神様、仏様

「神様、仏様、稲尾様」。これは1958年の日本シリーズ三原脩監督率いる西鉄ライオンズが、読売ジャイアンツ(巨人)に3連敗し、次の2戦を連勝、あと1勝でタイ。2勝すれば大逆転で日本一のフラッグを手にすることができる状況で、地元福岡のスポーツ新聞見出しに書かれた言葉です。「神様、仏様、稲尾様!」。

前年1957年、稲尾和久投手はシーズン中20連勝をふくむ35勝。この年は33勝を上げています。現在の中5日や中6日登板からは、信じられない勝利数です。このシリーズも7戦中6戦に投げ、絶対のエースでした。ひとは絶体絶命の窮地に追い込まれたとき、自分の力ではどうにもならない現状を、何とかして欲しいと願望します。それが「神様、仏様」との言葉になります。

我が家には神棚がひとつと、仏壇がひとつあります。勤務先の仕事場には、祠がひとつと神棚がひとつあります。仏壇には毎朝、水をお供えし過去帳をその日に合わせ、線香を焚いて手を合わせます。毎月1日と15日には、祠と神棚の榊を取り替えて、水、お神酒、米、塩、赤飯をお供えし、二礼一拍一礼します。ここで神様と仏様(ご先祖様)に対峙するわけですが、「何とかして欲しい」とか「助けて欲しい」といったお願いはいたしません。苦しい時期ももちろんあるのですが、痩せ我慢を張って、お願いはせず、毎日の「平安」と「無事」の感謝を捧げます。もうひとつ、お客様の安全も祈ります。

宗教とは「祈り」「願い」ですが、現世ご利益つまり「良い方向へ向けて欲しい」というのと、感謝「平穏・無事」を祈り、感謝するとの2つの面があるように思われます。今の所、私には現世ご利益ではなく、感謝を捧げることが宗教、つまり神様、仏様への向き合い方になっています。そりゃー私にも欲はありますし、イイ目もしてみたいけれど、いつも痩せ我慢を張って、感謝をするのが「神様、仏様」への対峙姿勢になっています。こんな風に、ちっとも頼ってこないヤツは神様、仏様にとって可愛くない存在かも知れません。

毎日報道されています、山梨県道志村で当時小学1年生の小倉美咲さんが行方不明になった事件、私がブログで余計なことを言って、捜査や社会の方々に影響することは懸念しますものの、私の小さな体験をひとこと。

高校生の頃、山岳部にも所属していた私は、ある日独りで京都市の西にある愛宕山へ登ってみることにしました。山陰線の保津峡駅国鉄を降りて、水尾から登り始めましたが、途中霧が出はじめ、視界が30メートルほどになってしまいました。そこで道に迷い、歩けど歩けど道はだんだん細くなって行きます。焦りはじめ、元来た道へ引き返しますが、いくつも分かれ道が出てきて、自分が来た道がわからなくなってしまいました。そして突然、恐怖に襲われました。そうすると動転してしまい、冷静に考えることができなくなります。焦りと恐怖にさいなまれ、ついに走り始めます。愛宕山京都市亀岡市の中間に立つ千メートル弱の山です。斜面を東へ降りれば京都市へ、西へ降りれば亀岡市へ、南へ行けば保津峡・老ノ坂国道9号線で、余程運悪く北へ向かっても京北町周山へたどりつくはずです。ところが動転すると、これらの判断はどこかへ行ってしまって、山奥へ山奥へ向かっている恐怖心に駆られます。走って走って疲れ果て、最終的に運良く、元来た水尾近くまで降りることができました。水尾では霧が晴れて、保津峡駅になんとかたどり着いて助かりました。それから教訓を得ました。①どんな小さな山でも、地理を知らない場合は「絶対に単独行はしない」→もしも、斜面から転げ落ちたり、怪我をしたときも独りではどうしようもない。②迷ったら一度立ち止まって冷静になるまで休憩する。③沢をみつけて水の流れに沿って下山する。水は最終的に海へ向かって流れている。

などです。

今回、道志村の山中で見つかった骨や靴などは、キャンプ場からかなり離れて、尾根を越えた沢で見つかっています。「小学1年生が、そんな距離を移動するのは考えられない」という意見も多く見られますが、私は、バニックになった時には、それ位は十分な移動距離だと思います。事件の可能性も視野に入れて調べられています。私の意見としては、道に迷えばあり得る距離だと感じました。ただこれは、私の個人意見として、参考にして下さい。美咲さんのお母さんが、神様、仏様に「無事帰ってきて、平穏な生活に戻れますよう」と祈られたのに残酷な結果になったようです。美咲さんの恐怖、孤独を思うと言葉にできない思いがあります。山の恐ろしさを皆さんに知って戴きたくて、書き加えました。

庭のサクランボが小さな実を付けています。



 

 

静かな日常

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今朝(4月3日)の朝刊、沢木耕太郎の一文があり、読んで(フフン、そうだネ)と思いました。沢木が東北のある都市を訪れ、夕食をしようと居酒屋を探していて、街頭でキャバクラの客引きから思いがけず教えられた店に行き、良い料理と酒に出会えた話しです。思えばこの3月、私は4本のブログを書いていますが、それはウクライナ戦争のことばかりでした。侵略戦争、爆撃の凄惨さに怒り狂って、プーチンのアホ行為を黙っていられませんでした。大体ブログやエッセーなんてものは、日常の何げないシーン、ちょっとしたこころ温まる小さな出来事をお洒落に書くものでしょう。読んだひとに(フフン、そうだネ)(ハハァ、いい話しだ)と思ってもらえば十分の行為です。私はこの3月は侵略戦争に感情を激昂させていて、ずいぶん逸脱していたと反省します。高校時代、授業中机に伏せて寝てばっかりの友人Sクンがいました。成績は悪かったのですが、音楽や映画、文学の他人が気づかない面白いものを見つけてくるのに長けていました。30代の頃、「面白い本があるヨ」と彼が教えてくれたのは、沢木耕太郎のノンフィクション「人の砂漠」でした。兄の遺体に添い寝して暮らし、餓死したお婆さんの話しや、天皇陛下を新年参賀の時パチンコ玉で撃った男、皇太子殿下ご成婚パレードで石を投げつけた少年のその後の人生を取材した話しなど、実にショッキングな内容でした。面白かったので更に本屋で「敗れざる者たち」を買って読んでみると、私が野球少年だった頃憧れた毎日オリオンズ榎本喜八選手の知られざる奇行に胸打たれ、1964年東京オリンピツク・マラソン銅メダルの円谷幸吉選手がメキシコ・オリンピックを前に自殺した経緯、その遺書の記述があり、やり切れない想いで読んだものです。沢木耕太郎はルポ・ライターとして出発し、10年ほどして日本社会党委員長浅沼稲次郎の刺殺犯を描いた「テロルの決算」で大宅壮一ノンフィクション賞を受賞して作家として認められます。「敗れざる者たち」は浅沼事件の3年前、「人の砂漠」は2年前に出版された作品で、まだほとんど無名だった沢木が、特異な人生をたどった人々を、好奇心に突き動かされ必死になって取材した熱意が随所に感じられる書物です。自暴自棄になった榎本喜八が猟銃をもって部屋に立て籠もったとき、奥さんから連絡を受けたプロ野球入りの恩師、荒川博が駆けつけて部屋へ入ると、天井へ向けて発砲したエピソードなど、まさに尋常でない出来事を次々に書き連ねた作家でした。その沢木が粋な客引きに出会って、思いがけない居酒屋で飲食できた幸運を、旅の醍醐味だと何でもない話しを何でもなく書いています。戦争の惨状を伝える映像や、人生の極端な不運、不条理、悲劇を追っかけて書くのではなく、日常に出会った小さな出来事に、人生の味を噛みしめることができるのは、何て良い事なんだと思えた朝刊の一文でした。沢木耕太郎を教えてくれたSクンは4年前に亡くなりました。人生のいろんな出来事が、我が身に沁みるのを感じるこの頃です。戦争も終結して早く平穏な「静かな日常」を取り戻したいものです。



 




大っき過ぎるのは良くない

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写真はクレムリン天安門 Pixabayから

世界地図を開いてみると、ユーラシア大陸の北にロシアという大国があります。その南、中央部にはまた中国という大国があります。我が日本国の領土よりも何十倍も広いこの二大国を見ていると、私はひとつの感慨に襲われます。それは私の半生にわたる格闘から導かれるもので、(よくまあ、こんな広い国を統治しているなァ)との思いが湧いてきます。

物事には何事にも「適正規模」というものがあって、大き過ぎても、小さ過ぎても上手く行かないものです。私は経営する我が家の家業を、5年前に縮小しました。装置産業と言えるような家業ですが、先代(我が親)は虚栄心のかたまりのような人でして、目いっぱい背伸びをして業種としては桁外れの広さの土地を手に入れ、無理に無理を重ねて経営を続けていました。業種としての適正規模をはるかに超えた経営が上手く行くはずがなく、いよいよ行き詰まり、学校を出て別の道を歩んでいた私が、自分の道を断念して、代わって経営しなくてはならない羽目に陥りました。当時、日本は高度成長期の真っ只中、朝、昼、夜、睡眠時間も削って、滅茶苦茶大車輪の忙しさ。そうして何とか借金も返せたころから、敷地規模の過大が重荷になりはじめました。それから約30年間、ほとんど利益も出ず、それでもなんとか借金も増やさずやってきましたが、振り返れば家業の維持に時間を浪費しただけの、虚しい想いが悔しく残ります。(いつまでも、こんなことを続けていられない)と思い立って、7年前に土地建物を売却、以前の土地面積の10分の1以下の面積土地を市中に購入、建物を建設し移転、5年前から営業を再開しました。そこへ2年前から新型コロナ・ウイルス蔓延、我が家業の業種はモロに影響を受け、売上げは激減しました。あのまま以前の規模で経営を続けていれば、間違いなく倒産していたはずです。しみじみと感じます。(過大な規模のものを所有していても、良いことは何もない !  )。昭和はじめ頃から日本国も領土拡大に邁進しましたが、確保したその領土維持に大変な思いを味わい、やがて後退を余儀なくされ、最後は国土が焦土と化しました。「身の丈を知る」のがいかに大切か経験したはずです。

ロシアのプーチン大統領は、1721年から200年間にわたったロシア帝国の復活を夢見ているようです。今回のウクライナ侵略を見ていると、帝国とそこそこ同じ規模だった、ソヴィエト連邦崩壊を目の当たりにした悔しさに怒り狂った所業に見えてきます。ソ連時代の不自由と、統制国家運営に懲り懲りした東欧諸国のロシア離れ、NATOへのなびきの原因を反省もせず、ウクライナという逃げた嫁ハンを追いかけて、力ずくでヨリを戻そうと焦っているような無様な姿が見てとれます。また、中国、習近平国家主席は、ユーラシア大陸の大部分を制圧したチンギス・カンよろしく、その広大な国土とともに、強大な経済力、軍事力を誇っています。自国の領土でもない海洋に人口島まで作って、近隣諸国と摩擦を起こしています。プーチンのモチベーションには、かって大繁栄した帝国への浅ましいまでの回帰、郷愁が感じられます。ジョージアチェチェンウクライナといった離反国に対し、執拗なまでの非人道的対処は、スターリンの粛正にも共通する残酷さを感じます。習近平新疆ウイグル自治区住民への圧政、チベット自立を目指すダライ・ラマ政権への威圧、南シナ海への進出は、飽くなき領土拡大欲求とも見て取れます。私は言ってやりたい。「プーチンよ、去る者は追わず、手放しなさい。南樺太も、北方四島も日本へ返してしまいなさい。感謝されて何もかも上手く行くよ。習近平よ、そんなに拡大ばかりに向かっていると、やがて崩壊するゾ。拡大欲求とは、虚栄心とメンツの裏返し。ウイグルチベットも独立国として認めて手放し、領土をいったん縮小してみろよ。ずいぶん楽になって、こころ休まるよ。君達はそれでも十分広大な領土をもっているんだから。アメリカだって大きすぎて、国民が二分されて困っているんだよ」と。

ウクライナ戦争2-民間人を殺すな !

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写真はPixabayより

2022年3月19日現在、ウクライナとロシアとの戦闘員同士の戦いは、膠着状態だと報道されているものの、非戦闘員である民間人への爆撃はますます激しくなってきています。そもそも民間人は戦争とは関係がないのです。18世紀ごろまでの戦争は、主に戦士同士の戦いでした。主にと断ったのはもちろん例外もあって、蒙古帝国のチンギス・カンなどは、武器を持たない農耕民を襲撃し収穫物を略奪しました。彼は「男の楽しみは殺戮、略奪、強姦だ」と言ってます。日本での関ヶ原の合戦のイメージでは、武士が東西に別れて戦い、近隣農民はクワをかついで、近くの丘の上から髙みの見物といった感じでした。19世紀に入って、ナポレオン戦争の後ぐらいから、男子には愛国心が求められ、普段から軍人でない男達も戦争に参加させられることになったようです。それは一般民衆が階級闘争の末の革命によって、君主や貴族から自立し、国民意識が国家を成立させた結果、国家間の戦争は兵士だけにとどまらず、一般市民をも巻き込んで行くことになります。19世紀始めの戦争から、気球が偵察に使われ、やがてエンジンをつけた飛行機が登場すると、偵察からしだいに爆撃への試みがなされて1920年代には航空母艦が建造されます。第一次、第二次世界大戦は、都市を砲撃・破壊する戦争となり男女年齢関係なく、非戦闘員を殺戮する戦争になってしまいました。今回ロシアのウクライナ侵攻でも、プーチンは「虐殺され、しいたげられている人々を救うための戦争」だと言いながら、その人々を砲撃するという辻褄の合わない行為を行っています。太平洋戦争の終盤、米国ルーズベルト大統領はマンハッタン計画と称する「原子爆弾開発」を命じました。開発が成功すると、はじめての核実験から1ヶ月もたたない1945年8月6日、ルーズベルト病死後就任したトルーマン大統領は広島の市街地中心部へ原子爆弾を投下しました。さらにその3日後、長崎へもうひとつ原子爆弾を投下したのは、広島のウラン型原爆と並行して開発していたプルトニウム型原爆も試して見たいという意味がありました。戦争を早期に終結させるためとの言い訳ですが、生身の人間が生活している都市の中心部への投下は、人的被害の実験場でもあったのです。すでに日本外地では日本軍が瀕死の状態まで追い込まれていたにもかかわらずです。1945年3月に入ると東京、名古屋、大阪、神戸の人口高密度地域へと相次いで大空襲を行いました。米軍は沖縄上陸後、沖縄日本軍を壊滅させ、県民の死者は10万人近くに上りました。どう考えても、軍人同士の戦争ではなく、いかに多くの民間人に被害を出すかが戦争の目的になったとしか考えられません。世界史を俯瞰すれば、一面では争いの歴史でもあります。最初の武器は投石や棒、やがて太刀、槍から弓矢となり、銃という火器の発明はそれを所持するしないで、支配、被支配を明確に分けました。銃を持って現れた西欧人に対して、槍や弓矢で抵抗してもアフリカ原住民に勝ち目はなく、奴隷貿易を成立させました。アメリカ新大陸の発見、米国の立国も銃による先住民への駆逐によってなされました。武器は銃にとどまることなく、大砲、爆弾、地雷、ミサイル、核兵器へと移って行きました。いま、ウクライナではミサイルによる爆撃が主とした攻撃です。誘導爆弾は目標に正確に着弾する爆弾だそうですが、ロシア軍はそれを使い切ったのか、あるいは高価だからか(無誘導爆弾の10倍高価)、はたまたわざと無差別攻撃を企てているのか、圧倒的に多数の無誘導爆弾をミサイルで打ち込んでいます。結果は非戦闘員の想像を絶する惨状です。

こうなってくると、どうしても考えてしまうのは、「神」の存在です。この現状は神の意志なのか、神はいるのかいないのか。ひとはいつも神に祈ります。神に頼ります。しかし、このむごい状態は何なのか。宗教論、神学論に行き着きます。そして、戦場よりも遠くにいる我々は何をすればよいのか。攻撃を続けるロシア(プーチン)を非難したり声明を出したり、いくら宣言を出しても始まりません。しないよりはマシと言う程度の、犬の遠吠えのようなものです。避難民への食料、衣服、医療品などの支援はもちろん大切です。しかし、事ここに至っては、夜間の状態をトレースできるレーダーは当然のこと、世界はウクライナへの武器だけでなく、軍用機の供与も行うべきです。ウクライナ政府からの志願兵呼びかけに、日本では元自衛官を中心に70名ほどの民間人が応募しているとの報道があります。日本政府は応募を認めず、取り下げるよう呼びかけています。本気で支援するのなら、知らん顔して応募の黙認をすべきです。「憲法!憲法!」なんて言わずに、武器も含めた実効性のある協力が何よりも必要です。

 

 

 

ウクライナ戦争・プーチンの狂気

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2月24日にロシアがウクライナに侵攻してから14日が経過し、これから総攻撃爆撃が予想されます。非戦闘員である住民への無差別攻撃、原発への爆撃、占拠、核兵器の使用までチラつかせるプーチンの行動は「狂気」としか言いようがありません。この正気の沙汰ではない出来事の報道を毎日目にすると、「スターリンの大粛正」を思い出します。レーニンが病死するとき、信用されていないスターリンは、実に上手くズル賢く立ち回って、ソビエト連邦の最高指導者につきました。しかし批判も多く、スターリンは批判者や政敵に対し徹底的な弾圧を行いました。スターリンのあと、ソ連の最高指導者となったフルシチョフ(生誕地はロシアですが、民族的にはウクライナ人)のもとに「スターリンの大粛正」として明るみに出た事実は、100万人とも200万人とも言われる銃殺刑の実行でした。処刑の人数が多すぎて、遺体を埋める穴掘りが間に合わなかったと言われるぐらいです。また終戦時、日本人にとっては忘れることができない「シベリア抑留」という悪行を行ったのもスターリンです。満州などにいた投降した軍人や民間人60万人を強制的に貨車に乗せ、シベリアへ連行。極寒のもとで満足な食糧も与えられず、強制労働で6万人が病死、餓死した事件です。今回のプーチンの悪行を見るにつけ、ロシアの指導者はどうしてこうも残酷なことができるのかと思います。そもそも、ソビエト連邦建設に際し、レーニンが遂行した共産主義革命とは、はっきりと「暴力革命」を標榜し、革命のためには「恐怖」と「暴力」が必要だとしてチェーカーと称する秘密警察組織を創設しました。貧農と搾取を受けている労働者を解放し、人民のための社会体制を作るという「共産主義革命」ですが、その達成過程で、「恐怖」と「暴力」が原動力になったことは、その後の国家運営に影響しないはずがありません。革命を成し遂げたレーニン、そのあとを急襲してトップの地位を手に入れたスターリン。現在の大統領プーチンもこのDNAを受け継いでいます。特にプーチンソ連国家保安委員会(KGB)に憧れて就職し、諜報活動をしていた人物です。政界へ転出してからは、KGBロシア連邦保安庁(FSB)と名前が変わったその長官に就任します。それからマネー・ロンダリング疑惑をもたれた、エリツィン大統領の追い落としクーデターを未然に防ぎ、その功績により、エリツィンから信頼を得て首相への階段を登り、第二次チェチェン紛争の抑圧に容赦なく暴力を発揮しました(Wikipediaプーチンより)。このチェチェン紛争は、旧ソ連邦地域がロシアから独立しようとする抵抗戦争でした。この紛争で数十万人の民衆が命を落とした構図は、まさに現在のウクライナ戦争と同じです。チェチェン紛争を制圧して大統領に登り詰めたプーチンにしてみれば、ウクライナで同じことを行うのは、この成功体験が根強く肌に染みついている所以です。

貧農や被搾取労働者を解放するという、20世紀に入って興った「共産主義」は、レーニンスターリン毛沢東金日成カストロなどと言った独裁者を生み出し、その理念とはるかにかけ離れた不幸を世界にもたらしています。世界のその後の独裁者とともに、プーチンはそれまでの人物よりももっと悪人の評価を歴史に残すかも知れません。そしていつも、その犠牲になるのは罪もない民衆です。

今回の戦争を例えれば、嫁ハンに逃げられた暴力夫に見えてきます。ウクライナという元ソビエト連邦の一員(配偶者)が、自由も認めず暴力をふるう夫に愛想を尽かし、見限って出て行こうとする(NATO加盟)のを、嫌われた夫(ロシアの大統領)が必死に追いかけて取り戻そうとしている構図に見えます。仲良くヨリを戻すには、暴力をやめ自由を認め、反省してみずからを変えるしか方法はないのに。



 

 

ウクライナ危機

 

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福島原発事故-資料

昨夜はよく眠れませんでした。ウクライナへのロシア侵攻はすでに一週間に及びます。首都キエフ、東部の都市でも戦闘が激化し、ロシア軍は進撃しつづけています。18歳から60歳のウクライナ男子は民兵として銃を持って戦っています。戦いが一週間にも及びますと、食料や武器弾薬、燃料などの補給が気になります。3日目ぐらいに食料品が店の棚から消えた映像がありました。欧米諸国から食料と武器弾薬が補給されると報道があったものの、それは誰が、どのルートで、どの交通手段を使ってと心配になります。兵士だけでなく、女性、老人を含む民間人も大勢取り残されています。気温は夜、氷点下になるようです。トラックなのか鉄道なのか、どうやって運ぶ。運搬中に攻撃は受けないのか。心配すればキリがありません。また、都市を取り囲んだり、道路に隊列を組んでいるロシア兵たちも、同じく武器弾薬、食料はどうしているのか。後方からの補給はあるのか。そして、これが戦争なんでしょう。インパール作戦、補給なしにビルマのジャングルで壊滅した日本軍の悲劇を思い出しました。マニラ市街戦アメリカ兵がつぶやいていた言葉も思い出します。「戦争をオッ始めた奴に戦争をやめさせるには、そいつをこの最前線に連れてくることだ。弾の飛んでこない後方から命令を出していては、戦争の悲惨さはわからない」と。この時、後方から命令を出していたのは、ダグラス・マッカーサー。以前、日本兵からマニラを追われた時、くやしさ余って吐いた言葉が「I shall return」です。マニラを奪還する彼の意地のために、民間比人10万人、日本兵1万2千人、米兵1千余人が死にました。

このブログを書いている現在(3月4日)、ロシア軍がウクライナ原子力発電所を攻撃し始めたというニュースも入り始めました。原発に着弾すれば、チェルノブイリ原発事故の10倍の被害が出るとウクライナは警告しています。世界では民主主義体制国家と専制義体制国家の対立が際立ってきました。冷戦時代は資本主義体制国家と共産主義体制国家の対立という図式でした。資本主義が自由主義に言い換えられ、専制主義国家は共産主義だけではなくなりました。と言うより、純粋にマルクスレーニンが標榜した、土地や生産設備を所有する特権階級から、農奴や労働者を解放するという根本理念はどこかへ行ってしまい、逆に国家の正義が一部の独裁者に利用されて、権力の集中を招いて専制主義に国家が乗っ取られている現状です。この自由主義専制主義の対立は、宗教戦争の様相を呈し、相手の立場をまったく理解しない構図です。宗教戦争は、自らの正義(神)と相容れない正義(神)を全否定、一神論による排他性は歩み寄りなど不可能です。宗教戦争は収拾が付かないと言われる所以です。頭の上に押し頂く神(信念)の相違は、相手を邪教すなわち悪として、まったく許容性を持ち得ません。

加えて、肉食を中心とする人々は、得てして血の気が多く、闘争心が強烈です。日本人のように草食・魚食中心で生きてきた民族のように、「和をもって尊しとなし」得ないのです。ウクライナの男性たちが、武器を手にして勇敢に戦い、隣国からも戦うために自国へ戻る姿を見ていると、その捨て身の姿に感動すると同時に勇ましさを感じます。これはそうなってみないとわかりませんが、国土侵略や身に危険が及んだ時、日本の男性たちがはたして、武器を手に積極的に戦うかどうか、考えてしまいます。これは私のように平和な時代をノホホンと生きてきて、もはや戦場へ駆り出される恐れが少ない、後期高齢者が偉そうに言えたものではありませんが・・・・・。この相容れない対立、有効な解決方法はあるのでしょうか。

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鴨川の鴨の群れ-日本は平和です

フォーク・ソング日本上陸後

 

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前回、アメリカ60年代フォーク・ソング・ブームのことをブログしました。その頃、私のように日本でもAmerican Folk Songを歌っていた人たちがもちろんいました。そのFolk songが日本上陸後の展開を、今回は、和製フォークとして私にわかる範囲で記述します。ただ、当時活動していたグループや歌い手は、プロの歌手、作詞家、作曲家になって和製フォークの表舞台に登場しました。それを実名を挙げて書くことは、本人の了承も必要で、了承なしに書くことは何かと問題もあり、個人名は避けて、歌の題名を中心にして書くことにします。事情をご存じの方々には、それぞれ個人名がわかるはずですが、そこはご想像にお任せします。

1960年代アメリカのPOPS音楽シーンでは、フォーク・ソングが大変な盛り上がりを見せていました。日本の音楽産業も、これを手をこまねいて見ているわけにはゆきません。66年、そこで発売されたのが、「バラが咲いた」でした。また同年、テレビ番組の同名の主題歌として「若者たち」が続いてヒットしました。両曲ともアメリカのフォーク・ソングのように、歌手が作詞・作曲したものではありませんでしたが、日常を歌ったものとして、これがフォーク・ソングなんだと世の中に受け入れられました。歌い手は学生時代からAmerican Folk Songのグループで活動していたひとびとでした。

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翌年の67年、特筆すべきことがありました。私たちと一緒に京都のフォーク界で歌っておられた1年先輩のO氏が、留学をされるのにともない、グループ解散の記念としてLPレコード「The first  and  last」を制作、発表されました。その中に日本民謡として「竹田の子守唄」が入っています。この曲は、採譜したのは誰かとか、元旋律はどうとか、被差別部落の歌なので放送禁止とか、何かと悶着の多かった曲です。しかし、合唱団「麦」が歌っていたのを評価し、この曲を歌って最初に録音したのはO氏であり、それを聴いたAグループが71年に「翼をください」のドーナツ盤A面に吹き込んでヒットさせたことは間違いありません。またこの時代に、アマチュア・グループがLPを制作・発表するなんて仰天の出来事。そのことは同じ67年、それに続いた和製フォークを転換させた大ヒット曲「帰ってきたヨッパライ」が収録されたLP「ハレンチ」の制作につながります。「ヨッパライ」がラジオで流されると大反響を呼び、各レコード会社はこぞってフォーク・ソングは商売になると力を入れ始めます。アメリカン・フォークに則って、「貧困、放浪、反権力」に加え「フツーの生活内容」も日本のフォークとされました。68年「山谷ブルース」、69年には反戦歌として「坊や大きくならないで」「戦争を知らない子供たち」、71年「教訓」が出ます。また、フォークは貧困を歌うんだとして、ショボい生活を歌った四畳半フォーク、69年「時には母のない子のように」72年「赤色エレジー」73年「神田川」となり、生活の歌としては71年「自転車に乗って」「カレーライス」「雨が空から降れば」、そして「ヨッパライ」に端を発した日本独特の奇怪歌73年「氷の世界」74年「闇夜の国から」が発生しました。

この間にもうひとつ特筆すべきは、楽器メーカー「ヤマハ」が行った「ポピュラーソングコンテスト」(略称「ポプコン」)と呼ばれるコンテストです。もともとはプロ歌手のコンテストだったのが、途中からアマチュア歌手の登竜門となり、多くの才能を発掘し新しいフォーク・ソングを生み出したことは日本の音楽史上、高く評価して良いと思います。73年「あなた」75年「時代」「わかって下さい」77年「あんたのバラード」78年「夢想花」79年「大都会」80年「街が泣いてた」81年「サヨナラ模様」82年「待つわ」などなど・・・・・。グランプリを受賞しながらヒットに結びつかなかった曲も多くあるものの、このコンテストから産出された「作詞、作曲して歌う」スタイルの歌手のあり方は、日本の音楽界にとって無視できない重要事項であります。それまでは、作詞、作曲はプロが行い、歌手はそれを歌うだけでした。こうして66年から始まった日本のフォーク・ソングですが、誰が言い出したか「ニュー・ミュージック」なんて言い方に変わり、77年「冬の稲妻」78年「チャンピオン」とつながって行きました。学生時代、American Folk Songに浸っていた私ですが、日本語で歌詞を書き、作曲して歌うSinger & Song Writerの変化は、日本のその後のフォーク・ソングとして大歓迎、当然の嬉しい結果だと捉えています。66年から80年代まで続いたこれらの事象のうち、その金字塔として、66年「空に星があるように」69年「風」74年「なごり雪」75年「シクラメンのかほり」79年「異邦人」「さよなら」80年「恋人よ」などの優れた曲は、この時代日本が生んだ誇るべき文化だと思っています。ただ、現在2022年の歌世界を見ますと、歌詞はつまらなく、曲も乗りのいいリズムだけ、歌い手はダンスや振り付けに長けたアイドル可愛い子チャンばかり。まことに貧しい情けない状態だと思います。みなさんはどう感じておられますか ? 。比べて和製フォーク誕生からニュー・ミュージックの時代が特別に輝いて見えるのです。

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