大晦日の飲み会

 

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  八坂神社・朮(おけら)火床                                   令和4年の年賀状

 

私が中高一貫校へ通っていた頃、同学年で4人組の仲間は6年間ずっと一緒でした。と言うのも、通学は京阪電車で、内三人は同じ小学校出身。もう一人は隣の小学校出身。同じ時間の電車の同じ車両に乗ります。しかも私以外の三人は同じ陸上部。私は足が遅くて、短距離走は無理ながら、一時野球部(中学)や山岳部(高校)に参加していて練習には長距離走がありました。高校卒業した頃から、大晦日の夜、「走ろう」と言うことになって、約8kmを走ります。ランニング・コースは東山区左京区、神社仏閣が並んでいて、朮参りと除夜の鐘を目当てに参詣する人々が昼間よりも多く往き来する夜道を走ります。学生時代の大晦日の夜は、そうやって走るのが通例でした。昭和38年には道行く参詣客から、翌年に控えていた「東京オリンピック頑張れヨ!」とヒヤカシ声のをかけられたのを覚えています。学校を卒業して就職した年の大晦日から、さすがにランニングではなく、飲み会に代わりました。四人だけの飲み会も十年ほど続くと、高校の別の仲間がひとり、ふたり加わり十人弱の飲み会になって、52年間(ランニング時代を含めると56年間)、毎年大晦日に会っていたことになります。途切れたのは、一昨年、令和元年と去年令和二年、コロナ・ウイルス蔓延によるものです。永年続けてきた飲み会なのですが、いかんせん居酒屋が営業自粛となっては続けるのは無理でした。今年はなんとか再開と思っていたのですが、また、デルタ株だオミクロン株だとなって中止です。52年間の内、同じ小学校出身三人組のひとりは、29年前48歳で急死、もうひとりは四年前から体調不良で不参加です。私も10年前癌の治療で2ヶ月入院しましたものの、運良く命拾いし、ガリガリに痩せていましたが、その年の大晦日も参加して皆勤賞です。というのが大晦日の恒例行事の紹介をしました。

さて、年末は先輩、同輩、後輩、取引先などのご縁のある方々から、この所お身内の死去に伴う喪中ハガキに混じって、その奥さんやお子さんから、ご本人死去の知らせも届くようになりました。加えて、2年ほど前から、「本年をもちまして年初の挨拶を終わらせていただきます」と年賀状の打ち切り通告も出てきて、何となく寂しい限りです。「もう年賀状はやめた」と宣言したひとに、こちらから年賀状を送るのは、ちょっとしつっこい気がして、今まで出していた年賀状の送り先を今年は整理しました。やや、薄情かと思いながらも、一方通行に送っていたひと、商売上のつながりなど大幅にカットし、送付先は去年の約半分になりました。それでも、もう何十年も会ってなくても、毎年必ずくれるひとまでカットできません。「そうか ! 」と思いました。年賀状は過去にご縁でつながっていたひとびととの音信で、無事を確かめ合う「年に一度の交信」なんだと気づきました。そして音信が途絶えたり、ご逝去のお知らせが来てご縁が切れたとき、懐かしい思い出や感謝が浮かび上がってきて、今、自分が生きていることを有り難く思う良い機会なんだと。それも、毎年の年賀状のやり取りが途切れてしまっては、お互い生死の「消息」さえわからなくなってしまいます。「消息」という言葉通り、年に一度の年賀状は生きていることの「確認」だと思えてきました。「袖触れ合うも他生の縁」とは、何事も目に見えないご縁で結ばれているという、仏教からきた考え方なのでしょう。私自身はまだまだ、天(お浄土)に召される思いはなく、この世にやり残したことが山積みです。でも、いずれ寿命が尽きて、天国へ行ったら、ひと足先に天国へ行った仲間達と飲み会ができればいいなと思っています。むかし死んだ愛犬、愛猫にも会えるかもしれない。それも楽しみです。12月22日は冬至、今年も豊作だった庭の柚子を湯船に浮かべて、柚子風呂につかり、中風除けをお祈りしました。令和3年、年の瀬を迎えての心境です。

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