筒美京平氏の訃報

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秋明菊ホトトギス

 

2020年10月7日作曲家・筒美京平が死去したとの報道がありました。私が20~30代のころ、筒美氏は超売れっ子作曲家で、華々しく次つぎヒット曲を連発していました。「ブルーライト・ヨコハマ」「また逢う日まで」「魅せられて」など、ご存じの方も多いことと思います。私も曲作りをする者のハシくれとして、作詞家の阿久悠氏とあわせて、感心をもっていた人物です。その名前を途切れずにあちこちで見かけていましたから、今日までズーッと作曲を続けていたことは、当然知っていました。しかし私の記憶にある作品名は、ある時期までで、以後今日までどんな曲を書いていたのかわからず、ネットで年表をくって見ました。愕然としました。1966年の「黄色いレモン」にはじまり、よく知っているヒット曲が多数並びます。しかし1980年以後、私が知っている曲がないのです。何が起きたのか。大きな歌謡界の変化が見えました。叙情歌、演歌、和製フォーク、ニュー・ミュージックがヒット・チャートに上ったのは、80年までです。「ギンギラギンにさりげなく」と可愛い子チャンに歌わせておけば売れる時代を作り出し、歌詞・旋律は二の次、もっと言えば「ドーでも、よろしい」。アイドル歌手のプロマイドPOPSとでも呼ぶ時代の到来です。思いかえせばそのころが日本文化全体のターニング・ポイントだったのでしょう。テレビ番組は学芸会以下の企画でお笑いが中心。タレントが何か言ったら、録音された笑い声がゲラゲラ流れる。内容はすこしも面白くない。CMも美感、格調、アイデァまったくなし。映画の物語は「ドーでもよく」CG使って、ビルから飛び降りたり、爆発したり、カー・チェイスと弩ハデ。これが今日まで続いています。古くは服部良一あたりから、古賀政男、中村八大、遠藤実宮川泰、平尾昌晃そして筒美京平とつづいてきた作曲家、彼らをわたしはメイン・カルチャーととらえています。不毛のクラシック音楽界は、まさにサブ・カルチャーになり下がりました。歌謡曲ではある時点から、曲がさきにできて、それに歌詞をつけるといった作り方になつたようです。それでは心の琴線に触れる歌はできにくく、プロマイドを売るようにアイドル人気を売るやり方。文化から逸脱して単なるゼニ儲けになっています。この手の音楽が主流になり、歌詞の善し悪しはどこかへいつてしまいました。晩年の阿久悠氏がある番組で「いい歌詞が書けたと思って、発売しても、売れないンだよ」と悩んでいたことを思い出します。80年以後今日まで、筒美氏作曲のおびただしい作品群。ヒット曲も多いようですが、どんな気持ちで曲を書きつづけてきたんだろうかと、複雑な気持ちになりました。筒美氏はグループ・サウンズに楽曲提供することから出発した作曲家です。だからと言って、歌詞を無視、旋律さえ良ければなんて考えていたとは思えません。80年までの曲は、実に歌詞と旋律がうまくフィットしています。フォーク系の私でも、唸りたくなる曲がたくさんあります。80年以後の歌詞が空虚な曲をどんな気持ちで書いていたのかと、悲しくなりました。2002年ヒット・チャート1位になったというTOKIOの「AMBITIOUS  JAPAN」を聴いてみました。やたらと「まっしぐらに旅に出た」ばかりで心の琴線に触れる言葉はありません。同じ鉄道会社が78年に提供した「いい日旅立ち、雪解けまぢかの・・・岬のはずれに少年は魚つり・・・砂に枯れ木で書くつもり・・・」といった情景、哀愁などは感じられませんでした。音楽が売れない。と音楽産業の衰退が話題になります。まず「ゼニ儲け」と考えてやれば、まともなひとびとがソッポを向くのは当たり前。歌詞を大切にし、歌づくりの楽しさを取り戻すのは、ソング・ライター、ミュージシャンばかりでは無理です。音楽産業にたずさわるひと、とくにプロデューサー、レコード会社の経営者の意識改革が必須です。筒美京平氏の訃報に接し、作品群を見て思ったことです。