圧倒的に優秀

 

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令和3年の春

 現在の総理大臣が、内閣官房長官だった昨年「霞ヶ関の官僚には、圧倒的に優秀なひとが多い」という発言をしたという報道をどこかで読んで、唖然とした記憶があります。折りしも、新型コロナウイルス対策で、PCR検査の目詰まり、雇用調整助成金の申請受付機能不全、国民一人あたり10万円の一律給付金その配布方法をめぐるドタバタ劇、アベノ・マスク配布の幼稚さ、各省庁のデータを統一集計もできない、などなど見ていたさなかだったこともあって、( こりゃダメだ )と思いました。新型コロナウイルスパンデミックは戦時下ともいえる有事です。国の統治機構のあり方が、数々の失敗が山積みされた太平洋戦争の状況と酷似しています。76年経った今、何も変わっていないことに慄然とします。

さて、問題の本質は何なのか。問題のルーツは明治維新にまでさかのぼります。260年間つづいた江戸時代は、封建制度すなわち身分が固定されていることを前提とした時代でした。明治時代になって、一部爵位などは残ったものの、身分制度が崩れました。江戸時代よりまえの戦国時代までは、武士の時代。腕力、武力、策略で出世できる下克上の時代でした。明治維新になって、まさかまた腕力の時代にもどるわけにはいきません。そこで身分出世の基準にいつしか、知らず知らずに選んだのがお勉強だったようです。司馬遼太郎氏の小説「坂の上の雲」で、のちに陸軍、日本騎兵の父と呼ばれた秋山好古が9歳のとき弟、真之が生まれ、経済的に困窮している両親が「いっそ寺へやってしまおう」と相談しているのを聞いて、「赤ン坊を寺へやってはいやぞな。ウチが勉強してな、お豆腐ほど(の厚みの)お金をこしらえてあげるぞな」と懇願する場面が書かれています。明治元年9歳の少年に、すでに「お勉強」が貧困から抜け出る方策だとの意識があつたようです。お勉強、学問を重要視するのは悪いことではありません。しかし、難関試験を突破すれば、将来の身分、特に経済的な安定が保証されるという意識が、制度として確立すると、それがおかしなことになってくるようです。試験の結果が身分の有利、不利に関係するとなると、試験そのものの公平性は必ず保たれなくなります。また、一旦難関を突破しさえすれば、安心してそのあと勉学に励まなくなる弊害も出ます。「一流国立大学出の俺の年収が、三流大学出のお前より少ないのはオカシイ」と言って失笑を買ったひとがいました。何より問題なのは、人の創造性という大切な能力は、試験で測れないことです。お勉強試験で選んだ集団が、平時にうまく行っても、有事に機能不全におちいるのは、創造性が欠落しているひとびとの集団だからでしょう。また、民間企業の活力はこの創造性によるところ大です。わが町で急成長したモーター製造業の創業者が講演で、求人募集に「国立大学の学生を採用するよう助言を受け、採用したものの役にたたず、すべてダメだつた」と話していました。「これこれこんなモーターを作れ」というと、「無理です。それはこうこう、こういう理由で不可能です」と答えが即座に返ってくるというのです。状況理解には長けた能力があるものの、創造力は皆無だといってました。「三流大学出の社員は、あれこれ苦労しながら何とかこちらの要求に近い製品を創り出す」とも言っておりました。つまり秀才は状況理解ができるが、創造性はないとも言えます。「秀才」という言葉は、中国随から1300年間つづいた、科挙という官僚登用試験科目の名称だそうです。最も難しい科目で、言葉だけが残ったようです。太平洋戦争で作戦遂行にあたったのは、合格難関の海軍兵学校陸軍士官学校の成績優秀な秀才たちでした。結果は目を覆いたくなるような、馬鹿で幼稚な失敗山積でした。行政面において、高等文官試験に合格した秀才たちも同じでした。東京大学卒業、元通産省官僚で、作家だつた堺屋太一氏は「東京大学の入学試験は、クイズに強いひとを選んでいるようなものだ。腕立て伏せを何回できるかで選んだ方がよほどマシだ」と生前言っていたのを思い出します。

霞ヶ関の官僚群、成績優秀なひとが多いのも確かでしょう。しかし、誤解してはいけません。試験に圧倒的に成績優秀でも、有事に能力を発揮するかしないかは、むしろ逆だと思ったほうが良い。新型コロナ対策という有事に、随所に機能不全を通り越して、馬鹿で幼稚な対策があらわれてきて、世の中を不幸にしているのはこれを表しています。業界の常識は、一般世間の非常識。官僚世界の常識は、一般市民の非常識。こう考えれば、いまのこのどうにもならない現状を、少しは理解できるのではないかと思います。