迷惑をかける民族

 

 

大阪←→京都間のJR車内。混んでいました。私は入り口の空間の、入り口ドアとは反対側のドアに近く、立っていました。途中の高槻から乗ってきた数人、話し言葉で中国人だとわかりました。その内のひとりのオッサン、乗るやいなや、いきなり手を伸ばしてきて、補助椅子を開けようとします。もちろん混雑時、補助椅子は開きません。何度も補助椅子に手をかけて開けようとしました。補助椅子の前には、私と数人のひとが立っています。もしも、補助椅子が開いて、座れるようになったとすれば、座れるのは一番近くにいるひとのはずです。しかしそのオッサン、人混みの間に手を伸ばしてきて、補助椅子の上部に指をかけ、開こうとします。開きません。自分がそこへ座ろうとしているのは明らかでした。しつっこくやり続けましたが、開かず諦めました。そのオッサンの顔、その浅ましさ・・・・。

もう一話、近くの繁華街に薬局が開店しました。消毒用のオキシドールを買いに行きました。「オキシドールを下さい」。店員はキョトンとしています。たどたどしい日本語で答えました。「置いていません」。薬局にオキシドールが置いてない ??? 。商品棚を見渡すと、偏ったクスリと美容薬ばかり。そして中国語の表示。あきれました。薬局とは名乗っているものの、中国人向けの爆買いを狙った店でした。いずれも、インバウンド大盛況時代の一光景です。

中国、武漢の眼科医が「市内でSARSに似た肺炎が広がっている」とSNSで警鐘を鳴らし、警察から圧力を加えられたあと、自らも感染、死亡したのは2019年12月から翌年1月のことでした。この病気「新型コロナ・ウイルス」のパンデミックの始まりは、春節によって中国人が世界中に移動(旅行)して拡散させた2020年春からです。はや3年が経ちます。マスク着用、学級閉鎖、医療現場や保健行政の大混乱、命を落としたひと、後遺症に苦しむひとびとなど、私たちは大変な被害に遭っています。流行の初期、損害賠償を中国に求める訴えを起こしたひとも、アメリカなどには何人もいたようですが、長引くにつれ拡大するにつれ、それも消滅していったようです。SARSやMERSの世界拡散は押さえ込めることができたのに、COVID-19はなぜこんなにも広がってしまったのか ? ここには中国という国の、隠蔽体質が作用しています。子供が火遊びをしていて、火の勢いが大きくなり、手に負えなくなる前に、①早く大人に知らせて消火にあたってもらう か ②叱られるのを怖がって、放置して隠れてしまうか の違いです。今回も明らかに②の放置、隠蔽が世界に迷惑をかけた事例です。それは辛亥革命以後の、漢民族の体質となっています。いやいや、同じ漢民族でも、台湾に封じ込められたひとびと、また香港のひとびとには、この迷惑かけ体質は見られません。どうやら、共産主義革命の洗礼を浴びた漢民族に顕著に現れているようです。もともと、共産主義は、労働者・農民のための政治体制だったはずですが、その正義の御旗のもとで、独裁主義に変質します。中国、ソビエト連邦キューバなど。独裁者にとってこれほど都合の良い正義の御旗はありません。この「ご都合主義のやった者勝ち! 」「都合の悪いことは封印する」という身勝手さが、上から下まで、数十年の時を経て、いまの国民性を形成したように思えます。

20年ほど前の中国は、労賃の低い国でした。先進国の企業では労働者は単純労働を嫌い、単純労働をその低労賃ゆえに中国へ生産を委託しました。その生産を担った農村労働者は、思いがけない好景気の恩恵を受けました。敗戦ですべてを失い復興し、もはや戦後ではないと言われた昭和40年~60年ぐらいの日本と状況は酷似しています。持ち慣れない小金を懐にした日本人が、ワーッと欧米諸国へ旅行したのと同じです。ファッション・デザイナーの山本耀司氏は、ブランド店に群がる日本人を見て「顔をそむけたくなる」と嘆きました。3~4年前の秋葉原や銀座の百貨店でも中国人による同じ光景が見られました。

日本政府はこの1月から新型コロナ・ウイルス感染の行動制限を撤廃しました。中国ではウイルス感染抑制のため、都市封鎖という極端な制限を強いていましたものの、市民の反発に抗しきれず、撤廃しました。その反動でか、コロナ感染者は6億人にのぼるという観測もあります。感染し、中には変異株をもった6億人が、1月21日から27日まで、またまた全世界に散ります。日本の対策としては、春節期間中、交通機関、宿泊施設、観光産業がいっせいに、「コロナ・ウイルス再来の危険をシャット・アウトするため休業します。春節期間中、日本に来てもどこも閉店しています」とすればいいのですが、逆をやります。インバウンドを当て込んで、ひと儲けをたくらむヤカラが大勢います。自分さえ良ければ、他人や社会はどうでもイイ、と考える人間です。実際、3年前までのインバウンド・ボロ儲けが忘れられないのです。人間には「節度」や「配慮」が必要です。日本人はそれを持っていたはずです。それを思い出して、浅ましいひとびとに対抗して、日本人が忘れている「品性」を取り戻す良い機会です。「日本へは来ないでくれ ! 」と叫びましょう。

コロナ再拡散の危機を前にして、皆さんそう思いませんか ?

年頭に際して

明けましておめでとうございます。

11年ぶりの癌再発、手術、リハビリといった、嵐のような一年が過ぎ去って、ピッカピカの新しい年が明けました。西暦2023年、令和5年もまだ我が生命はシツッこく継続しております。手術前に説明を受けたとき、チームの親玉教授から言われました。「この手術は70歳のひとまでしか行ったことがない。アンタは78歳、施術すれば最高齢の記録になる。見た所、元気そうやネ。・・・やるか ? 」かくして最高齢の手術になりました。3月には79歳になります。両親よりも3歳多く生きたことに、父方の祖父母よりは5歳、9歳多く生きたことに。一方、母方の祖父母は82歳83歳まで生きましたが・・・・・。つまり私にも、男性の平均寿命の年齢が近づいてきました。

月日は百代の過客にして、行き交う年もまた旅人なり

人生はよく旅にたとえられます。いま、2023年の正月、遠く過ぎ去りし日、来し方を見渡せば、物心ついた時から苦闘の連続でした。振り返ってこれからの人生を見渡せば、そうそう残り長くはない旅路も、昨年に転換点を見て、なんとなくひとつの峠を越した気がしています。さて、峠の上に立って、行く末を遠望、次の旅路はどうなるのかと、期待が胸にみなぎっております。お正月という節目には、いつもこんな感情を抱きます。去年のお正月、病気治療の一年になるなんて、考えもしないで・・・。また、2020年3年前のお正月、コロナ・ウイルスが世界中にこれほど蔓延するとは、ひとは予想もしなかったでしょう。一般のひとは、ロシアがウクライナへ侵攻するなんて、戦争が始まるなんて考えていなかったはずです。何が起こるのかわからないのが、この世の中。気持ち新たに年のはじめに立って、平穏平和で、恵み多い年になることを願って止みません。

昭和史研究家・保阪正康氏の平成天皇ご夫妻(現上皇様夫妻)との会見を読むと、平成天皇は、戦前「日本に民主主義が根付かなかったのはなぜ」、「満州事変について」、東京裁判で真偽が問われた「田中メモは誰が書いたのか」と言う疑問などから、「先帝(昭和天皇)はどうして太平洋戦争を止められなかったのか ? 」と痛恨の極みを心底に抱いておられた様子が感じられます。それは、天皇を引退されるときの「私の天皇就任期間(平成)には、戦争がなく、天皇のために若い人が命を失うということがなく、終わることができた」とのお言葉に凝縮されています。去年から始まったロシアのウクライナ侵攻戦争を思えば、平和がいかに大切なものか心に響きます。私が生まれたのは昭和19年、太平洋戦争の最中でした。2歳3歳のころ、まだ空高くB29爆撃機を見ることがありましたし、町中を進駐軍MPがジープに乗って疾走していました。小学校ではクラスの3分の1ぐらい、父親を戦争で亡くした母子家庭の子が普通でした。戦場から帰還し、片足、両足、片手を無くしたり、顔や眼がつぶれた傷痍軍人が、街頭で物乞いをしている光景も普通に見ていました。両親を亡くした戦災孤児は悲惨で、地下通路で生活していました。以来、77年間、私たち戦争のない人生を歩めたことは、幸福だったと運命に感謝するしかありません。

袖振り合うも他生の縁、たくさんの知り合い、先輩、友人、はたまた後輩も、あの世へ旅立ちました。それでも、ご縁があるひとびとが、まだまだたくさん生き残っています。会ってとりとめもない会話をしたり、いや、政治や世の中のことに、口角泡を飛ばして議論をしたり、年賀状を取り交わすこと、手紙や電子メールを送り、受けることも大切なことです。今まで大勢の学生をアルバイトとして使ってきました。彼ら彼女らと話していると「この先、人生が堪らなく不安だ」と言います。私は、「それでイイ。当たり前、若い頃は誰だって不安なんだヨ」と答え「何があっても一生懸命生きればいい。私の年齢になれば、不安はなくなり、『人生ってこんなだったのか』と思うようになるヨ」と言うと、羨ましいような顔をします。先が見えなければ[不安]、通り過ぎて振り返れば[安心]とでも言うのが人生です。永年、家業がコケないように経営努力をし、家庭をもって子供を育ててきました。正直言って、経営努力にはもう疲れ、子供は自立してくれました。それでも、私はまた別の目標を持っています。去年で終わっていたかもしれない人生、夢を追って突き進んで参ります。肩肘張らず、淡々と、できるだけクールに。

今年もブログを始めるにあたって、・・・皆様への年頭のご挨拶でした。

家業を継いだ顛末

年の瀬も押し詰まって参りました。健康上、大ピンチだった年だけに、この年末は、我が人生を振り返ることが多くなりました。我が人生のターニング・ポイントはいくつかありましたが、24歳で家業を引き継いだことも、そのひとつです。家業とは料亭です。料亭は、女将という女が中心の商売。姉は学校卒業後、自然に家業に参加し、女将である母と一緒になって料亭を切り盛りしていました。男である私は当然、家業を継いで参加するなんて、考えてもいませんでした。ところが思いがけないことが起こります。姉は、お客にモテたのです。客にすれば、年のいった女将よりも、若い娘の方が良い。母がお酌の挨拶に出ても、客は口には出さないものの、(オバハンは出てこなくてヨイ。あっちへ行け。娘 ! 娘がお酌に来い)と思い始めました。そしてそれは、態度に表れます。これが毎日度重なると、お山の大将だった女将の母は面白くない。やがて(母vs娘)の喧嘩になります。姉も向こう意気の強い方、大喧嘩の末、姉は家を飛び出してしまいました。しかし妹がいます。母は妹に店を継がそうと躍起になっていたようです。私が学校を卒業する頃、まさか男の私がこの料亭を継ぐなんて、考えてもいませんでした。実際は、(さて、どう生きようか ? )と自分の進路に迷っていたのが正直なところです。やろうとしていたのは、Aという職業と、Bという職業。どちらも自営業。既存の会社に就職する気持ちは、さらさらありません。卒業後Aでやっていこうかと決心して、東京へ出ました。A職のツテ、コネを探るべく、安アパートに住んであちこち、いろんなひとを訪問する日々が続きました。そして、1ヶ月も経たない或る日、ポツンとひとりアパートの部屋にいる時、腹の底から「俺のやりたい仕事はB職なんだ」と気づくことになります。しかし、B職はA職よりも余計、ツテ、コネの手がかりがわかりません。それでも、東京に住んでいればなんとかなるだろうと、取りあえず、収入を得るためにアルバイトをはじめました。貧乏でした。何日も飢餓に近い空腹を経験しました。それでも生活には、何物にも代えがたい自由がありました。単身の心細さとシアワセが同居していた生活でした。やがて1年が経つころ、横浜に住むIさんから電話が入るようになります。会ってみると、「京都へ帰りなさい」と理由は言わずに繰り返します。アパートの電話は共同電話、しかも昼間はアルバイトに出ていていない。そのうちIさんはアルバイト先へ電話をかけてくるようになります。これには困りました。会えば「京都へ帰りなさい。お母さんを助けてあげなさい」の一辺倒。Iさんは元々京都T百貨店の外商社員です。T百貨店が横浜に新店を出すとき、京都から横浜へ来たひとです。京都の外商時代、母からは特別目をかけられていたようです。なぜか毎年、大晦日の前日ぐらいに単身、我が家料亭に来て、元旦の早朝、母が大阪にある不動明王様に貸し切りのハイヤーでお参りするのに同行、三賀日を店で過ごし、横浜へ帰るという変なそして家族同然のひとでした。ここで母の卑怯な面が現れます。自分から頭を下げて、私に「店を継いでほしい。帰って来てほしい」とは言わずに、Iさんにそれをやらせたのです。繰り返されるIさんとの接触で、理由を聞かなくても、店のピンチはわかっていました。ここで私は人生の大失敗をやらかします。(家業はピンチらしい。だけど料亭の立て直しぐらいやってやれないことはない)。・・・・若気の至りでした。東京を引き払って京都へ帰りました。30歳までに家業を立て直し、もう一度東京へ出て、自分の人生を歩こう。そんな魂胆でした。待っていたのは、母の放漫経営が積み重ねた1億5千万円の借金。当時は初任給が1万8千円の時代です。今の初任給が23万円ほどなので、1億5千万円はどれほどの値打ちの借金か換算してみて下さい。これは甘やかされて育った妹が後を継いでも、とても無理だとわかりました。まず、弁護士さんは「息子よ、会社の株式を全部自分の名義に変えろ」と言います。私は「先生、株を買い取るカネを持っていません」と言うと、「これだけの赤字会社、値打ちはゼロ。名義書き換えはタダでできる」。かくして、私は株式を全部自分名義にし、そして代表取締役のハンコを持たされました。銀行は疑心暗鬼だったようです。カネの借り入ればかり要求して、一切返済しない放漫経営者に代わって、若い息子があとを引き受けるようだ。どうかな ? 銀行に呼ばれて行くと、貸付係長、貸付課長、審査部長、本店長、常務がずらっと並んでいました。料亭の敷地面積は3千5百坪ありました。そのうち母の強運でタダ同然に手に入れた700坪の土地は使っていませんでした。その土地を処分するのが解決策でした。代物弁済と言って700坪の土地を銀行に引き取ってもらい、銀行はそれを売却してその代金で債権を消す。やれやれ、これで一挙に解決かと思ったのも束の間、会社に4千万円の税金が降りかかってきました。会社の借金を、母の個人資産の土地を処分して消した→会社は母から1億5千万円の贈与を受け、利益が出たことになるというのです。借金は母がやったこと、それを自分の資産処分で消して、なぜ会社に税金がかかる。納得できませんでした。税理士は「この税金は逃れられない」と言います。予想外の誤算でした。借金は会社名義、土地は母名義。これも母のズルさでした。かくして私は4千万円の借金を背負い、加えて母は安心してますます浪費と放漫行為を続ける。やがて会社の借金は7千万円まで膨らみました。地獄の20代30代。母と血みどろの大喧嘩の毎日、東京へ戻って自分の人生を生きる・・・なんて、夢物語になってしまいました。それでも倒産せずに何とか切り抜けられたのは、日本の高度成長とインフレに支えられたお陰です。昭和50年頃まで、接待交際費は経費でした。各会社は「利益が出て税金に持って行かれるくらいなら、接待に使って利益を減らせ ! 」いわゆる社用族の時代、銀座、梅新、祇園にはバー・クラブが乱立していました。料亭もその恩恵にあずかりました。今よりも厳しい人手不足の時代でしたが、睡眠時間を削ってでも若さで乗り切りました。もうひとつ大きかったのは「債務者利得」と言われる状況です。高度成長時代、インフレが激しく、物価は高騰を続けました。インフレの時は、借金をしている方が得なのです。周りの物価が上がるのに比例して、自然と料理の売り値も上がりました。店を継いだ当初、ひとり2千円だった料理単価は、4千円になり、8千円になり、1万円になり、1万5千円、2万円に、3万円にまでなりました。反面、借金の額面はまったく変わりません。月々の返済額も変わりません。収入が自然に増えてゆく分だけ、借金の値打ちは下がってゆきます。そして、日本は豊かになり、銀行には預金が集まり、膨らみ続けました。カネを借りるひとは減ります。当初7.5%支払っていた利息は、2%にまで下がりました。期せずして売上と利益は増え、借金は額面のまま価値が下がり続けました。地価も高騰しました。代物弁済で銀行に渡した時の地価は、坪単価21万円強。20年後、相続税支払いのために処分したその隣の地価は、バブル期だったこともあり坪180万円でした。

私は「頑張って借金を返した」なんて偉そうなことをウソぶくつもりはありません。インフレのお陰で、借金の価値は自然に落ちていったのです。

 

気がつけば所帯をもち、3人の子供を設けいつしか40歳を超えてしまい、京都から抜け出られず、時は流れ78歳の現在に至ります。かくしてこれが、私が家業を継いだ顛末です。振り返れば、小学校の頃仲良くしていたKクンは交通事故で脳に損傷を受け、歩けなくなり20歳の時亡くなりました。また、学友の何人かは、家庭を持ち子供ができたのに、40歳で逝去、小学校からずっと一緒だったNクンは48歳で急死しました。去年、今年と友人の訃報が続いています。我が人生にとって、家業を継いだことは痛恨事ですが、今年大手術の末、生き延びられただけでも、由として人生に感謝しなければならないのでしょう。

「ひとは何処から来て、何処へ行くのか」なんて哲学的な問いかけほどではなくても、しかし「人生って、いったい何だったんだ」と思う年の瀬です。

 

令和4年、今年を振り返って

今年、年明け早々不動明王様のお参りに行きました。私の母親はもう亡くなりましたが、ひどい奴でして、20代の半ばの時、大阪のある不動明王様に渾身の願をかけました。「私に運を授けて下さい。その代わり、親、弟妹、子供、一族郎党がどんなに不幸な目に遭っても構いません・・・!!!」。不動明王様は火の神様です。その願掛けから帰ってみると、借りていた家は火災で焼失していました。炬燵の火を消し忘れて出かけたらしいのです。昭和初期、失火の罪は厳しく問われ、警察にさんざん絞られることになりましたが、なんとそれから母には強運が舞い込んだのです。それも2度ならず3度も。ちょっと普通の人生には考えられない程の「強運」です。以後、大ブレークした人生、肩で風を切ってふんぞり返って生きました。願掛け以後、母の両親、弟妹の内ほとんど、私たち3人の子供は逆境気味の人生でした。そのうち何とか逆境に立ち向かって、幸福に近い人生を手にした者は数人います。しかし、運の善し悪しを言えば、不運に抗って生きることにエネルギーを使い果たし、決して運に恵まれていたとは言えません。母の弟にあたる叔父は常々「姉ちゃんが俺たちの運を全部持って行った」とボヤいていました。「一族郎党がどんな不幸な目にあっても構いません」とはご先祖様を含めて、以後の血縁者全員に及ぶ「不幸受け入れ宣言」です。今年のはじめ、私は77歳。ふと、この母の願掛けをもう消滅させる必要があると気づきました。このまま、一族に不幸が及んだままにして、この世から退場する訳には行かないと考えたのです。私は大阪にある、その不動明王様に1月、2月、3月と参詣しました。「願消滅・母の願」を願って。毎日午前中から1時間に1度、護摩木を焚いてご祈祷が行われます。不動明王像のまえには、高額の寄付をしたひとの名札が並んでいます。ここにあるのは「現世御利益」という宗教の一面です。この「現世御利益」と「自然・生命への感謝」という宗教の二面。皆さんは宗教に対してどう向き合われますか ? 母の願いはまさにこの「現世御利益」でした。私は「畏怖と感謝」を宗教の本質と考える人間です。私の護摩木には「開運」ではなく「願消滅・母の願」。立てたお灯明ローソクにも「願消滅・母の願」。今年になって3回目の参詣は3月29日でした。この頃から何か異変がやってくる気配を感じていました。そして2日後、3月31日、食べ物がのどを通りにくくなるのを感じました。11年ぶりの癌の再発でした。4月は診察、検査、転院。5月に入って手術が決まったとき、私の護り本尊である大日如来様へお参りに行きました。中央に大日如来様、右手には金剛波羅密多菩薩様、左手に不動明王様です。大日如来様には「この身をお任せします」と述べ、不動明王様には「どうされるお積もりですか」と問いました。決して「こうして下さい」と願ったわけではありません。私の5月以後の病歴経過は、11月12日のブログ「鴨川を歩く」に書きましたのでご覧下さい。今年は生命の大ピンチ、15時間におよぶ癌の摘出手術を受け、リハビリに専念する年になりました。私の願「願消滅・母の願」はどうなったのでしょうか。少なくとも命が助かっただけ、大日如来様が護って下さったことだけは確かです。私の願いは「良くしてほしい」ではなく、「自然にもどることを祈った行為」です。毎朝、お仏壇にお灯明、お線香を上げるとき、ご先祖様に「母がとんでもないことをしました。お許し下さい。今後は、このような不埒なことはさせませんので」とお祈りしております。皆さん「現世御利益」について、もう一度考えてみて下さい。



 

 

スマホの驚異

 

 

何気なく当たり前のように使っていますスマート・フォン(スマホ)ですが、今改めてその便利さに驚いています。

年末が近づき、学校の先輩からカレンダーが送られてきました。先輩の知り合いがおられる、ある社会福祉法人の製作によるものです。一ヶ月1枚ずつ、曜日、日にちとそれぞれの月ごとに、イラストが印刷されています。動物や音楽演奏図など、ほのぼのとしたものです。見ていて心和みます。早速、仕事机に立てて、決まっている来年の予定を書き込もうとしました。が・・→(待てよ!)。・・・ここで(待てよ!)です。私はスケジュールをスマホのカレンダーに書き込んでいます。先の予定の確認は、スマホのカレンダーだけになっています。もしも、この机上カレンダーに予定を書き込むとすれば、すべての予定を重複して書き込む必要があります。それどころか、スマホ・カレンダーの予定を机上カレンダーに書き込み忘れたら、机上カレンダーを見て(今日は予定のない日だ)と思ったら、約束などをスッぽかす恐れがでてきます。特に外出先で決まった予定などは、その場でスマホ・カレンダーに書き込みます。つまり、スケジュール管理はひとつのカレンダーで行わなければならない。スマホか机上か?→どこででも書き込め、読み取れる(常に携帯している)スマホ・カレンダーに決めるしかないと思いました。

つくづく思ったのです。(何と毎日の生活、いかにスマホに依存していることか)。

スマホ画面を見てみましょう。今日の日付と曜日と現在時刻が出ています。たまに今日の日付と曜日を忘れていることがあります。昔はスケジュール手帳をポケットから取り出して、確認しました。手帳はもう要らなくなり所持していません。腕時計もあまりしなくなりました。現在時刻は確認できます。それどころか、タイマーもストップウォッチさえ使えます。画面にはアイコンがいっぱい並んでいます。PayPayはコンビニで使います。買い物をしてレジでPayPayのバーコードを見せれば、店員さんがそれを読み取って決済完了です。お札もコインのやりとりもありません。過去にどこでいくら支払ったのか取引履歴が残っています。残高が確認でき、少なくなってきたらチャージは1万円単位でできて、一瞬で銀行口座から振り替えられます。私が口座を持っている銀行預金は、パソコンから振込、振替といった出金が可能です。出金の確認画面でパス・ワードを打ち込む必要があります。その時のワンタイム・パスワードは、スマホにあるアイコンをクリックして表示される数字で、それを打ち込むと出金手続きが完了します。その数字は、時々刻々変化するようで、まさにワンタイム・パスワード、セキュリティーは万全です。現在、病み上がりの私は、毎日散歩に励んでいます。スマホを何も操作しなくても、ポケットに入れて歩いているだけで、何歩歩いたかカウントしてくれます。目標歩数の7500歩を超えると「達成」と表示されます。’radiko.jpはAMとFMラジオが聴けます。仕事中は滅多にラジオを聴くことはありませんが、テレビの野球中継を見ていて、つまらない解説だったり、お喋り過ぎたりでウルさい時(アナウンサーよりも多く喋り続けるF氏やA氏など)、テレビ画面はそのままで音声を消し、音だけスマホradikoの野球中継に切り替えます。岡田彰布氏や谷繁元信氏の解説は実に深みのある楽しいものです。スマホには電子メールやSMSが付いています。連絡をとる場合、以前は何かと電話をかけました。しかし、電話を受ける側が、仕事の打ち合わせ中だったり、スポーツ観戦やテレビ・ドラマに熱中しているとき電話は迷惑なことがあります。電子メールやSMSは、受けとる側の都合の良いときに開けて見られます。読んだら即刻、返答も可能です。封書や葉書を読むのも受ける側の都合が可能ですが、書いて、投函して、配送されての手間、時間は劣ります。電子メール、SMSは連絡方法として、すっかり日常に根付いた感があります。電子メールは画像や図面、音楽なども添付可能です。連絡を取り合う方法としてLINEがあり、便利なようですが、私にはよく分からなくて、使いこなせていません。乗換案内には、現在地など地図を表示する機能があり、駐車場、コンビニ、カフェやレストランなどが探せます。今から乗れる電車・バスなどの時刻表、目的地までの時間、料金、乗換などが出てきます。何か計算をしたい時には、電卓アプリがあり、カメラ機能は、日常の撮影においては、動画ビデオもふくめてすっかりデジタル・カメラに取って代わりました。Twitterで自分がつぶやいて発信することも、世界中の人々のつぶやきを意見としても閲覧できます。まだ使ったことがありませんが、停電情報は地域を登録すると、停電のときどの地域が停電していて、回復の見込みなどを知ることができるようです。QRコードの読み取りは常に使っているアプリですし、ちょっと聞き覚えのない単語は翻訳アプリで翻訳することができます。英語&世界の言語←→日本語とも自在です。ニュースも天気予報も新聞を購読する必要がないほど常駐です。

まだまだ、書き上げればキリがないほど機能多彩なスマホです。思い返せば32年前、携帯電話を購入したのがはじまりでした。当時の携帯電話は、新刊書よりも分厚い大きさの箱で、肩からヒモでぶら下げて持ち歩いていました。今のスマホの携帯電話番号は、当時のままで変わっていません。いつの間にかアッという間に携帯電話は普及し、次々と使える機能が増えに増えて、現在に至っています。携帯電話だけで使っている、いわゆるガラケー電話をもう一台持っていますが、それも使えなくなるのは、時間の問題のようです。もしもスマホがこれほど便利でなければ、私は常に肩からカバンをかけて持ち歩き、そのなかにはガラケー、スケジュール手帳、ラジオ、ウォークマン、翻訳のための辞書、新聞、電卓、デジカメなどを入れているはずです。また腕時計をして外出することになるのに違いありません。30数年前、携帯電話が登場する前、だれがこんな便利な生活を予想したでしょうか。

 

 

鴨川を歩く

二日前、病院へ行ってきました。5月の手術以来、十二指腸に突き刺さっていました栄養補給のためのチューブ、腸瘻が抜かれました。左脇腹から抜かれたチューブ、血に染まって30cmほどの長さがありました。これで点滴状態の栄養補給から解放です。やっと自由の身になれた感じがしました。有り難い有り難い。とは言え、手術から半月間ぐらいは、経口の食事、栄養の摂取はできなかったので、この腸瘻が頼り、身体に必要最低限の栄養を補充できたのも確かです。手術直後は呼吸困難で、室内を5メートル歩くのにも息が切れ、苦しみました。苦しいリハビリの最中、「これは秋ごろまでつづくだろう。秋が来れば何とかなるのではないか」と思っていました。秋が来ました。もう晩秋です。呼吸をふくめ、何とかなりました。有り難い有り難い。

毎日の生活の中で、散歩は重要な作業です。クルマを運転して市内の駐車場に入れ、鴨川の河川敷を約4km歩きます。スマート・フォンに入っている万歩計は、7500歩から8500歩を記録します。自分では早歩きをしているつもりでも、後ろから女性が追い抜いて行きます。見ている間に、距離を引き離され、いかに自分が遅いのかを自覚します。特にオバチャンに追い抜かれると、自分のノロさが応えます。

秋の鴨川河川敷を歩いていると、空と川と木々と、つまり自然が目の前に展開します。自分という存在が、自然の中のひと粒、地球上の極小点、更に言えば宇宙のひとかけらのゴミとして感じられます。思うのです。手術前はどう思ったのか回顧すると。もしも手術が失敗して、麻酔から醒めないまま、死んでしまったら。これはこれでOK。自分ではどうしようもない。仕方ない。怖くも何ともない。他方、手術後はどう思ったのか。すべて上手く成功したら、これもOK。結構なことです。そして手術後の呼吸困難と、苦しいリハビリのなかで、それでも完治へ向かわなかったら。癌が転移して、身体がむしばまれる状態になったら・・・・・。そう、最悪の結果を予想したとき・・・・意外でした。生への執着が湧いてきませんでした。全身に癌が転移したら→「ホスピスへ送ってほしいと頼もう」→ホスピスで痛みが出てきたら、麻酔薬をジャブジャブ注入してもらって、そのまま意識混濁→眠るように死にましょう。こうはっきりと自覚をしました。何となく爽やかな感じでした。

昨夜のテレビ番組で、「癌について」意見交換をしていました。検査で癌が見つかった時、医師が本人に、本人が連れ合いに、子供に、両親にどう伝えるか。なんて、ちょっとした議論になっていました。ところがこちらは11年前から食道癌の患者です。今年4月に食べ物が呑み込みにくくなった時、「来たか。またか」と思い「さあ、病院へ行って検査しよう」と日常生活の一端のように冷静に対処できました。もちろん11年前、はじめて癌が見つかった時、医師から「大きい食道癌です」と告げられ大いに動揺しました。検査前のアンケートの「 ▢  癌が見つかった時、告知を希望する」に、チェックを入れていましたので当然です。当時、この部位の癌に罹った知り合いの人は10人ほどいました。全員、半年もたずに死んでいます。オレもこれで終わりか。このときは暗澹たる気分でした。さらに、外科医から手術の説明を受けました。(これはちょっと無茶だ)と思いました。(みんなこんな大手術を受けて、耐えられずに死んでいったのか)。それからWebの情報を漁るようにかき集め、「放射線治療」にたどり着きました。幾人かの医師は「そんなモンで治るか。また再発する。しかも放射線を当てた患部は、ヤケドのようになって、再発したとき手術ができなくなるゾ」。他方、主治医と放射線治療医師は「それがあなたの選択なら」と反対はしませんでした。2ヶ月にわたる入院、放射線治療、そしてそれから2ヶ月後の内視鏡と組織検査。食道癌は消えました。以後6年間、半年に一度、計12回の内視鏡および組織検査、すべて再発なし。「完治」となりました。ここで安心したのがいけなかった。また、不摂生をはじめてしまいました。

今年4月再発を自覚し、11年前入院したN病院を受診して、「放射線治療後の患部は手術が無理なんですヨ」と告げられました。手術以外にどんな治療法が残されているのかと不安を抱えて内視鏡検査の結果を聞きに行った次の受診で意外でした。「手術です。それ以外に助かる方法はありません。当病院では対応できないので、K大学病院で手術して下さい」。医師は事前にK大学病院に相談していたようです。

再発を確かめにN病院を受診するとき、調べて見ると11年前の医師は見当たりませんでした。そこで食道専門の医師を事前に調べ、A医師に目標を定めました。受診予約の時、患者が医師を選べないことになっています。わざと予約をせず病院を訪れ、自覚症状と以前の病歴を看護師に伝えると、こころえたものでA医師の受診を設定してくれました。ただ、予約なしなので、待たなければならない。受診まで6時間近く待ちました。結果的には、A医師に診てもらったことがラッキーだったと言えます。K大学病院の手術チーム親玉は、A医師からの紹介を仲間からの紹介のように話して対応してくれました。同じ学会仲間なのかも知れません。十一年の時間の流れの中で、その間に医学の進歩があったのでしょうか。放射線治療後の患部手術は無理と言われていたのが一転→可能となり、12時間予定の手術は15時間かかりましたものの、成功しました。晩秋を迎え、腸瘻も取れ、毎日鴨川の河川敷を歩いています。大宇宙に漂うひとひらのゴミも、まだ生きながらえています。



 

晩秋を迎えて

 

今年も柿の実が豊作でした。現代では砂糖という結構なものがあふれていて、チョコレート、ショート・ケーキなど、甘い食べ物に不自由はありません。昔の人にとっては、柿やミカン、リンゴなどの果物が甘い味覚を味わう、数少ない食べ物だったでしょう。

「柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺」(正岡子規)。

子規は柿が好物だったと伝えられています。私が我が家に柿の木を植えた経緯は、2019年12月6日のブログに記しました。もう1本ある渋柿は、収穫後に皮を剥いて吊し柿、天日干しにします。水分が抜けると、干葡萄のように甘さが増します。モグモグ、種と実を口の中でわけて、種を出して実を食べます。熟れた甘柿も美味しいけれど、干柿はもっと甘くて美味しい。ただ今年は、柚子の結実には失敗しました。トシがゆくとターミナルに近いマンション暮らしが便利だ、と引っ越すひとがおられますが、果実の結実は、ネコのひたいほどの狭い敷地でも、土地付きの住まいの楽しみです。ひと、それぞれ、生き方もそれぞれ。自分の生き方を一方的に声高に宣言するつもりはありません。わたしのささやかなツブヤキとしてこのブログをお読み下さい。

年賀状は今年で終了という生き方には、2019年12月3日、「トシを重ねるごとに」のブロクに意見を述べました。もうひとつ気になっているのが「運転免許証」の返納です。今回、癌の手術を受け、しばらくは自足歩行も困難な状態でした。少しヨボヨボと歩けるようになった時、クルマの運転移動が実に結構なものだと気がつきました。タクシーもバスもクルマ椅子も可能ですが、慎重に慎重に行うクルマ運転の移動に勝りません。身体障害者の方々が、クルマ運転をされ、駐車場には障害者マークの描かれたスペースが設けられています。身体が少し不自由だと自覚していれば、運転はより慎重になります。障害者の障害が原因で事故を起こした事例は聞き及びません。入院中、クルマ椅子に座り、押してもらって病院の中を移動していました。実に楽です。しかし、それに甘えていると、自足歩行ができなくなると感じました。クルマ椅子は、麻薬の誘惑を持ち合わせています。障害者マークと高齢者マーク(正式には高齢運転者標章)のついたクルマのノロノロ運転と共存する交通社会の到来を自覚し始めました。96歳、ある茶道の先生が京都から大阪までクルマを運転して移動されたことが話題になっていました。当方がお世話になっています弁護士さんは90歳で、運転されています。潮時があるのでしょうが、それまで慎重に運転して、他人様の手を患わさずに移動するのが高齢化社会の姿だと思います。もう少しすれば、事故防止の半自動運転クルマの出現も近いと見ています。これから、電気や水素で動く、いろんなクルマが出てくるのに、運転免許証の返納は、楽しみの放棄です。

朝夕の気温が低くなってきました。何よりも有り難いのが電気毛布です。テント掛けで登山をした経験者は、岩の上、石の上、土の上で寝るのがどんなに辛いか知っています。特に冬山登山、雪の上で寝ます。寝袋を通して背中へ冷たさが伝わってきます。20分ごとに冷たさで目が覚めることになります。海水浴で浮かべるエアー・マットを敷いて寝ても、寒さは上がってきます。新聞紙を揉んで下着と服のあいだへ入れるとややマシになります。それでも寒い。昔の人、布団の上で眠ることができたのは、多分上流階級だけだったでしょう。庶民は、羽織っていた衣類をかぶって、板の間か良くて畳の上にじかに寝ていたに違いありません。寒い冬、敷き布団の上に電気毛布、そして羽毛掛け布団。これほどシアワセなことはありません。晩秋から冬にかけて、電気毛布で暖まった寝床に入るたびに、シアワセを実感するこの頃です。