競馬ロマン

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Wikipediaから

私は京都から大阪府にある高校へ通っていました。親しくしていた友人Xクンが競馬調教師の息子で、淀の競馬場(現在は京都競馬場という)に住んでいました。ある土曜日、学校の帰り、淀駅で途中下車して、私はもうひとりの友人といっしょにXクンに連れられ彼の自宅(厩舎)をたずねました。その日は競馬が開催されていて、当然、見に行こうとなります。緑の芝生にカラフルな装束の騎手がまたがって、一団の馬が走ります。歓声が上がります。夢のような世界でした。スタンドではなく、第2コーナーの植え込みの陰から、高校生3人が息をのんで見ていました。「未成年は買うてはアカンのやけど」とXクンにいわれながら、高校生を隠すために、着ていた詰め襟の学生服を脱いで、ワイシャツ姿で友人と私は投票所へ行って100円馬券を買いました。当たった記憶はありません。これが私の競馬体験のはじまりでした。その年の秋、菊花賞を観にXクンの厩舎をたずねました。厩舎のある一画は騒然としていました。菊花賞だからではありません。厩務員が待遇の改善を求め、大レース当日にぶつけて、ストライキを行って混乱していました。スタンドではわからなかったでしょうが、厩舎では出走馬を爆竹で威嚇したりしていました。馬は観客席の歓声でもおびえて気持ちのバランスを失ったりします。爆竹で威嚇、もう無茶苦茶でした。菊花賞の出走時間がきて、私たちはスタンドへ移動しました。出走馬の本馬場入場、その年皐月賞、ダービーを制して史上2頭目三冠馬をねらう本命馬コダマを目のあたりにしました。小柄な体格、栗毛の馬でした。小さくてほかの出走馬と比べ、弱々しく感じました。これが三冠をねらう圧倒的に強い馬かと不思議な感じがしました。厩舎の大混乱を知っているだけに、コダマは被害を受けなかったかとの心配もありました。人気は圧倒的な本命。しかし結果は5着の惨敗でした。夕闇がせまったレース後の馬場には寂しさ悲しさがみなぎっていました。1960年晩秋、高校2年生の時の思い出です。以後なんとなく競馬に興味を失い、競馬場に行くこともなく、テレビでもレースを観ていません。史上2頭目の三冠場シンザンも観ていません。社会人になってから、自らの道を歩んでいたところ、世の中で最も就職したくなかった会社である家業に引き戻され、代表取締役の印鑑を無理矢理もたされました。とてつもない借金が両肩に重くのしかかりました。望む道を断たれ、運命を恨んで鬱屈していた時、競馬に足を踏み入れました。半分はウサ晴らしだったのだと思い返します。その時感動をくれた馬がいます。スピードシンボリです。デビューから華々しい戦績を上げていたわけではありません。もちろん並の馬よりも成績はそこそこ上げていました。新馬戦、2戦目はともに4着、未勝利戦をようやく勝って、次に2連勝したものの、明け3歳クラシック戦線では皐月賞21(23頭だて)、ダービー8着、菊花賞2着、有馬記念3着で、この年は3月の京成杯を勝った1勝のみです。ただ、菊花賞はハナ差の2着と注目されました。4歳になって1月、3月とGⅡレースを連破、春の天皇賞を勝ってようやく遅咲きのGⅠ馬となりました。細身の足長馬で、生産者シンボリ牧場オーナーは生まれた時から、走る馬だとの確信をもっていました。買いに来た幾人もの馬主と価格が折り合わず、売れ残って牧場主が馬主となつた経緯がありました。私がこの馬に感動したのは、7歳になったスピードシンボリが前年につづいて、連覇をはたした引退レース1970有馬記念です。テレビの競馬中継、前年と同じライバルのアカネテンリュウ(5)をクビ差はなして、ゴール板を駆け抜けた時は、涙が止まりませんでした。なぜそんなに感動したのか。7歳にもなった競走馬が人気投票レースで勝ったことはもちろんです。しかし、振り返れば、大阪万国博覧会景気で商売は超多忙な時でした。世間様が博覧会に浮かれていた時、家業は大車輪そして超人手不足、睡眠不足。博覧会に出かけるどころではありませんでした。心身ともボロボロになり、私は人生のドン底であえいでいた頃と重なります。私はそこに若い頃うだつの上がらなかった馬が、必死で這い上がってきた姿を重複させていたような気がします。先が見えない暗闇の中で、(オレもいつかはなんとかなるかも)と希望の光を見たのかも知れません。作家の虫明 亜呂無氏はレース前、野平厩舎で馬体に手のひらを当て、しばらく目を閉じて掌に勝てる感触を感じたと、のちに語っていました。みんな7スピードシンボリの引退レースに祈りを込めていたのだと思います。