50年間の逃亡

昭和49年から50年にかけて、連続企業爆破事件にかかわった桐島 聡容疑者が神奈川県内の病院で死亡しました。享年70歳。私より10歳年下、20歳の時より指名手配され、50年間の逃亡でした。重篤な胃癌で入院中、偽名を使っていましたが、「最後は本名で死にたい」との意向で、指名手配中の「桐島 聡」だと病院に告げ、病院からの通報で警視庁公安部により、入院のまま身柄確保にいたったとの報道です。事件当時私は30歳、70年安保闘争のあと学生運動がくすぶり続け、浅間山荘事件など過激派事件が日常だった世相を思い出します。私が学生時代所属していたサークルは、アメリカの広告文化に根ざした大量消費時代の浮かれた学生の集まりでしたが、70年当時部室にはヘルメットとゲバ棒(角材)が山積みになっていたと聞き及びます。真偽不明ながら、サークル幹部の数人は、すんでの所で「よど号ハイジャック事件」に参加し損なったとも聞きました。そんな時代の雰囲気の中で桐島 聡は「東アジア反日武装戦線」に身を置き、連続企業爆破事件の実行犯として、爆弾テロに参加したものと思われます。私が学校を卒業した昭和41年は、その前々年に東京オリンピックが開催され「もはや戦後ではない」と言われた時代でした。それでも卒業後、企業に就職せず、海外に飛び出して行ったり、自力で商売を始めようかという、アナーキーな学生はいて、国家や企業に依存せずにやって行こうと考える奴等が一定割合いたものです。「青年は荒野を目指す」なんて気取りながら・・・。私も就職なんてする気はまったくなく、アルバイトをしながら、学生時代の延長のように暮らしていました。それが実家に引き戻され、借金を背負わされ、銀行や取引先の意向で強制的に社会のルールの枠に組み込まれて、反骨のアナーキー心がなくなっていったのは確かです。所帯を持つと、更に自由を失い、扶養義務、健康保険義務、年金支払い義務などなど、尖っていた部分が削られて、丸味を帯びて行く自身に辟易としていました。この世に生まれ落ちたとき、大自然からプレゼントされた、かけがえのない大切なものが、毎日失われて行く感覚に、歯ぎしりしながら・・・。ほんのちょっとした違いです。あの時私も自由人のままアナーキーに、友人と社会変革なんて議論し、熱に冒されていたら、テロという犯罪に染まっていたかも知れません。学生→就職→企業人へが既定路線と思って生きてこられた向きには、この感覚はご理解できないでしょう。桐島 聡容疑者は死の床で、警察官との会話中に「後悔している」と漏らしたそうです。痛いほど良く分かります。20歳の若気の至り、犯した犯罪で、あとの一生を50年間、逃亡で送る羽目になってしまいました。日本中の銭湯や交番の壁に、自分の顔写真が大きく貼り付けられ、「指名手配犯人 ! 」。胃癌で死期が迫り、最後は「自分の本名で死にたい」。人生の重みと悲しみが伝わってくるのです。