フォーク・ソング日本上陸後

 

f:id:doiyanneko:20220220203312j:plain
f:id:doiyanneko:20220220203328j:plain

前回、アメリカ60年代フォーク・ソング・ブームのことをブログしました。その頃、私のように日本でもAmerican Folk Songを歌っていた人たちがもちろんいました。そのFolk songが日本上陸後の展開を、今回は、和製フォークとして私にわかる範囲で記述します。ただ、当時活動していたグループや歌い手は、プロの歌手、作詞家、作曲家になって和製フォークの表舞台に登場しました。それを実名を挙げて書くことは、本人の了承も必要で、了承なしに書くことは何かと問題もあり、個人名は避けて、歌の題名を中心にして書くことにします。事情をご存じの方々には、それぞれ個人名がわかるはずですが、そこはご想像にお任せします。

1960年代アメリカのPOPS音楽シーンでは、フォーク・ソングが大変な盛り上がりを見せていました。日本の音楽産業も、これを手をこまねいて見ているわけにはゆきません。66年、そこで発売されたのが、「バラが咲いた」でした。また同年、テレビ番組の同名の主題歌として「若者たち」が続いてヒットしました。両曲ともアメリカのフォーク・ソングのように、歌手が作詞・作曲したものではありませんでしたが、日常を歌ったものとして、これがフォーク・ソングなんだと世の中に受け入れられました。歌い手は学生時代からAmerican Folk Songのグループで活動していたひとびとでした。

f:id:doiyanneko:20220220203549j:plain
f:id:doiyanneko:20220220203538j:plain

翌年の67年、特筆すべきことがありました。私たちと一緒に京都のフォーク界で歌っておられた1年先輩のO氏が、留学をされるのにともない、グループ解散の記念としてLPレコード「The first  and  last」を制作、発表されました。その中に日本民謡として「竹田の子守唄」が入っています。この曲は、採譜したのは誰かとか、元旋律はどうとか、被差別部落の歌なので放送禁止とか、何かと悶着の多かった曲です。しかし、合唱団「麦」が歌っていたのを評価し、この曲を歌って最初に録音したのはO氏であり、それを聴いたAグループが71年に「翼をください」のドーナツ盤A面に吹き込んでヒットさせたことは間違いありません。またこの時代に、アマチュア・グループがLPを制作・発表するなんて仰天の出来事。そのことは同じ67年、それに続いた和製フォークを転換させた大ヒット曲「帰ってきたヨッパライ」が収録されたLP「ハレンチ」の制作につながります。「ヨッパライ」がラジオで流されると大反響を呼び、各レコード会社はこぞってフォーク・ソングは商売になると力を入れ始めます。アメリカン・フォークに則って、「貧困、放浪、反権力」に加え「フツーの生活内容」も日本のフォークとされました。68年「山谷ブルース」、69年には反戦歌として「坊や大きくならないで」「戦争を知らない子供たち」、71年「教訓」が出ます。また、フォークは貧困を歌うんだとして、ショボい生活を歌った四畳半フォーク、69年「時には母のない子のように」72年「赤色エレジー」73年「神田川」となり、生活の歌としては71年「自転車に乗って」「カレーライス」「雨が空から降れば」、そして「ヨッパライ」に端を発した日本独特の奇怪歌73年「氷の世界」74年「闇夜の国から」が発生しました。

この間にもうひとつ特筆すべきは、楽器メーカー「ヤマハ」が行った「ポピュラーソングコンテスト」(略称「ポプコン」)と呼ばれるコンテストです。もともとはプロ歌手のコンテストだったのが、途中からアマチュア歌手の登竜門となり、多くの才能を発掘し新しいフォーク・ソングを生み出したことは日本の音楽史上、高く評価して良いと思います。73年「あなた」75年「時代」「わかって下さい」77年「あんたのバラード」78年「夢想花」79年「大都会」80年「街が泣いてた」81年「サヨナラ模様」82年「待つわ」などなど・・・・・。グランプリを受賞しながらヒットに結びつかなかった曲も多くあるものの、このコンテストから産出された「作詞、作曲して歌う」スタイルの歌手のあり方は、日本の音楽界にとって無視できない重要事項であります。それまでは、作詞、作曲はプロが行い、歌手はそれを歌うだけでした。こうして66年から始まった日本のフォーク・ソングですが、誰が言い出したか「ニュー・ミュージック」なんて言い方に変わり、77年「冬の稲妻」78年「チャンピオン」とつながって行きました。学生時代、American Folk Songに浸っていた私ですが、日本語で歌詞を書き、作曲して歌うSinger & Song Writerの変化は、日本のその後のフォーク・ソングとして大歓迎、当然の嬉しい結果だと捉えています。66年から80年代まで続いたこれらの事象のうち、その金字塔として、66年「空に星があるように」69年「風」74年「なごり雪」75年「シクラメンのかほり」79年「異邦人」「さよなら」80年「恋人よ」などの優れた曲は、この時代日本が生んだ誇るべき文化だと思っています。ただ、現在2022年の歌世界を見ますと、歌詞はつまらなく、曲も乗りのいいリズムだけ、歌い手はダンスや振り付けに長けたアイドル可愛い子チャンばかり。まことに貧しい情けない状態だと思います。みなさんはどう感じておられますか ? 。比べて和製フォーク誕生からニュー・ミュージックの時代が特別に輝いて見えるのです。

f:id:doiyanneko:20220220203821j:plain
f:id:doiyanneko:20220220203755j:plain