夭逝-その4 「3人の音楽家」

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♪ 春高楼の花の宴 めぐる盃影さして ♪ 「荒城の月」という日本人の琴線にふれる歌、悲哀、詩情に満ちた曲を調べていて、作曲者、瀧廉太郎が23歳で死んでいるのを知りました。( 明治12年生まれ、明治35年死去 )。豊後国の上級武士だった父親が、廃藩置県後、官僚高官となり恵まれた家庭環境で育ちました。尋常小学校の高学年のころからピアノを弾いていたようです。15歳で東京音楽学校( 現在の東京芸術大学 )へ入学、ピアノ演奏と作曲を勉強していて、本科を卒業後も研究科へ進み、音楽のエリート・コースを歩んでいたと言えるでしょう。21歳で音楽学生として、ドイツ・ライプツィヒ音楽院へ留学するものの、まもなく肺結核に罹患。現地で治療を受けていましたが改善せず、7ヶ月後帰国の途につき、帰国1年後に死亡しました。「荒城の月」は代表曲の「花」「箱根八里」とならんで明治33年作となっており、留学前の作品のようです。直筆譜面の多くは結核の感染を恐れて焼却処分されており、実際の作品数は不明。確認されているのは34曲です。

私が10年前入院していた病院では、お知らせのアナウンスの前にピアノ曲の「乙女の祈り」が鳴るのが常でした。テクラ・バダジェフスカ作曲のこの「乙女の祈り」は鉄道のアナウンスなどに良く使われ、オルゴール曲の定番となっています。昭和30年頃、化粧品のラジオCMにも使われ、日本人にはおなじみの曲です。ポーランド人、バダジェフスカの生まれ年は1834年1838年の二説あり、死去は1861年となっています。「乙女の祈り」の楽譜出版は1851年で、作曲時の年齢は34年生まれなら17歳、38年生まれなら13歳のときになります。この曲はワルシャワで出版され、ほどなくフランスの音楽誌に転載されて、フランス人に知られることになりました。日本へは明治時代に楽譜が入ってきて、以後日本人に人気の曲となっています。ところが正規の音楽教育を受けていない作曲家の作品だという理由からか、現地ポーランドではこの曲はほとんど知られていないようです。バダジェフスカが生きた時代のポーランドは、ロシア帝国の圧制下にあり、国家として存在していなかったと言える状況でした。同時代のフレデリック・ショパンは留学先のウィーンからパリへ逃れ、難民となってフランスで暮らし、生涯ポーランドへ帰国することはありませんでした。バダジェフスカはこの曲の作曲後結婚し、5人の子供を設けて10年後に病死しています。享年27歳もしくは23歳です。

和製フォーク・ソングの代表曲のような「神田川」。この曲の前奏から南こうせつの歌声に並行して、そして間奏へと哀愁に満ちたヴァイオリンの旋律が流れます。上条恒彦が歌った「出発の歌」。これらを編曲したのは、木田高介です。上条は第三回合歓ポピュラーフェスティバルの出場が決まっていたものの、「出発の歌」の作曲完成は前日、木田は三重県合歓へ向かう列車の中で編曲譜面を書いたと伝えられています。結果はグランプリ。一世を風靡した曲としてご存じの方も多いと思います。木田は東京芸術大学卒業の打楽器奏者ですがフォーク系、ニューミュージック系の数々の編曲を手がけています。芸大在学中にロックバンド「ジャックス」に参加、バンド解散後POPS音楽の世界へ向かい、個性豊かな編曲家になりました。31歳の時、山梨県河口湖でクルマ運転中、同乗の友人と共に交通事故死しました。

上記、夭逝した3人が作曲・編曲した曲に私は啓示のようなものを感じてブログを書いています。瀧には哀切や日本人が持つ無常観。「乙女の祈り」の高音へ跳ねるように向かうアルペジオ・メロディーには10代の乙女が見つけたこころの底にある躍動の芽。木田の編曲には特異な感情の表現力を感じ、どうしてこんな表現力を会得したのかと言う不思議。私は2019年12月のブログで、夭逝-その1として画家・関根正三のことを書きました。なぜか今、こうして夭逝した才能が気になっています。彼らに共通する運命の残酷さをしみじみ感じるこの頃です。