わたしの音楽人生

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もうすぐ77回目の誕生日がきます。つくづく歳をとったナと感慨無量です。振り返って永い人生に、音楽がうるおいを与えてくれました、音楽に満ちていたと実感します。小さいころ聴かされた子守唄や大人たちが歌っていた流行歌は別にして、最初の体験は手回し蓄音機でした。家族の誰が買ったのかは不明ながら、鮮烈に残っている記憶は、ある部屋で繰り返しかけて聴いていた78回転のSP盤です。記憶にあるその部屋は、小学1年生まで住んでいた家なので1950年(昭和25年)かそれ以前です。その曲は、ずっとエルビス・プレスリーのハート・ブレイク・ホテルだと思っていましたが、調べてみるとハート・ブレイクの録音は1956年なので記憶違いでした。聴いていたのは何の曲だつたのか、わからなくなりました。楽しくて、同じ曲を繰り返しかけていました。回るのは電気ではなくゼンマイというバネの力、増幅された音も電気ではなく、レコード針の振動を、針を付けたこぶしほどの円形箱が反響し、直接音を出す蓄音機でした。エルビスのハート・ブレイクを繰り返し聴いた記憶はもっとあとで、それは45回転シングル盤(ドーナツ盤)かも知れません。そしてSP盤がモノラル録音だったところへ、ステレオ録音のLP盤、シングル盤が登場、驚いて感動したのを覚えています。スピーカーが2つついて、軽いピックアップ、ゼンマイを手回しする必要なく、ターン・テーブルが電気モーターで回るステレオ・プレーヤー。買ってもらつたプレーヤーの形がいまも脳裏に焼き付いています。「錆びたナイフ」という歌、中学3年生、「南国土佐をあとにして」高校1年生、同級生が歌っているのを聴いた時、からだの中を言いようのない感覚が走ったのを明確に覚えています。小学校5・6年時の担任先生は、戦時中軍国少年だつたようで、敗戦を境に手のひら返したように民主主義を唱えたひとでした。戦闘機パイロットにあこがれていたらしく、民主主義を標榜する舌の根も乾かないうちに、戦闘機操縦のテクニックを懐かしみながら語ることも多く、このひと偽善者だと小学生ながら直感的に感じていたものです。その担任から「歌謡曲、流行歌は下等で卑猥だ。歌ってはいけない」と、教えられました。歌って良いのは小学唱歌のみ。歌謡曲など歌おうものなら、怒鳴られ、チョークが飛んできたものでした。当時、我が家にはラジオがなく、歌謡曲のみならず、音楽、歌から隔離された無菌状態。中学生、高校生になって、友達が歌う歌謡曲は乾いたスポンジに水を垂らすようにこころに染みました。そしてポピュラー音楽の大流行、ドーナツ盤の発売、テレビでは「ザ・ヒットパレード」。無菌状態だった少年が、頭から音楽の集中豪雨を浴びた状態でした。中学生のころから、伝書鳩を飼っていて、高校1年生の時、同級生K君も鳩を飼っていると知って、彼の家を訪ねました。大阪船場の家具問屋、大きな家の大屋根の上に、まだ1軒分ぐらい住宅規模の広さの鳩舎が設けられていました。鳩の数も半端でなく、ほとんど血統書つきです。後日、血統書つきの数羽を無償でもらいました。訪問したとき、Kクンの部屋が広くて、美しく整えられていたのに驚きました。お手伝いさんが毎日、掃除ベッドメイクをしている感じがしました。裕福な家庭とはこんなものなのかと。私の部屋は、押し入れのような3畳間でした。その時、これが兄貴の部屋だと、隣のドアをわずかに開けて、のぞき見させてくれました。やはり広くて整理されていて、目をひいたのはギターが立てかけてあったことです。高校1年生の暮れ、別の同級生Sクンとアルバイトをすることになりました。Sクンは家庭が経済的に苦しく、生活費に困っていて働くのは当然のようにしていました。軽い気持ちで、デパートの歳暮配達アルバイトにつきあいました。自転車のうしろに歳暮品を山積みして配達するのですが、行った最初の日、住んでいる区を聞かれ、「東山区です」と答えたら、「よし、お前は東山区担当だ」となって、配達先は坂道ばかり、急な上り坂ではうしろの重い荷物で自転車の前輪が浮き上がり、ハンドルを体全体で押さえなければなりません。登り下りの連続、毎日クタクタになりました。大晦日がきて、受け取ったおカネ、Sクンは生活費にするのですが、わたしは使う目的を考えていませんでした。おカネを手にして、さて何に使おうかと思ったとき、思い浮かんだのがKクンの兄さんの部屋で見た、ギターでした。調弦のしかたもわからずギターを買いました。教則本を買ってきて調弦し、単音でメロディーを弾いていましたが、教則本を進むと和音が出てきて、ド・ミ・ソ・ドと押さえて、ジャーンと弾いたとき、雷に打たれたおもいがしました。( スゴイ ! )。これが私の音楽のはじまりです。同じ体験を寺内タケシさんは、「最初に和音を弾いたとき、からだに電気が走った」とラジオ番組で話していました。私はこの歳まで、16枚のオリジナルCDを発表できました。クラシック音楽も、ポピュラー音楽もやります。作曲をするようになって、なおいっそう音楽の奥深さを感じるようになりました。音楽にかぎらず、絵画でも文学でも、創造することは、ある程度のテクニックが必要です。しかし、テクニックの別に、曲にはこころの琴線にふれる芯になるものが必要です。そのいわばエキスのようなもの、それを私の中につくってくれたのは、蓄音機の音楽、同級生が歌う歌、そして少年時代、青年時代に頭から集中豪雨のように浴びた音楽のかずかずです。音楽でこころが震える要素、それを何よりも大切にしています。神様に感謝しております。

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五線紙に鉛筆で音符を書くこともあるのですが、主にパソコン画面の五線紙に音符を貼り付けてゆきます→音源につなげば、そのまま音楽になります