遊び続けていたのに対し、会社員の家庭の子供には、「ご飯ですヨー」と迎えがくるのです。残された子供どもは、なんとなく寂しさを感じ、会社員の家庭が「特権階級」に思えたものです。そして日本は高度成長に向かって驀進し、農村の子供達は都会へ集団就職、都会の子供達は進学率が上昇し、大学へと向かいました。そして大学卒業後は「現場職」よりも「事務職または営業職」への移行が大きな流れとなってしまいました。「トレンド」と言う言葉があります。世の中の流れが、ある一定の方向に向かって流れ始めますと、逆らえません。「トレンド」です。魚屋も八百屋も豆腐屋も、スーパー・マーケットの波に呑み込まれ、無くなりました。町を歩いてみて下さい。「サンマのいいのが入ってるヨー」「朝堀のタケノコ、どうですか」と叫んでいたオヤジ達はもういません。「そして誰もいなくなった」状態です。そのスーパー・マーケットもコンビニエンス・ストアーに喰われかけています。24時間営業のコンビニは便利で有り難いのですが、店員不足に苦しんでいます。外国人の店員が多くなりました。林立するホテルの客室清掃やベッド・メイキングはネパール国からの婦人などが担っています。日本は移民入国に厳しいと言われていますが、それらの労働は「技能実習生」なんて誤魔化しながら、移民が補っている現状です。「そして誰もいなくなった」のが農業、販売、引っ越し作業、製造業などなど日本人の現場労働者です。これだけ現場労働が軽視されれば、国が回っていかなくなる危険があります。鉄道の保線作業を行うひとがいなくなれば、電車は走らなくなります。建設業の人手不足で、道路や橋の維持は難しくなります。介護士不足は、長年にわたり深刻な状態です。「現場労働が嫌われる」これが日本の特徴だとすれば、反面、アメリカではそれらの労働を厭わず従事する人々が普通に多数いるようです。階級社会の特徴かも知れません。すでに衰退してしまった産業が残る、Rust Belt銹錆地帯と呼ばれる地域には、衰退した産業で転職せずに就労している労働者が多数いて、トランプのスローガン「アメリカ第一主義America First」、かっての栄光を取り戻そうとするムードに呼応しているようです。 だから、移民の流入には大反対。「オレの仕事が奪われる」。ここが日本の労働形態との決定的な違いで、こう分析してみて、やっとトランプ現象がおぼろげに理解でき始めたところです。詰まるところ、これは現場労働者とEstablishment「社会的に確立した体制・制度」やそれを代表する「支配階級」とのせめぎ合いです。銹錆地帯や南部農村部と東海岸の高学歴エリートとの対立、分断。ドナルド・トランプとは、アンチEstablishmentが票になると察知したアメリカ人なんだと言えるでしょう。

 

 

祖父の命日

いつも朝起きると、お仏壇に水を供え、ローソクに点火し線香を炊きます。その前に過去帳、今日の日のページを開きます。今日は2月24日、母方の祖父の命日でした。亡くなったのは昭和35年(西暦1960年)、私が高校1年生の時です。丁度、中間テストでしたか学期末テストの最中で、少し迷いながらも、テストを優先し2日後の葬式を欠席しました。葬式の翌日の朝のことだったと思います。一夜漬けの試験勉強、徹夜してウトウトと居眠りに入った時、「コラッ」と言う大声とともに頭をガツーンと殴られた感じがあり、飛び起きました。ゾッとしました。(まぎれもなく爺さんの声、葬式に出なかったことを怒ってるンや !  )。この不思議な幻覚は、今でもはっきり覚えています。それまで一緒に暮らしたこともなく、接点の少ないひとでした。それが亡くなる前、健康を害してからは、当家や長男(私の叔父)宅を行ったり来たり。祖父はよく文句や小言をいうひとでした。気位の高いひとでもありました。生意気盛りの高校生だった私とは、当然合いません。表だって喧嘩をしたわけではありませんが、何となく疎ましい存在でした。祖母(祖父の妻)とは、とっくに数十年間別居の夫婦状態で、祖母は我が家に身を寄せていました。私と妹は、その祖母が母代わりのようになって育ててくれましたので、そのことも祖父とは合わなかった原因かも知れません。亡くなって「2日後に葬式」と聞いたとき、まだ続いていたテスト優先、葬式欠席を決めてしまいました。「コラッ」頭をガツーン。仏壇に水や線香を供える朝、過去帳の2月24日を開くたびに、この幻覚体験を思い出します。

昨年末、私は仕事場の事務所で、めまいに襲われました。天井も床もグルグル回って立っていられません。このトシでもまだクルマを運転して通勤していますが、その日はとても運転は無理でした。仕方なく娘に運転してもらい、帰宅しました。翌日1日仕事を休み、睡眠をとって回復しました。その翌日、高校2年生になる孫娘がやってきて言うのです。「お爺ちゃん、死なんといてヤー」。意外でした。(へー ? ちょっとは心配してくれてるンや )。また、東京で暮らしている娘夫婦が、年に1~2回家族でやって来ます。今年小学校へ上がる孫娘が東京へ帰るとき、いつも手のひらを掲げて「お爺ちゃん、ハイ・タッチー」とタッチを求めてきます。どうやら、孫達には今のところ嫌われていないようです。行儀・しつけは別にして、教育(宿題も含む)や遊びに口出ししないこと。くどく関わり合いを持たないこと。多少のことは受け流すこと。小学校高学年ぐらいになってくると、両親や祖父母よりも、友達の方が大切になってくる・・・などなど、孫に嫌がられない方策を自覚できるようになりました。これらは、先述の祖父から「反面教師」として学んだことです。こうして孫達とは、良好な淡交関係が保たれています。

祖父とは1回だけ、ふたりで一緒に外出した思い出があります。まだ幼かった頃、祖父と京都御苑 ( 京都のひとは「御所」と言います ) の一般公開見学に同行したことです。祖父に連れられて行った思い出は、後にも先にもこれだけです。どうして私だけが連れられていったのか、いまだに合点がゆきません。祖父が亡くなった時期、高校1年から3年にかけては、私の人生にとって大きな転換点でした。孤独で寂しく、つらく、しかし必死にもがいていました。結果、何とか道が開けたように思います。今日あるのはそのお陰。懐かしい日々です。祖父の命日2月24日には、これらのことを、いつも思い出しています。

右の石垣の内側が京都御苑(=京都御所)



 

 

ひがみ・ねたみ の国民性

もう立春も過ぎてしまいました。柿の木と柚子の木に遅まきながら、忘れていた寒肥を施しました。夏の土用にまた施肥します。今秋も豊かに結実するでしょうか。

毎日、政治のニュースを見ていると、国会議員パーティー券のキック・バック、不記載、何に使ったか ? 統一教会の選挙応援、推薦確認状の授受などなどが報じられています。トーク番組では、議員の年間収支、選挙費用なども明らかにされ始めています。衆議院であれ参議院であれ、過去1期か2期、議員を経験した人物からは、「年間収支カツカツで、秘書給与を支払うのが精一杯」だったとか、「借金が残りました」なんて、何と寂しい話しばかりが聞こえてきます。とにかくケチなお金のレベルの話しです。昭和が終わるころまでは、国会議員とはリッチな職業で、善し悪しは別にして、お妾さんのひとりやふたりぐらいは抱えているもの、国民も(そんなもんだと)許容している風潮でした。みなさん、国会議員に「身の清廉潔白」を求めますか ? 「少々のことには目をつぶって、国を動かす仕事の出来不出来」を求めますか ? 私は、報道機関を含め野党と国民が、国会議員(主に与党の)に「清廉潔白」を求めるあまり、今の日本のチマチマした現状を招いていると嘆いています。人間、自分のフトコロに入ってくるカネ、出て行くカネの惨めさを、毎日体験していると、スケールもその規模に縮んで行きます。震災への復旧支援にしてもケチケチ小出し、作る法案も重箱の隅をつつくようなものばかり。国の向かうべき方向を、大きく導くような高所からのものは見当たりません。この風潮はそろそろ変えるべき時にきています。世界では大国と言われる国のリーダーが、嘘の大義を掲げて隣国に戦争しかけてみたり、行き当たりバッタリ、何をしでかすか分からない幼稚な男が、大統領に選ばれそうになっています。アフリカでは、資源や利権をめぐって民族間での紛争、内戦、人口爆発による食糧危機、人間活動の活発化が導く地球温暖化、宗教教義がそのまま国家の法律に取って変わってしまった国民の悲劇、イデオロギー国家の中央集権権力による国民抑圧、人権侵害などなど、日本の政治が余程しっかりしないと、対処できない問題が頻発しています。そんな状況で今の日本の政治は、あまりにも小さく枝葉末梢にこだわりすぎています。

日本国民には顕著なふたつの特徴があります。ひとつは「おおらかで、和を尊ぶ」民族性です。災害や危機でも、我を押し出さずお互いに譲り合います。その結果混乱を招かず、平穏に収まって行きます。これは世界のひとびとが賞賛する良き特徴です。もうひとつは、これは困った性格で、「ねたみ・ひがみ根性」が抜けないことです。「出る杭は打たれる」の格言通り、他人の幸福・成功が許せないのです。日本人が政治に目覚め、関心が高まるほど、「ねたみ・ひがみ」が頭をもたげてきます。その結果、ドーでも良いような、およそ政治の大義からはほど遠い、細かい事象をさも大事のように、取り上げてしまいます。さらに、政治家にお金が集まるのが許せないのです。大阪を中心に躍進したN政党は、この心理に迎合して、「自ら身を切る政治改革」と称し、「議員の報酬を減額せよ」と訴えています。バカです。ちょっとした民間企業のトップであれば、年収は5千万円や1億円になります。国会議員の経費を差し引いた手取りの年収が、1億円ぐらいあってもイイではありませんか。それくらいの能力を備えたひとに、国政を担って貰わなければ困ります。これは民主主義の必要経費なんですから。加えていつしか、議員の年金制度は廃止されて、退職後の保証はありません。これも議員が優遇されていると言った間違ったヒガミが招いた結果です。これではまともな人間は、国会議員を目指さないことになってしまいます。結果、意欲にあふれたスケールの大きな人材が逃げてしまう職業になってしまいました。国会議員には「立法」と「国政調査」の仕事があるそうです。所が野党がやっているのは「国政調査」の一面ばかり、大臣や行政官のミス・不手際をツツくことにばかりに血道を上げています。前回の衆議院議員選挙で、大阪府T市とS町選出だったT女性議員が落選しました。私はこの人物を「日本人の恥」と思っていましたから、胸が透く思いでした。「有権者は良く見ているナ、捨てたモンじゃないネ」と感動しました。しかし、次の参議院議員選挙に、また立候補し、当選してきたのです。今またあんな人物が、まぎれもなく「日本の国会議員」です。実状、彼女は立法府の議員と言うよりは「プロレスラー」です。国会という国民の面前(リング上)で、大臣、与党議員、行政官をサンドバッグさながら、殴打に殴打することが仕事だと思っているようです。「あなたは疑惑の総合商社と言われていますが、疑惑のデパートじゃないですか ? 」「あっヤバイと思ったんじゃないですか ? 」。・・・ムムム、これが国会審議でしようか ? しかも本人は以前、架空の秘書給与を計上し、フトコロに入れて刑事訴追され有罪判決を喰らっています。それでも ( 恥ずかしげもなく、よくもあんなにプロレスが演じられるなァ ) と呆れます。以前、彼女が所属していた日本S党は、1960年当時自民党と並んで、日本を二分する大勢力でした。それが国家の「大義」や「立法」を忘れ、「国政調査」というプロレスばかりを演じて正義の味方ぶることを続けました。結果国民から飽きられ、その凋落の激しさは目を覆うばかり、いつしか霧消してしまいました。国民はバカではありません。今のすべての野党も、このプロレスラー病にかかっています。自民党がどれほど失敗を重ねても、野党の支持率が上がらないのはそのためです。これに気づかず、立法作業を忘れがちになるのは、「正義の味方ぶる味」が麻薬のような依存症の蜜の味を内包しているからに違いありません。与党議員もカネに困り、ビンボー議員ばかりです。パワーや才能に溢れた議員は、ほとんど見当たりません。この状態は、野党にとってチャンスのはずですが、野党議員もビンボーに慣れて人材不足、国家を担う国会議員全体がビンボー慣れの情けない現状です。国家にまともな指導者がいない状態、これは危険です。国を動かす人材には、スケールの大きな人間が必要です。

私たちは土壌を改良し、肥料を施して豊かな農地を作ることで、良い作物が収穫できることを自然から学んでいます。土壌としての収支が貧困な職業には、豊かな作物果実は実りません。当然その打開策は報酬の引き上げと、退職後の充実した年金です。皆さん、そろそろ、ケチらずに、議員報酬を大幅に引き上げ、議員年金制度を復活して、国会議員をマトモな職業にする以外、手がないのに気づいて下さい。ある程度のコスト高は「当然経費」として受け入れて下さい。ひがみ・ねたみ根性で批判しないようにお願いします。

50年間の逃亡

昭和49年から50年にかけて、連続企業爆破事件にかかわった桐島 聡容疑者が神奈川県内の病院で死亡しました。享年70歳。私より10歳年下、20歳の時より指名手配され、50年間の逃亡でした。重篤な胃癌で入院中、偽名を使っていましたが、「最後は本名で死にたい」との意向で、指名手配中の「桐島 聡」だと病院に告げ、病院からの通報で警視庁公安部により、入院のまま身柄確保にいたったとの報道です。事件当時私は30歳、70年安保闘争のあと学生運動がくすぶり続け、浅間山荘事件など過激派事件が日常だった世相を思い出します。私が学生時代所属していたサークルは、アメリカの広告文化に根ざした大量消費時代の浮かれた学生の集まりでしたが、70年当時部室にはヘルメットとゲバ棒(角材)が山積みになっていたと聞き及びます。真偽不明ながら、サークル幹部の数人は、すんでの所で「よど号ハイジャック事件」に参加し損なったとも聞きました。そんな時代の雰囲気の中で桐島 聡は「東アジア反日武装戦線」に身を置き、連続企業爆破事件の実行犯として、爆弾テロに参加したものと思われます。私が学校を卒業した昭和41年は、その前々年に東京オリンピックが開催され「もはや戦後ではない」と言われた時代でした。それでも卒業後、企業に就職せず、海外に飛び出して行ったり、自力で商売を始めようかという、アナーキーな学生はいて、国家や企業に依存せずにやって行こうと考える奴等が一定割合いたものです。「青年は荒野を目指す」なんて気取りながら・・・。私も就職なんてする気はまったくなく、アルバイトをしながら、学生時代の延長のように暮らしていました。それが実家に引き戻され、借金を背負わされ、銀行や取引先の意向で強制的に社会のルールの枠に組み込まれて、反骨のアナーキー心がなくなっていったのは確かです。所帯を持つと、更に自由を失い、扶養義務、健康保険義務、年金支払い義務などなど、尖っていた部分が削られて、丸味を帯びて行く自身に辟易としていました。この世に生まれ落ちたとき、大自然からプレゼントされた、かけがえのない大切なものが、毎日失われて行く感覚に、歯ぎしりしながら・・・。ほんのちょっとした違いです。あの時私も自由人のままアナーキーに、友人と社会変革なんて議論し、熱に冒されていたら、テロという犯罪に染まっていたかも知れません。学生→就職→企業人へが既定路線と思って生きてこられた向きには、この感覚はご理解できないでしょう。桐島 聡容疑者は死の床で、警察官との会話中に「後悔している」と漏らしたそうです。痛いほど良く分かります。20歳の若気の至り、犯した犯罪で、あとの一生を50年間、逃亡で送る羽目になってしまいました。日本中の銭湯や交番の壁に、自分の顔写真が大きく貼り付けられ、「指名手配犯人 ! 」。胃癌で死期が迫り、最後は「自分の本名で死にたい」。人生の重みと悲しみが伝わってくるのです。