お知らせの寒中見舞い

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昨日2021年1月17日、神戸の震災から26年がたちました。去年2月6日のブログで「災害の記憶と反省」として、当時の体験などを記しましたので、よければ読んで下さい。生きていればいろんなことがあります。逆に死んでしまえば、それまでです。今年おくった年賀状の返信として1枚の「寒中見舞い」が届きました。「夫〇〇が、昨年〇月〇日永眠いたしました」との知らせ、ハガキには中学校からいっしょだった同級生の名前がありました。年賀状は知り合いのひとびととの消息確認の意味もあります。しかし、その本人の死去のしらせが、奥さんから来る。喪中年賀欠礼ハガキもふくめ、本人死去の通知は今回これで6通目のはずです。こころの隅に軽い鈍痛と喪失感をおぼえます。逝ったと言うか、終わったと言うか、消えたと言うか、歩き続けている自分と、落ちていった( あるいは昇っていった、あるいは土に還った ) 知人との対比。そして生きていれば必ずある、さまざまな苦悩、不幸、困難とのオサラバ。ここで感じるちょっとした死生観は哲学的・宗教的であります。身体が朽ち果てて死んで行く。逆に病気に罹っても、身体に備わった治癒力で回復していく。生まれたての子供が、母親の乳房に吸いつく。三度の食事を摂ることも、排泄することも、自然の営みです。生きていることは、奇跡の連続と言ってもよいほどきわめて不自然、不条理だと捉えることもできますが、それはまた、きわめて自然摂理だとも考えられます。日本人は、あるいは東洋人は、自然と共存する、または人間も自然の一部なのだと感じて生きてきました。西洋人は、自我を確立させ、人間を明確に自然と分けて考えているように思えます。とくに神は唯一とか神と契約を結ぶという考え方には、私たちはなじめません。神様はあたりにいっぱいいて、神もひとも自然の一部なのですから、すべては神の思し召し。いま、こうしてあるのは、自然現象なのです。地震や台風、洪水で被害に遭う。生まれることも死ぬことも、すべてあるがままの自然。それは自然と対立するよりも、ずっと楽な生き方のように思えます。東洋人の叡智と評価しても良いのではないかと考えます。対立したり攻撃したり、欧米でもアフリカでも中東でも抗争がつづきます。しかし、日本に住む外国人は、日本の習慣のなかで、自然とともに生きる方がよほど賢明だと感じるひとが出てきているようです。「Cool Japan カッコいい日本」というテレビ番組を見ていると、その萌芽を外国人の意見の中に、チラホラ散見できて、興味深く思います。若い頃は、死をおそれる意識が強かったのに、この歳になると死と冷静に対峙しやすくなってきました。とはいえ臨終に際して、あがき、のたうち回るかも知れませんが・・・・。このところ、友人の訃報に接すると ( オオ、一足早く逝ったか )という、やや薄情な感覚なのです。永く生きてきて、生死に関する情報を豊富にもちあわせた結果、こんな感覚になるんでしょうナ。