終戦記念日を前にして

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2021年 夏

今年も暑い夏です。76年目の、広島と長崎の原爆死没者慰霊平和記念式典が終わりました。もうすぐ終戦記念日です。かねがね、戦争における非戦闘員、民間人の死傷者が増えたのは、20世紀になってから、もしくは第一次世界大戦からではないのかと疑問を持っていましたので、調べてみました。もちろん正確な犠牲者数を確認できた調査などあるはずもないのですが。心理学者スティーブン・ピンカーが「暴力の人類史」上巻で、歴史家マシュー・ホワイトの「殺戮の世界史(2010年)」から導いた「歴史上の主な戦争や人災による死者数」を、20世紀中頃の人口に換算して表にした資料を見つけました。(死者数には兵士も民間人もふくまれています)。死者の実数ではもちろん第二次世界大戦が最多です(5500万人)。驚いたのは、13世紀モンゴル帝国の征服が2位4000万人(20世紀中頃人口に換算すると2億7800万人)、3位は8世紀安史の乱3600万人(同4億2900万人)となっています。歴代中国王朝は紀元前より北方騎馬民族の侵入、略奪に頭を悩まし、万里の長城を築いてなんとか対峙してきましたが、モンゴル(元)は金朝を滅ぼすと、いっきにユーラシア大陸に帝国を展開します。チンギスハンの言葉に「男たる者の最大の快楽は敵を撃滅し、これをまっしぐらに駆逐し、その所有する財物を奪い、その親しい人々が嘆き悲しむのを眺め、その馬に跨り、その敵の妻と娘を犯すことにある」と語っています(A・ドーソンモンゴル帝国史』)。帝国としての広大な領土拡張は400年間におよび、先住民族に対し殺害、略奪を続けた結果、4000万人の屍を積み重ねたものでしょう。騎馬民族にとつては「応えられない味」なんだと梅棹忠夫氏は説明しておられました。8年にわたる安史の乱では唐帝国とその近隣で人口の3分の1が死亡したことになります。兵と民間人の区別がどうだったのかイメージが湧きません。大変な事態だったのは確かです。7世紀から19世紀にいたる中東奴隷貿易と大西洋奴隷貿易では4000万人(同2億1500万人)の奴隷が犠牲になり、アメリカ建国時にアメリカ・インディアンは2000万人(同9200万人)が殺されました。こうした征服者と被征服者を分ける要素は、武器の優位性にあります。槍、弓矢、太刀にはじまって、投石機、やがて手榴弾、銃、火筒と発展します。相手より武器で優位に立つことが、征服の条件になりました。軍艦、戦闘機、空母となって、「もうイイ加減にしろヤ」と言いたくなると、ミサイル、生物兵器化学兵器核兵器が登場します。昭和20年春には日本軍はすでに死に体でした。降伏の手はずを探していました。連合国もそれを知っていました。降伏は時間の問題でした。英国首相チャーチルと米国大統領ルーズベルト原子爆弾の開発を急いでいました。確かに開発初期の目的は、日本より圧倒的優位に立てる武器を持つことでしたでしょう。開発が完成しニューメキシコ州の砂漠で実験されたのは、同年7月16日、つまり終戦のひと月前です。フランクリン・ルーズベルトは4月に病死しており、あとトルーマンが大統領に就任していました。日本主要都市への焼夷弾爆撃は激しさを増しており、春に連合国軍は沖縄に上陸、7月はじめには全島を制圧しました。死亡188000人の内、民間人50%の94000人。(県民の4人に1人)。原爆の投下計画では、当初京都市が目標になっていたようです。空爆をほとんど受けていないこと、三方を山に囲まれていることは、お椀のなかで爆発させるようなもので、効果(被害)が最大限に引き出せるという理由だと聞いています。同年8月に1歳5ヶ月だった私は、頭上で炸裂した原爆で、もうこの世にいなかったかも知れません。広島、長崎へ投下されることになって、今も生きている私は、両市の被害者の方々に済まないような、後ろめたい気持ちがあります。それにしても、もうグロッキー状態の日本にどうして原爆を落としたのか。砂漠の実験で、威力はわかっていたはず。生身の民間人が生活する都市に落とせば、どんな被害が出るかわかっていて実行。「原爆を使わなければ、米兵の犠牲はもっと大きくなっていた」と言うのが彼らの言い訳です。これは嘘です。日本軍はすでに反撃能力をなくしていました。日本本土に上陸せずに見守っているだけで、白旗を揚げたはずです。原爆を作り上げた以上、実際に使って見て、結果を確認したかったのです。広島の原爆はウラニウム型の原爆。長崎へ落としたのは、プルトニウム型原爆。違う型の原爆を両方試して見たかったのです。一度ならず二度も落としたのはその意味です。赤ん坊から老人まで、非戦闘員、民間人が生活している頭の上へ。ここに先住民アメリカ・インデアンを殺害駆逐し、奴隷という労働力を使って国家を建設したアメリカ人の非人道性が見てとれます。多くのアメリカ市民が非人道的なのではありません。相手より優越した武器を持つと、それを使いたくなる奴がいるのです。それが戦争を起こさせます。マニラ市街戦を戦った兵士は、インタビューで言ってました。「戦争をやめさせるには、戦争をおッ始めた奴を前線に立たせることだ。タマの飛んでこない場所にいて命令を出していては、戦争の残酷さがわからない」と。「俺は必ず帰ってくる I  shall return」はマッカーサーが日本軍に追い詰められてフィリピンから脱出するときに悔しさを吐露した捨てゼリフです。マニラ市街戦マッカーサーの雪辱を込めた意地の産物でした。マニラを占領していた日本兵を全員駆逐するには、大量の民間人犠牲が出るのは分かっていました。フィリピン人死者10万人、日本人兵士全員死者1万2千人。米兵死者千人余りの犠牲を払ってマニラを取り戻しました。「 I  shall return」の実現に前線から遠く離れて命令を出していたのはマッカーサーです。ベトナム戦争も同様の構図でした。ソビエト連邦は70年近くにわたる共産主義社会の壮大な実験でした。スターリンの粛正による死者は2000万人に及ぶとされ、太平洋戦争でソ連は日本敗戦1週間前に参戦して、樺太、北方4島、満州にいた日本人を悲惨な目に遭わせました。

古代ローマで行われた競技パンクラチオンは、ほぼ片方が死亡するまでやるというものでした。兵士と兵士の戦いはこれと同じで、ある程度意味が理解できます。日本の戦国時代のイクサは、武士や足軽同士が斬り合い、それを農民達が離れた丘の上でクワをかついで見物しているイメージです。一方が圧倒的に強固な武器をもって相手を倒すのは、イクサと言うよりも侵略、殺戮のイメージです。更に兵士が武器を持って非戦闘員に襲いかかる必要や意味は絶対にないはずです。原爆慰霊記念日を終え、終戦記念日が近いいま、戦争における非戦闘員の犠牲をつくづく考える暑い夏です。プログは何気ない生活の側面を、茶飲み話しのように書き、ハーブの香りを楽しむように読むものなのですが、「非戦闘員の犠牲」を考えるあまり、過激なブログになってしまいました。現在も、世界各地で非戦闘員の殺戮と大量の難民が途切れることなく発生しています。