鴨川を歩く

二日前、病院へ行ってきました。5月の手術以来、十二指腸に突き刺さっていました栄養補給のためのチューブ、腸瘻が抜かれました。左脇腹から抜かれたチューブ、血に染まって30cmほどの長さがありました。これで点滴状態の栄養補給から解放です。やっと自由の身になれた感じがしました。有り難い有り難い。とは言え、手術から半月間ぐらいは、経口の食事、栄養の摂取はできなかったので、この腸瘻が頼り、身体に必要最低限の栄養を補充できたのも確かです。手術直後は呼吸困難で、室内を5メートル歩くのにも息が切れ、苦しみました。苦しいリハビリの最中、「これは秋ごろまでつづくだろう。秋が来れば何とかなるのではないか」と思っていました。秋が来ました。もう晩秋です。呼吸をふくめ、何とかなりました。有り難い有り難い。

毎日の生活の中で、散歩は重要な作業です。クルマを運転して市内の駐車場に入れ、鴨川の河川敷を約4km歩きます。スマート・フォンに入っている万歩計は、7500歩から8500歩を記録します。自分では早歩きをしているつもりでも、後ろから女性が追い抜いて行きます。見ている間に、距離を引き離され、いかに自分が遅いのかを自覚します。特にオバチャンに追い抜かれると、自分のノロさが応えます。

秋の鴨川河川敷を歩いていると、空と川と木々と、つまり自然が目の前に展開します。自分という存在が、自然の中のひと粒、地球上の極小点、更に言えば宇宙のひとかけらのゴミとして感じられます。思うのです。手術前はどう思ったのか回顧すると。もしも手術が失敗して、麻酔から醒めないまま、死んでしまったら。これはこれでOK。自分ではどうしようもない。仕方ない。怖くも何ともない。他方、手術後はどう思ったのか。すべて上手く成功したら、これもOK。結構なことです。そして手術後の呼吸困難と、苦しいリハビリのなかで、それでも完治へ向かわなかったら。癌が転移して、身体がむしばまれる状態になったら・・・・・。そう、最悪の結果を予想したとき・・・・意外でした。生への執着が湧いてきませんでした。全身に癌が転移したら→「ホスピスへ送ってほしいと頼もう」→ホスピスで痛みが出てきたら、麻酔薬をジャブジャブ注入してもらって、そのまま意識混濁→眠るように死にましょう。こうはっきりと自覚をしました。何となく爽やかな感じでした。

昨夜のテレビ番組で、「癌について」意見交換をしていました。検査で癌が見つかった時、医師が本人に、本人が連れ合いに、子供に、両親にどう伝えるか。なんて、ちょっとした議論になっていました。ところがこちらは11年前から食道癌の患者です。今年4月に食べ物が呑み込みにくくなった時、「来たか。またか」と思い「さあ、病院へ行って検査しよう」と日常生活の一端のように冷静に対処できました。もちろん11年前、はじめて癌が見つかった時、医師から「大きい食道癌です」と告げられ大いに動揺しました。検査前のアンケートの「 ▢  癌が見つかった時、告知を希望する」に、チェックを入れていましたので当然です。当時、この部位の癌に罹った知り合いの人は10人ほどいました。全員、半年もたずに死んでいます。オレもこれで終わりか。このときは暗澹たる気分でした。さらに、外科医から手術の説明を受けました。(これはちょっと無茶だ)と思いました。(みんなこんな大手術を受けて、耐えられずに死んでいったのか)。それからWebの情報を漁るようにかき集め、「放射線治療」にたどり着きました。幾人かの医師は「そんなモンで治るか。また再発する。しかも放射線を当てた患部は、ヤケドのようになって、再発したとき手術ができなくなるゾ」。他方、主治医と放射線治療医師は「それがあなたの選択なら」と反対はしませんでした。2ヶ月にわたる入院、放射線治療、そしてそれから2ヶ月後の内視鏡と組織検査。食道癌は消えました。以後6年間、半年に一度、計12回の内視鏡および組織検査、すべて再発なし。「完治」となりました。ここで安心したのがいけなかった。また、不摂生をはじめてしまいました。

今年4月再発を自覚し、11年前入院したN病院を受診して、「放射線治療後の患部は手術が無理なんですヨ」と告げられました。手術以外にどんな治療法が残されているのかと不安を抱えて内視鏡検査の結果を聞きに行った次の受診で意外でした。「手術です。それ以外に助かる方法はありません。当病院では対応できないので、K大学病院で手術して下さい」。医師は事前にK大学病院に相談していたようです。

再発を確かめにN病院を受診するとき、調べて見ると11年前の医師は見当たりませんでした。そこで食道専門の医師を事前に調べ、A医師に目標を定めました。受診予約の時、患者が医師を選べないことになっています。わざと予約をせず病院を訪れ、自覚症状と以前の病歴を看護師に伝えると、こころえたものでA医師の受診を設定してくれました。ただ、予約なしなので、待たなければならない。受診まで6時間近く待ちました。結果的には、A医師に診てもらったことがラッキーだったと言えます。K大学病院の手術チーム親玉は、A医師からの紹介を仲間からの紹介のように話して対応してくれました。同じ学会仲間なのかも知れません。十一年の時間の流れの中で、その間に医学の進歩があったのでしょうか。放射線治療後の患部手術は無理と言われていたのが一転→可能となり、12時間予定の手術は15時間かかりましたものの、成功しました。晩秋を迎え、腸瘻も取れ、毎日鴨川の河川敷を歩いています。大宇宙に漂うひとひらのゴミも、まだ生きながらえています。