時間の重さ

我が不遇の人生

わたしは今年の3月で79歳になりました。人生、振り返ってみれば、カネにそれほど不自由をしてきたわけではありません。もちろん、持ちきれなくて困るほどの大金を、手にしたこともありません。経済的な生活では、まあフツーの人生を歩んできたと言えるでしょう。しかし、学生時代から夢見て追いかけてきた、仕事や希望に関しては後悔後悔の連続、失敗山積みの人生でした。20代の前半、家業が窮地におちいり、その立て直しに飛び込んだのが、何よりも失敗の大きな原因です。自分は自分の道を歩んでいて、「家業がどうなろうとも、オレには関係ない」と冷たく見放すことができなかったのは、自分の弱さです。「家業の立て直しぐらい、やってやろうじゃないか」と舐めてかかったのを後悔します。借金を完済できた時、35歳になつていました。その間、昼夜を問わず、モーレツに激闘したあのエネルギーを、自分が夢見た仕事に使っていれば、大したことができたかも知れないと後悔しています。35歳。家庭を持ち、子供ができ、得意先、従業員に責任を持つ立場になってみれば、家業の立て直しが完了したからと言って、「ハイさようなら、ここから自分の人生を自由に生きて行きます」なんてできませんでした。まさに不遇の人生です。

しかし、まだマシだと思うのです。

学校を出て、自分の人生を歩むべく、東京へ出たのは昭和41年です。そこからわたしの社会人生活が始まっています。ことしで57年が経ちました。その昭和41年の6月、静岡県清水市で、味噌製造会社専務41歳、妻38歳、次女17歳、長男14歳が刺殺され、その住宅が火災全焼、集金された37万円が不明という事件が起きました。「味噌製造会社一家殺人、放火事件」とでも言える事件ですが、その後の事件経過により、容疑者の名前をかぶせて「袴田事件」として一般に知られています。8月18日、被疑者として袴田 巌氏が逮捕され、取り調べでは犯行を否認していましたが、拘留期限の3日前に犯行を自白しました。一審裁判では、起訴事実を全面否認、43年有罪死刑判決。その日に東京高裁へ控訴するも51年、高裁は控訴棄却、上告。55年最高裁は上告棄却。9日後判決訂正を申し立てるも、棄却。昭和55年12月12日死刑が確定します。翌年56年静岡地裁へ再審請求。平成6年再審請求棄却、東京高裁へ即時抗告。16年即時抗告棄却。最高裁へ特別抗告。20年最高裁特別抗告棄却。同年静岡地裁へ第2次審査請求。22年袴田死刑囚救援議員連盟が「被告は心身喪失状態にある」として法務大臣に刑の執行停止を要請。23年法務省は精神鑑定などを実施し、「執行停止の必要性は認められない」と結論。8月第2次再審請求で証拠衣類5点の再鑑定を決定。26年3月静岡地裁再審開始、死刑執行と拘置執行を停止決定、釈放される。(実に48年目です)。静岡地検、東京高裁へ拘置停止棄却の申立するが棄却。静岡地検、即時抗告。同年8月抗告審理で地検が「存在しない」としていた証拠の「5点衣類の写真ネガ・フィルム」が静岡県警で保管されていたことが判明。30年即時抗告審で、東京高裁は原決定を取消、再審請求棄却決定。ただし、死刑、拘置の執行停止は維持。弁護側が特別抗告。令和2年最高裁第3小法廷、「再審請求を棄却した東京高裁決定は、審理を尽くさなかった違法がある」として決定を取消、高裁へ審理を差し戻し、東京高裁第2刑事部で審理へ。令和3年弁護団が味噌漬けにされた血痕から赤味が消失する鑑定書を、東京高裁へ提出。令和4年裁判官3人が初めて袴田被告と面会。令和5年(今年)3月、東京高裁「衣類以外に犯人と決定できる証拠はなく、確定判決に合理的な疑いあり」。再審開始決定。

というのが、57年間の経緯です。この間被告は、ずっと無罪を訴え続けてきました。しかし、刑事事件の中には、諦めて刑の執行を受け入れる被疑者がいることも確かです。わたしはもちろん、事件の有罪、無罪を主張したり、検証したりする立場にありません。が、このトシになると、社会に出てからの57年間を振り返ることが多くなります。余りに長い時間、茫洋としていて、把握するには重すぎるのです。それを「これで良かったのか」とか「不遇の人生だったんじゃないのか」とか思いながら、ただただ、その時間の長さが、重さに変わって行きます。袴田事件、もしも、無罪だったら、冤罪だったらと考えると、この時間の重さはとてつもなくやり切れなくなってきます。わたし自身、不遇の人生だとしたら、「何のためにこの世に生まれてきたのか」と思います。しかし、それどころじゃない、もしも冤罪をかぶせられ、拘束され続けた人生だったら、それは、絶対にあってはならないものでしょう。人間は失敗や間違いをやらかします。捜査関係の仕事、裁判の仕事に携わるひとびとには、なおなお一層の慎重さが必要だと思うのです。57年間の重さを書きました。事件の有罪、無罪を主張する文章ではありませんので、念のため。