正月早々

お正月元旦の午後、石川県能登半島を襲った地震に驚きました。明けて2日夕方、羽田空港日本航空旅客機と海上保安庁の航空機が衝突する事故が起きました。地震に関しましては、まだ救出も支援も続いていて、もう少し経過を見守りたいし、言いたいことがたくさんあるので、次のブログに譲り、ここでは飛行機事故についてブログします。

飛行機事故のほとんどは、離着陸時に集中していると言われていますが、まず、この時代、「離着陸」許可が音声通信のみに頼っているのが驚きです。現在、自動車メーカーでは、事故防止策が知恵を絞って開発されています。一部では「自動運転」なんて技術も完成が近いようです。技術のコア部分は「センサー」にあるようです。もうひとつ、鉄道の初期、単線運行で、駅と駅との区間を「閉塞区間」とし、両側から列車が走ってくる正面衝突を避けるために「タブレット」という「通行許可書」を設けて、それを所持している列車のみが、その区間に進入できるシステムがありました。閉塞区間を通過して、次の駅に到着したとき、タブレットを駅に渡し、「待っていた、もしくは次にやってきた逆方向に進入する列車が、そのタブレットを受け取って、はじめて閉塞区間を走ることができる」というルールでした。古びたルールながら、今もってこのタブレットのルールで運行されている単線は存在しているようです。少し発展して、兵庫県加西市北条鉄道では、タブレットICカードに置き換わり、出発駅で運転手が受け取ったICカードをカード・リーダーにかざすと、信号機が青になって単線を進行できるようになっています。

そこで、今回の衝突事故を防止する手立てとして

  • 自動車の事故防止センサー
  • 単線運行のタブレット方式

のふたつを検討してみてはどうかと考えます。

まず、各滑走路の幅プラス左右に同じ幅、つまり滑走路を中心に3倍の幅、帯状の範囲を決めて、その端に赤色と青色に灯る照明を交互に埋め込みます。滑走路の端から端までです。その帯状の範囲(滑走路と両側)にセンサーを設置します。そのセンサーは人間以上の大きさの物体が侵入すると、「赤灯」が点滅します。人間、自動車、運搬籠、もちろん機体もです。鳥や小動物には反応しません(これはセコムに警備を任せている当社も確認済み。夜間警備体制になってから、ネコやネズミの大きさには無反応です)。滑走路に入ってはいけない物体がある場合と、これから離陸しようとして滑走路に機体が入った場合に、両側に並んだ「赤灯」が点滅しますので、「着陸不可」です。上空から着陸しようとして、管制官から「着陸許可」を得ている機体であっても、着陸できません。つまり単線鉄道の「タブレットを持っていない列車」と同じ扱いです。滑走路から離陸機体が離陸したり、余計な物体がなくなった時点で、点滅していた「赤灯」は消え、「青灯」が点きます。「青灯」は点滅ではなく、「着陸に支障の無い状態や滑走路へ進入できる前状態」では常に点いています。上空から見て、機長は滑走路の両側の「青灯」列を確認して、着陸態勢に入ります。もしも、離陸のため滑走路に近づいた機体があっても、滑走路の幅プラス同じ幅の部分まで機体が近づけば、「赤灯」の点滅になります。こうして、高度なセンサーを二重三重に備えた滑走路は、おおむね安全な状態になります。離陸のため滑走路へ入った機体の機長は、照明が「青灯」常灯から「赤灯」の点滅へと変わったことで、「今、この滑走路はオレだけのものだゾ。誰も入ってくるな」と宣言した感じになります。それでは、そこへ別の機体もしくは、別の物体が脇から侵入してくればどうなるか。→点滅していた「赤灯」を消しましょう。真っ暗です。滑走路に2つ以上の物体があれば危険信号です。「赤灯」ももちろん「青灯」も消えます。滑走路上の物体は何であれ(離陸許可を得ている機体も)、急いで滑走路外へ出る必要があり、脇へ出る照明を頼りに出ます。上空で着陸を待っている着陸機も、滑走路の灯が消えたことで、「着陸不可」になります。それから滑走路に何もなくなった状態「青灯」が灯った状態を確認してから、離陸機は離陸進入をやり直し、再度「赤灯」の点滅を確認して離陸することになります。

管制官は空港全体を見下ろせる高い塔の上から、離着陸やさまざまな車両の動きなどを見ているようです。しかし、もうひとつの視点が必要だと考えます。それは、滑走路の端、離陸口と着陸口、すなわち滑走路を見渡せる地上での視点です。もちろん滑走路の端と端は、人間が常駐するには危険な場所です。着陸口は高度を下げすぎた事故、離陸口端っこはオーバー・ラン事故の危険があります。ですから、滑走路を目視するのに、その場所に人間が居る必要はありません。滑走路の端から端まで見渡せる、監視カメラで十分です。すでにこのようなカメラは設置されているのかも知れませんが、高い位置から空港を見下ろしている管制官にも、この地上の視点から滑走路を目視するモニターは必要です。更に言えば、各飛行機に指示を出す管制官の別に、地上の視点で滑走路を見渡す専門の人員が、常に見張っていれば、安全は増すと考えられます。今回の場合、このカメラを目視していたひとが「滑走路に小型機が侵入 ! 」と叫んでいれば、管制官日航機に、着陸復行( Go-around ) の指示を出して事故は避けられたかも知れません。安全の確保には、何重の対策があっても十分とは言えません。今回の事故を契機に、このようなカメラが設置されているかどうかも、知りたく思います。

鉄道の単線運行にはタブレットを使います。タブレットには丸や三角や四角の穴が空いています。到着した列車が持ってきたタブレットを駅の機械にはめ込むことで、本社で列車の位置を確認しているのかも知れません。ここのことは、私は少し理解できていません。今回、小型機の機長は「ナンバー1」という離陸許可をもらったと語ったそうです。次に飛び立てる許可なので「ナンバー1」かも知れませんが、ダメです。順番の番号は刻々と変わります。誤解のもとです。それよりもランダムな数字を離陸許可や着陸許可として発行しましょう。「C2784U」という風にです。Cは滑走路の名称+ランダム数、そして+UはUPで離陸の意味。着陸は最後が+D (Down )になります。この文字が滑走路上や、着陸機が通過する1km手前ぐらいに表示されます。つまりタブレットの丸、三角、四角に該当し、滑走路に表示されている文字と、管制官からもらった許可(文字)が一致してはじめて離陸着陸が可能になります。つまり、タブレットをもって許可されたことになります。コックピットでこの文字を打ち込み、滑走路の文字と一致しなければ、警報音が鳴ります。というのはどうですか ? まだまだいろいろ考えられるでしょう。

これらが私が考えた改善策です。安全はいくら知恵を出しても、出し過ぎることはりません。みなさんで、いくつもの良い方法を考えて、今後の世の中に役立てて行こうではありませんか。素人アイディアながら、doiyannekoの提案でした。

年が明けました

 

明けましておめでとうございます。

今年の元旦は、天気がいまひとつ。雨の初詣となりました。

今年も相変わらず、ブログをつづけて参ります。適当によろしくお付き合い願います。

昨年、年の瀬も押し詰まった年末、自動車メーカーのダイハツ工業が、新車の安全性が国の基準に達しているかどうかを確認する「認証試験」で不正をしていた問題が発覚し、12月26日から全車種の出荷・生産を停止しました。23年4月に側面衝突試験の認証申請に不正があったとダイハツが公表したのが発端です。内部調査をした第三者委員会が新たに174件もの不正を見つけて、それがすべてのクルマに該当すると指摘されました。不正は1989年から30年以上にわたるとなっています。原因のひとつに、2014年以降の短期開発による、現場へのプレッシャーも指摘されています。内部告発が発端だったようです。自動車産業や鉄鋼メーカーなど、この手の検査不正は次々と明るみに出てきます。( またか )というのが私の実感です。( こんなこと当たり前だ )という思いもあります。皆さん、今の若者達の就職希望を、どうお感じになりますか。彼らの就職後の仕事イメージは、ほとんどがデスク・ワークです。冷暖房の効いた明るいオフィスで、スーツを着てモニターに向かうのが、仕事のイメージのようです。しかし、それは本当の意味で「仕事」とか「働く」ことなんでしょうか ? 奇しくもコロナ渦、オフィスに出勤せずに勤務する、リモート・ワークというのが流行りました。あれはほとんど今までやっていたことが、本当の意味で「働いていた」のでないことを露呈したものです。数年前、大手広告代理店の女性社員が、過労死自殺をして、大問題になりました。広告主のホーム・ページに次々問い合わせられる問題に、昼夜通してリアル・タイムで対応しなければならない仕事だったようです。それは確かにデスク・ワークながら過酷な現場の仕事だったと想像できます。私は零細企業の経営者です。我が社でもデスク・ワークはあります。20数年来、担当者はたったひとり同じひとで代わっていません。それより前、欠員が出て「事務員」の募集をしたことがありました。驚くほどの人数、応募者が殺到しました。それが何とExcelの数式や関数を打ち込めないどころか、ワープロ文章も打てないひとが応募してくるのです。商売が忙しくなって、現場で働く労働者は募集してもなかなか集まりませんが、「事務員」の募集となると、「事務」もできないひとが多数応募してきます。デスク・ワークの「事務」は希望職種で、「現場労働」は希望しない職種のようです。恐らくメーカーの製造現場でも、同じ事情、製造や検査の労働者が不足しているのが見て取れます。人手が不足していて現場が回らないのに、土日祭日、超過勤務は罪悪という世の中の風潮、「休め休め ! 」。これが今、メーカーなどで起こっている現象です。「国の基準 ??? そんなことやってられないよ」というのが現場労働者の本音でしょう。中国や韓国では、大学を出ても就職先がないと言います。つまりデスク・ワーク希望労働者の就職は困難ながら、就職先はあるのです。どこでも現場労働者は圧倒的に不足していて、応募者を待ち望んでいます。農業、林業、酪農、鉄鋼・金属、運輸、販売など、現場仕事の労働者は、絶対的に不足しています。1965年に73%だった日本の食料自給率は2021年、38%に落ちています。米の消費量は半分以下に下がっています。米を食わなくなった反面、畜産物と油脂類は数倍に増えていますが、その飼料や油脂原料は輸入に頼っており、大豆や小麦の消費量は変わらないものの、ほとんどは輸入です。大豆(93%輸入)、小麦(83%輸入)。農業従事者数は1965年の11%にまで減り、農地面積は72%にまで減少しました。カロリーで見た日本国民の食料国産自給率も38%。あとは米国、カナダ、豪州、ブラジルその他の国からの輸入に頼っているのが現状です。農業従事者の減少は農家あたりの営農面積拡大や、機械化で補ってきました。かねてより食糧自給率の低下は、識者や農林水産省によって、警鐘が鳴らされてきました。しかし一向に改善される気配はありません。農業従事者という現場労働者を増やすよりは、食料を輸入に頼っている方が楽なのです。輸入ができなくなり、食料や飼料が入ってこなくなって飢餓状態になるまで、改善は無理でしょう。今の若い人たちが言う「それじゃ食えないヨ」とは、「贅沢な今の生活が維持できない」という意味であり、本当の飢餓ではありません。昭和20年敗戦、焼け野原となって「本当に食い物がない」餓死寸前の飢餓状態。あの状態になれば、日本人の多くが農業従事者になって、農場で働くかも知れません。私ども年金生活後期高齢者も農地へ出て、耕すことになり、「背に腹は代えられない」と。餓死が迫って来てはじめて、農業の現場へ出て働くことになるというのが人間の本性です。そんな訳で、自動車産業における「国の認証安全基準」は、またしても知らないうちに誤魔化されることになるでしょう。「クルマは何とか走ってるヨ。あんな基準に適合させろと言っても、人手不足の現場では無理。もっと現場に人をよこせ。人手が足りないのに、『休め休め』と言うナ ! 」と現場からの声が聞こえてくるようです。

もうひとつ、年末の話題。異性にモテないと称する人々が12月24日、東京のJR渋谷駅周辺で「クリスマス粉砕デモ」を行った。とYahooニュースに出ていました。何のこっチャと興味を覚え、読んでみると

「高額のプレゼントを贈るなど、クリスマスを巡る商業主義に警鐘を鳴らすためという。参加者は「クリボッチ(=クリスマスに独りぼっち)も多様性のひとつだ」「これが日本の言論の自由だ!」とメガホンで叫んだが、道行く人はどこか楽しげに見つめていた。「革命的非モテ同盟」という団体が主催した。平成18年以降、同様のデモをクリスマスやバレンタインデーに合わせて実施しているという。「カップルの存在は否定しないし、恋愛に反対もしない。だが、クリスマスはカップルがいちゃつくものだと押しつける風潮はどうなのか」と疑問視する。さいたま市の50代の派遣社員女性も「日本はバブル期以降、クリスマスはカップルがデートしてプレゼントを贈り合う記念日とされてきたが、本来のキリスト教の趣旨は違うのではないか」と訴える ( yahoo ニュースから )。

日本人でキリスト教徒でもない人が、クリスマス・イヴに浮かれているのを「アホか」と苦々しく思っていた私としては、心の内で密かに拍手を送った次第です。ちょっとイイ話しではありませんか。

それでは皆さん、新しい年を、健やかに過ごして参りましょう。



 

 

ひとさまざま



昨日、やっと年賀状の宛名印刷ができました。明日25日までに投函すれば、元旦に配達されるとのこと、やれやれです。今年の初めもらった年賀状を、住所確認すべく繰っていますと、「年賀状は今年をもって終了させて戴きます」との言葉がいくつも出てきました。先方が年賀状の交流を中止するとの宣言に、こちらからしつっこく年賀状を出すのは、憚られます。世間様との交流を絶って生きる選択は、どうかと思うのですが、ひとそれぞれ、生き方、やり方はいろいろあっても構いません。普段から親しく交流している友人はともかく、年賀状はご無沙汰しているひとびととの、無事を確かめ合う交信です。ですから私は年賀状を大切なものと考えていますし、これからも続けて行きます。今朝、出勤するのにクルマのエンジンをかけると、カーナビが「メリー・クリスマス。今日はクリスマス・イヴです」とアナウンスしました。(余計なお世話だ)。私はクリスチャンでもありませんし、クリスマスなんて関係ありません。日本人って(どうしてこんなに節操がないんだろう)と思います。世間の風潮で、クリスマスを祝い、ハロウィンに仮装し、ボージョレ・ヌーヴォーにワインの出来を待ちわびます。春先、清酒の出来を心待ちにするひとは珍しく、立冬に口切り茶の出来を話題にするひとも少数です。日本人なら、ヌーボー・ワインよりそちらの方が大事じゃないの ? ひとの生き方にイチャモンをつけるようで申し訳ないのですが、「年賀状の打ち切り」もそんな感じがしています。良俗はそれなりに意味があり、続けるべきだと思います。関東地方に住んでいるある後輩は、「年賀状打ち切り宣言」をしましたが、そのあと年末か年始に必ず電話をかけてきます。別に迷惑でもありませんが、かけてきた電話に「お前、寂しいのか ? 」と言ったら、「アハハハ」と笑っておりました。

高校が一緒で、気の置けない仲間が集まり、毎年年末に「飲み会」をしています。今年も楽しくやりました。そんな中、「運転免許証の自主返納」の話題になりました。全員「後期高齢者」です。ひとりだけ自主返納をしたひとがいました。家族に勧められたからと言う訳でした。しかし、何となく寂しそうでした。これも私の持論ですが、運転できる内は運転した方が良いと考えます。健康面に問題が出て、運転できなくなっても、返納する必要はありません。健康回復後、再び運転可能になるかも知れないのです。返納してしまうと「あとの祭り」、もう一度取得するのはほぼ不可能です。(あの山の中腹から下界を眺めて見たい)とか(海が見たい)と思い、自分で出かけられるのは、何よりも「脳の衰え防止」です。また、自分が高齢者であることを自覚しますと、スピードは出さず、安全慎重運転をこころがけます。マスコミでは高齢者が起こした交通事故だと、派手に報道しますが、若者の無謀運転による事故の方が多分数が多いし、重大です。私の知り合いの弁護士さんは、91歳で運転していますし、ある茶道の96歳の先生は、京都から大阪まで運転して行かれたと、お家元で話題になっていました。これは意識と、意欲の問題です。このあたりに「老け込む」ひとと、元気なひとの差がありそうです。先日、運転免許の「高齢者講習」へ行ってきました。視力検査では、視野180度、30代の視力だと褒められました。無事故無違反を心がけて、まだまだクルマ運転して行きます。良いお年をお迎え下さい。

 

持つべきものは

去年2022年4月はじめに癌の再発が見つかり、入院。5月18日に手術、朝8時から12時間の予定の手術、夜11時まで15時間かかって食道のほとんどと胃の3分の1を摘出しました。手術から半月後、手足、首、腹部などにチューブが刺さった状態の入院ベッドの上でパソコンに打ち込んで、先輩、友人知人約30人に宛てて、「癌が再発しました。手術をしました。呼吸困難と闘っています」主旨の電子メール・SMSを、発信しました。皆さんに突然の癌再発宣言、手術の報告でした。何故そうしたのか自分でもいまだに分かりませんが、あの時呼吸が苦しく、行く末が案じられ、いささかヤケ気味だったのかも知れません。このまま死ぬんだったら、経緯を知らせておこうと言う意識もあったのは確かです。メール文は「コロナ禍で面会謝絶、ご心配ご無用、またお逢いできる日まで」と締めくくっています。それから約1年半経って、今日別件の受信メールを捜していて、ふと、その時の手術報告メールへのある返信メールが目にとまりました。同期生からの励ましメールでした。少し感動しました。当時、呼吸困難の最中に入院ベッドで受け取った返信メール、苦しみの中で目にして、「おざなりの社交辞令の励まし」程度に受け止めていたのですが、いやいやそんなことはない。罰が当たる。改めて今、すべての返信メールを読み返してみました。圧倒的な励ましに溢れています。何と有り難いことです。「立ち向かえ ! お前なら克服できる」。「肩の力を抜いて、のんびり行けヨ」。「サバイバルはお前の本質だろう」。「再会を楽しみにしている」などなど。その時は苦しみの中で気づきませんでしたが、それでも「簡単にクタばる訳には行かない」と思い、力をもらったのは確かです。改めて読み返してみると、励ましと暖かさに溢れています。いくつかのメールには目頭が熱くなりました。入院ベッドの上でメールしたことを、「あんなことして良かったのか ? 」と少し後悔を感じていたのですが、持つべきものは友人。公表・報告して大正解だったと考えを改めた次第です。

それと有り難いのは、こうして発表していますこのブログです。友人の多くは、毎回小まめに読んでいてくれていて、細かくメールや郵便手紙で知らせなくても、私の近況、考え、行動など核心の部分を理解してくれているようです。病状などもブログからある程度伺い知れるようで、何よりの報告になっています。皆さんがよくやるように、エッセイなど書いて、カネかけて出版し、友人に送っても、興味を持って読んでくれる人はわずか。ブログなら、読みたくなければ開かなければ良いし、面白いと思えば、毎回読むこともできます。場所も取りません。本と違って紛失して捜す必要もありません。できるだけ月2回、更新アップして行こうと思っています。私のブログ読者の方で、何かご注文、ご意見があれば、ブログのメール

E-Mail  :    neco-a-doy_19.03.08_-neco@docomo.ne.jp/

へお知らせ下さい。

学校で文章を書く専門課程に席を置いていて、サークルでは広告の文案を書いていました。書くことはそれ程苦手ではありません。ブログをはじめて4年が経ちます。社会問題や人生について考え、文章にすることは、なかなか良い、頭の体操です。「日記」ほど毎日書けなくても、月に2回の「半月記」と思っています。認知症アルツハイマー症候群なんて、雲の上へ昇ってしまう友人もいる中で、しっかりと大地に足を着けている意識があります。これからもボチボチやって行きますので、お付き合いの程、よろしくお願い致します。

2023年師走



 

 

国家とは

我が家の柿は、今年も豊作でした。柿は何もしなければ「隔年結果」という実のなり方で、豊作の年と不作の年を交互に繰り返します。昨年は豊作でしたので、今年は不作の可能性が考えられました。「隔年結果」を防ぐには、花の咲く時期に花を間引いたり、枝を剪定するのが良いそうですが、そんな面倒なことはなかなかできないので、寒肥と夏土用の施肥を多めにしました。上手くゆきました。写真は甘柿です。もう少しツブの小さな渋柿もたくさんなっています。渋柿は皮をむいて、風干しするとたっぷり甘くなり、おいしいものです。柚子も豊作で、大きめの実がなりました。手入れ(剪定)もせず、年に1~2回肥料を施すだけで、農作業と言えるようなことは何もしませんが、それでも木に実がなりだすと、大地のチカラ、太陽のチカラ、風雨の有り難さ=自然の有り難さを感じます。

私は癌の再発から1年半が経ちました。そのひと月ほど前、ロシアはウクライナに侵攻し、この秋には、パレスチナハマスイスラエルを攻撃。イスラエルガザ地区へ大爆撃、反撃をしています。いま、世界の目はそちらへ向いていて、忘れられがちでもミャンマーでは、軍事政権に反抗して、民主派勢力や少数民族が根強くゲリラ戦を続けています。シリアやトルコではクルド人が抵抗を続けており、中国西部ではチベット自治政府が人民政府と対立しています。アフリカでは、資源と利権をめぐって内戦状態に陥っている国が多くあります。民族があり、言葉があり、宗教があり、対立を始めると憎悪の連鎖が起こります。国家とは一体何なんだという疑問も湧いてきます。

先日の報道で、ウクライナ参謀本部の発表として、『この戦争の誤算は「ロシアが15万人もの兵士を戦死させても、戦争をやめないことだ」』とのコメントがありました。プーチンにすれば、それぐらいの兵士の死者数は織り込み済み、これからいくらでも新たに兵士を注ぎこんで、「まだまだやるぞ」と言う意識のようです。先日のプロ野球日本シリーズ甲子園球場は毎日4万2千人超の観客で満員でした。15万人の兵士の戦死とは、あの観客席の一日人数の約3.5倍です。それだけのロシア兵が死んでいます。冷戦期のはじめ、スターリンは「アメリカとの核戦争になれば、何人ぐらい自国民が死ぬのか」と問い、「300万人ぐらい死にます」との答えに、「何だそれだけか、独ソ戦の10分の1じゃないか」とつぶやいたと言います。独裁国家の主導者にとって自国民は、虫ケラのような存在のようです。戦争とは、主義主張、メンツ、自己利権、宗教教義の対立などが原因で起こります。それらは「ひとの命の重さ」と天秤にかけて比べて見れば、捨ててしまっても良いような事柄です。国民が幸福になるために存在する国家が、そんな詰まらないことのために、戦争をオッ始め、国民を死に追いやります。特に第一次世界大戦以後は、兵士だけでなく、非戦闘員である国民を殺害する戦争になってしまいました。ヨーロッパでの戦争は、相手の都市を爆撃し、一般市民の犠牲を増やして、相手国に降参を迫ろうとする形態になって行きます。ヒトラー空爆によって燃えさかる大都市のイメージを抱き、実現を待ち望んでいたのでしょう。電話口で「パリは燃えているか?」と叫んだそうです。太平洋戦争時、日本でも人間が多く住んでいる各都市が狙われ、B29爆撃機から焼夷弾を雨アラレと落とされて市民は逃げ惑い焼け野原、東京だけでも死者10万人以上、最後に原子爆弾を2発被弾して降参しました。ミッドウェー海戦や南方戦場のように、最初は戦闘員同士の戦いですが、最後は一般市民へどれだけ被害を与えるかが近代戦争の結末のようです。アメリカ極東軍司令官ダクラス・マッカーサーはフィリピン戦線において敗北し、兵士は日本軍の捕虜となりました。自身は押され押されて、コレヒドール島から命からがらオーストラリアへ逃げのびたとき、集まった報道陣に宣言したのは「I shall return !」です。これが後日、マニラ市民に最悪の不幸をもたらすことになります。1944年アメリカ軍を中心とする連合軍は、レイテ沖海戦で勝利し、ルソン島のマニラに迫り市街戦となりました。マニラ市民70万人が生活している市街へ突入し、占領している日本兵の殲滅戦は、熾烈なものとなりました。日本兵12000名全滅、連合国兵1020名、非戦闘員であるマニラ市民10万人が巻き添えとなって死亡しました。連合軍には、市民の安全を考え、市街に突入せずに、取り囲んで兵糧攻めをする選択肢があったはずですが、選択されたのは市街戦の方、不幸な惨状結果となってしまいました。マッカーサーの「I shall return !」との宣言は、内心の悔しさを込めて、「いつか倍返ししてやる」という憤りとメンツ立て宣言でしかありません。市街戦はそれを実行したと考えられます。

今、パレスチナガザ地区ではイスラエル軍によって、多くの市民が避難している病院が標的にされ、爆撃されています。病院がハマスの拠点で、市民を盾にしているとの主張です。ここでも、突撃戦闘、爆撃と、もうひとつ包囲して兵糧攻めの選択肢があると思います。時限的な停戦も取りざたされています。さて、イスラエルの指導者、軍部が、一般市民の命をどう扱うのか、世界は注目する必要があると考えています。

癌の再発以後、最先端医療に救われ、何とか生き延びて、「思い返せば私の人生、戦争も徴兵も体験せず、平和に生きてこられたナ」と有り難く感慨を込めて振り返る現在の心境です。



 

 

コンビニで印鑑証明

印鑑登録証明が必要になり、マイ・ナンバー・カードを持って自宅近所のコンビニエンス・ストアーへ出かけました。読み取り機の部分にカードを置き、画面の「印鑑登録証明」を選び、暗証番号を打ち込みます。料金「250円」が出て、コインを入れます。出ました。一瞬です。「印鑑登録証明書」。午後8時、役所が開いている時間ではありません。感動しました !!! 。先日は「戸籍謄本」が必要だったので、家内にマイ・ナンバー・カードを渡し、暗証番号を教えて取ってきてもらいました。それも夜、近所のコンビニ。以前は区役所の開いている時間帯に区役所まで出かけ、申請書を書き、待たされ、やっと発行の手順でした。区役所までは地下鉄で3駅。

区役所まで往復と発行手続き時間など合わせて、1~2時間。それも午前9時から午後5時の間しかダメ。休日もダメ。マイ・ナンバー・カードを馬鹿にしてはいけません。これは「感動」ものです。もうひとつ。旅券(パス・ポート)の有効期限が切れてしまっていたので、自治体のホーム・ページをPCで開くと、旅券の申請ページが出てきました。申請書をPDFでダウン・ロード、必要事項をキー・ボードで打ち込み、プリント・アウト。それを持って旅券申請所へ出向きますと、窓口のお姐さんが、各項目をチェック。「1週間後に発行できていますから、取りに来て下さい」。アッという間。同じく「感動」しました。

世の中、だいぶ良くなってきました。カシコイ行政と言ってもいいと思います。反面、マイ・ナンバー・カード申請時の混乱を思い出します。そろそろカードを作ろうと、窓口へ出向いたところ、入り口から長蛇の列。「最後尾」の立て札持ったひとがいました。その辺の顛末は、今年2月15日のブログ「マイナンバーカード狂騒曲」を見て下さい。

この、カードの便利さを知ると、お役所のひと=行政官をそうそう馬鹿にできなくなってきます。「やればできるじゃないか」が今回の私の感動原因です。

やればできるひと。やってもできないひと。やらなくてイイことをやるひと・・

と、お役人はいろいろですが、中にもわずか「やればできるひと」がいるのを知って感動しました。行政はPRが下手です。こんなに便利な物を、どうしてもっと宣伝しないのか。宣伝もせずに「今のうちに取得すれば、ポイント(タダ銭)をあげますヨが、マイナ・ポイント騒ぎでした。ポイントなんて馬鹿なことする必要ない。取得すればこんなにも便利なのですから。もう、数年前から自宅近くのターミナルに、区役所の出張所があって、役所定年後の年代のオジサンが待機していました。そこで、印鑑登録証明や戸籍関係の証明書は発行してもらえたそうです。「そうです」と書くのは、私は利用したことがなく、いつも家内に行ってもらっていましたから。これだけでも、画期的なことで、自転車で行ける距離で有り難かった。それでも受付時間内、しかも人的配置が必要でした。「アナログ行政」です。今回の事例、コンビニエンス・ストアーで朝6時30分から夜23時までプリント可能。人的配置なし。土曜日日曜日、休日もOK。凄い ! 。コンビニのコピー機の奥に、区役所があるような錯覚に陥ります。印鑑登録証明書が音もなくフワリと出てきました。なんと「デジタル !!!!! 」。

まだ、詳しくは調べていませんが、所得税の確定申告も可能なようです。若い頃、国税の確定申告を自分でやろうとして、税務署を訪れました。税務署は、戦場の様相を呈しています。2月15日から3月15日まで、税務署職員ほぼ全員がその担当部署を問わず、一斉に受け付け事務に当たっていました。生命保険の支払い証明書や、医療機関の領収書を手にした納税者が、この期間に税務署へ殺到するのです。納税者ひとりひとりに職員が対面で応対し、確定申告書を作成して行きます。納税者の目的は、ほとんどが税金の還付です。私自身その後は税理士さんにお任せするようになって、税務署へ出向くことはなくなりましたが、あの光景は忘れられません。100円でも1000円でも、払いすぎた税金を取り戻そうとする沸騰エネルギー。日本人の納税意識を垣間見た気がしました。これもe-Taxとやらで、電子申告ができるようになったようです。

思い返せばパソコンが世の中を変えました。と言うよりその前に「ソロバン」があり「計算尺」があり、やがて「電子式卓上計算機=電卓」になって、やがてPC(パーソナル・コンピューター=パソコン)へと展開して行きます。私が親の借金背負わされて、会社を任されたのは昭和44年(西暦1969年)のことでした。当時当社にはアホな事務員のオバサンがいて、会計事務をすべてひとりで取り仕切っていました。毎月の府税申告、税理士への試算表データ、銀行への会計データ、すべて間違っています。間違いを指摘しても「怒る」だけ。直さない。しかし、税金も試算表も銀行へのデータも、正確にやらないと話しにならない。月末が近づくと私はすべてをソロバンで計算し、集計し直す必要に駆られました(電卓の一般への登場はその5~10年後)。徹夜です。これを10年ほど続けて行く内に、私は(こんなアホなこと続けていられない。何か良い機械はないか ? )と考えるようになりました。大阪の電気屋街「日本橋」の店を一軒一軒、軒並み歩きました。そこで見つけたのがNEC、PC9800シリーズです。パソ・コンのはしりでした。しかし、人気のこのパソ・コンは奪い合い、品薄。すぐに手に入らない。仕方なしに買ったシャープのMZパソ・コン。これが良かった。BASICプログラムを一から勉強できました。1年後PC9801を手に入れ、それから1年かけて、会計データをすべてBASICで計算できるようにしました。楽しく夢中になれた日々として懐かしく思い出します。その頃にはアホ事務員オバサンは拗ねて退職し、若い女子事務員に代わり、間違いも無く税金やデータを正確に算出できるようになっていました。

そんなある日、税務署が調査にやってきました。当社の会計データを見て「これ一体どうなってるんですか ? 」と問います。仕組みを説明するのに、BASICで作ったプログラムを見せました。プログラム画面を目で追いながら税務署員は舌を巻き、「このプログラムをプリント・アウトしてもらえませんか ? 署に持って帰り検討したい」と言います。私は答えました。「いくら支払う?」。「署には該当する予算がありません。・・タダで・・・」私は叫びました「何を言うか?これは私が1年掛けて作ったもの。タダでは渡せない。他の企業でも使えるレベル。少なくとも1千万円支払うのなら」。署員は「それは・・・」と言って諦めました。そして税務調査はすぐに終わり、帰って行きました。

その後、私はもう一度事務員の抵抗に遭います。WINDOWS 95が登場した時です(平成7年=1995年)。せっかく作ったBASIC計算プログラムですが、WINDOWSの登場でそちらへ乗り換え、廃棄せざるを得なくなりました。「すべてやり替えることになりました」と言うと女子事務員は猛反発しました。「ここまで獲得した仕事のやり方を、どうして捨てて、新しいやり方を学ばなければならないのですか。絶対イヤです」。「世の中が変わったのだから・・・」と言っても納得しません。仕方なく私はBASICで行っていた会計作業を、EXCELに代えました。もともと、BASICの別にMultiplanという表計算ソフトも使っていたので、スムーズに移行できました。最初はシブシブ、その内目を輝かせて事務員はWINDOWS 95のEXCELにのめり込んで行きました。ソロバンから計算尺、そして電卓からパソ・コンへと、アナログからデジタルへ、54年間にわたる世の中の変遷をお伝えすべく、こうしてブログを書いています。若い頃「東京タワーの設計・構造計算は、計算尺を使ってなされた」と聞いたことがあります。あの竹の上をスライドする目盛りでどうやって設計したのか ? ずっと疑問に思っていました。先日、土木工学の会社を経営する技術者と話す機会があり、「計算尺」の話しに及んで、やっと解りました。電卓がまだなかった頃、ソロバンだけで計算するのは大変だったそうです。そこで技術者はみんな計算尺を使ったと言います。対数がどうのこうのと言う難しい構造は分かりませんが、ソロバンの延長のようです。わずかに誤差が出るものの、計算には大変便利なツールだったと言う説明でした。そして電卓が登場し、小数点以下コンマ、コンマ、・・・の答えがパッと出る。ルートも二乗も三乗の計算もパッ・・・・。「何だそんなことか、要するに計算機」です。今はパソ・コンでどんな複雑な計算もパッ。1ヶ月かかった計算も、1年かかった計算もパッ。コンピューターとは「電子計算機」、これがパーソナル→個人が気軽に使えるようになって、世の中を変えました。私は新聞を読まなくなりました。Yahoo Japanが新聞の代わりです。買い物になど出かけません。Amazon楽天で注文OK。後期高齢者から小学生まで、各自自分の電話を持っています。どこからでも、いつでも電話をかけることができ、電話機の中には電卓も入っていて使えます。そして、夜のコンビニで印鑑登録証明書がフワリと出てきました。長生きはするものです。

WINDOWS 95 以前に使っていたワープロ・ソフト「松」とミニ・フロッピー・ディスク。ワープロ記憶媒体は紙に磁気粉を塗装したもの。

 

 





 

 

コロナ体験記

今月2日月曜日、朝目を覚ますと身体がだるい。昨年、癌の大手術をしたあと、医師からは「誤嚥性肺炎に注意するよう」警告を受けていました。起床と同時に毎朝、体温を測ります。肺炎に罹っていれば、体温が急上昇するからです。のどに痛みを感じながら、体温測定、38℃を越えています。肺に痛みはありません。「こりゃ風邪だ」と思いました。前夜から気温が下がり、少し寒気を感じていました。2日月曜日は商売定休日。これサイワイと寝込むことにしました。わたしは、風邪ぐらいでは医者にかかりません。医者にかかると、お決まりの治療、抗生物質の投与を受けます。医者にかからない理由に、抗生物質の投与を避ける意味があります。ほとんどの医師は、風邪などの感染症には抗生物質を投与します。劇的に効くからです。劇的に効くというのは、抗生物質のちからを借りて、病気を治していることになります。それは、自分の持っている「自然治癒力」を弱めていることになります。「薬品」のちからを借りず、自然治癒力で病気を治す。これが昔からのわたしの方針です。家内は「お医者さんにかかって、お薬もらえば、すぐに治るのに」と言います。わたしを「医者嫌い」と決めつけています。「医者」が嫌いなのではありません。抗生物質に頼る治療法が嫌いなのです。「水分を十分に摂って、眠ること」。そうやって風邪ぐらいのことは、自力で治してきました。それから2日目、4日水曜日、家内が「のどが痛い」と言い出しました。体温も上がっています。家内はすぐに近所の医院へ駆け込み、抗生物質など処方箋をもらってきました。そして2日後、家内はのどの痛みも緩和され、熱も下がりました。ところが、「食べ物の味がしない」「香りがない」と言い出しました。さあ、大変、以前に買って置いた「コロナ・ウイルス抗原検査キット」を引っ張り出し、鼻腔奥の粘膜を採取して、キットに注入すること約5分。はっきり結果が出ました。「陽性!!! 」。コロナにかかった証拠です。食べ物の味も香りもちゃんと感じるわたしにも検査をしろと言うので、やってみると「陽性 !!! 」。ふたりともコロナにかかっていました。以後、家内は元気に生活していますが、わたしはなかなか治らない。一日中眠いのです。夜は普通に眠れるのに、広間ずっと眠い。と言うよりもウトウト居眠り続けています。わたしも抗生物質に頼って治してしまえば、埒は早いのでしょうが、抗生物質を飲まない頑固な方針なので、仕方ありません。居眠りも治療の一環と考えて、過ごしています。

20世紀に入って、抗生物質は膨大な数のひとびとの命を救ってきました。ペニシリン第二次世界大戦で負傷した多くの兵士を、感染症から救ったと言われます。不治の病と恐れられた結核も、ストレプトマイシンの発見によって、劇的に命が助かるようになったそうです。その後、次々と抗生物質は発見され、感染症から人類を救っていることは確かです。しかし、抗生物質は今や当たり前のように医療現場で使われています。私が危惧するのは、この安易な使用によって、人間が本来持っている「自然治癒力」が弱められて行くこと。そして、使いすぎによる「耐性菌」の出現です。細菌は、薬品によってダメージを受けると、何とかそれを回避しようとして変化をし生き延びようとするそうです。わたしはこの抗生物質多用による、耐性菌の出現は、深刻な問題だと受け止めています。昨年、内視鏡検査により癌の再発によってわたしは、K大学病院の消化器外科へ送られました。そこで、外科手術の親玉ともいえる、教授と面会したとき「これから予定している手術は、70歳の患者まではやったことがある。アンタは78歳、できるかどうか、施術成功すれば最高齢の症例になる。見たところ、アンタ元気そうヤね。やるかー」。かくして、予定12時間の手術が15時間かかったそうですが、わたしは今、生きています。わたしが元気で手術できたのは、何よりも年齢よりも若く生きている実感があるからです。普段から抗生物質に頼らないことが若く生きていられる秘訣だと思っています。みなさん、もう一度抗生物質について考えてみて下さい。

家内はすでにコロナ・ワクチン7回摂種、わたしは3回摂種。これでふたりとも免疫ができて、しばらくはコロナにかからないかも知れません。人間のからだも自然の一部。そう思って生きています。