年頭に際して

年頭に際して

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      ボーイ・スカウト後輩の、O.K.クン提供写真です

明けましておめでとうございます。

年が明けました。若い頃のようにやっと越年したとか、「峠を越えた」実感がなくなりました。それだけ、淡々と粛々と生きられるようになったようです。私のようにトシをとりますと、年頭に際し、これからの抱負など考える気にはならず、むしろ、ずいぶん永く生きたナと過去に想いを馳せることになります。人生を振り返って、自分のアイデンティティーは何時どう作られたのかと考えてみる元旦になりました。

江戸時代の薩摩に「郷中(ごうちゅう)」というものがありました。以下、「郷中」の内容は司馬遼太郎の「この国のかたち」からの引用です。江戸期は、礼儀作法、服装、結髪など日本中同一だったものの、教育や学問のやり方は藩によってずいぶん違っておりました。司馬はこれを「江戸期の多様性」と言って評価しています。学問を軽んじた薩摩藩ですが、そこには郷中という独特の教育制度が根付いていました。少年達は居住区ごとの「若衆組」とも言うべき郷中に所属し、寝起きをともにして共同生活しました。大人は関与せず、若者自身によって運営されました。その長たる「郷中頭」は人望主義で選ばれ、西郷隆盛などは、十八、九歳で抜けるべきところ、請われて24歳まで頭を務めたといいます。所属する少年のことで話し合う場合は、その父親の身分がいかに高くても、郷中頭は同格として対峙しました。郷中頭が訪問するとき、父親は袴をつけ、玄関まで出迎えるといったものでした。そこには大人である師匠(教師)はいなくて、同じ郷中の若者が若者を統御し訓練し、大人の干渉を許さず、運営は独立自治だったことに特徴があります。これは各居住区ごとに割り当てられて存在し、「頼山陽は『健児ノ社』と呼んで珍しがった」と司馬は書いています。下鍛冶屋町郷中頭だった西郷隆盛の配下には、成人してから明治維新以後、政治軍事の場で活躍する、大久保利通大山巌、弟の西郷従道東郷平八郎がいました。というよりは、郷中によってそれらの人材が育まれたと、評価することができます。ここからは私の見解です。少し似た教育制度として、会津藩の「什(じゅう)」というものがありました。しかしこれは、6歳から9歳児へ施された「掟」によるもので、「ならぬことはならぬのです」という言葉(のちに「NN運動」として定着する)に表される厳しい躾教育でした。什はあくまで「つべこべ理屈を言うな。ダメなことはダメ」という躾で、「所属する若者が若者を統御する」という自治を持っていた薩摩の郷中とは大きく違っています。

この郷中の話しを持ち出したのは、私が少年時代活動していたボーイ・スカウトと類似性が認められるからです。各ボーイ・スカウトの隊には大人の隊長もいるものの、活動の中心は班長以下少年達10人未満の「班」で、副隊長もしくは上級班長郷中頭の役割に該当します。週に1度ぐらいの集まりで、共同生活とまでは行きませんが、活動はキャンプやハイキングで、それは創始者ベーデン・パウエルが提唱したScouting、アウトドアとサバイバル技能に重きを置く教育方針です。そして奉仕活動がありました。時に慈善事業に見られる「弱者に対する上から目線」はなく、「一日一善」、日にひとつ世の中に対して良い行いをせよ、というものです。公園のゴミ拾いや、赤い羽根、緑の羽根の募金活動で街頭に立ちました。年齢的にイタズラやワルさをする年頃の我々も、奉仕活動によって越えてはいけない一線を暗黙の内に自覚していたと思います。会津の「什」の掟には、「卑怯なことをしてはならぬ」「弱い者をいじめてはならぬ」と具体的に明文化されていますが、スカウト活動のキャンプ生活や奉仕活動によって、自然とそれらは身についていったと思います。「道徳教育」や「いじめの問題」も野外共同生活によって、解決できる「解」がここにあるのではないかと考えるこの頃です。重いテントや食糧を背負い、風雨と戦いながら山中を歩き寝るのが私たちの活動でした。今のキャンプは、親・保護者が4駆のジープやライトバンで荷物を運ぶと聞き及びます。ボーイ・スカウト活動も、塾や習い事に少年達が忙しくて、ずいぶん見かけなくなりました。せめて、スポーツ・クラブがその役割を担ってくれればいいのですが。

自分のアイデンティティーをたどって、在りし日の少年時代を回顧する念頭になりました。自然が自分を育ててくれたと思っています。