お勉強って何だ

 

 

秀才って何だ ! お勉強って何なんだ !

私の年齢は、今年で79歳になります。振り返れば、悔いが山積みの人生です。

ただ、空しさはありません。困難と格闘し続けた人生、気持ちの片隅に、それなりに少しの充実感も残っています。

大きな顔して自慢できたことではないけれど、私は小学校以来、お勉強の成績はいつも、うしろから数えた方が早い方でした。基本的に、常に疑問を持っていました。お勉強って、何故しなければならないのか ? それはまた、義務教育への疑問、「どうして必ず学校へ行かなければならないのか ? どうして宿題なんてしなければならないの ? 」 遊びたい盛り、山や野原には楽しいことがあふれていました。加えて、小学校高学年のころには、テレビ放送が始まり、街頭テレビに始まって、ぼつぼつとテレビ受像器は各家庭に普及してゆきました。放送局は知恵をしぼって、面白い楽しい番組を流しつづけています。勉強しているよりも、テレビ見ているほうがずっと楽しい。私学の中学校に進むと、試験の成績上位者半分ぐらいの名前が、廊下の壁に成績順に張り出されました。学校としては、全生徒にお勉強を奮起させる目的だったのでしょう。私の名前は、そのなかに、もちろんありません。良い成績をとるにはどうすれば良いか。はっきりしています。遊ばないこと。テレビを見ないこと。予習、復習をする。つまり、したいことを我慢して、生活の時間の多くをお勉強に充てることです。廊下の壁に張り出された名前を見て、「コイツラ我慢してお勉強に取り組んでいるんだナ」と思っていました。我慢会です。もちろん中には、お勉強時間を確保しなくても、授業を聴いているだけで、飛び抜けて良い成績を取る奴もいます。試験前にも、私たちと一緒に遊んでいて、成績はいつもトップという奴がいました。しかし、これは論外。生まれつき、並の人間とは違うケタ外れの能力が備わっているのです。1年に何度もやってくる試験、試験、試験。名門大学へ入って、優良企業や役所、学校に就職して食いはぐれのない人生。そのためには試験試験、お勉強お勉強。・・・・・・これおかしくないか ?

お勉強が良くできた、お役人や議員達が考える制度、システム。何かマズイことが多いですね。マイナンバー・カードに至っては、お粗末そのもの。国民ひとりひとりに番号割り当てるだけで、四苦八苦している。みっともない。想像力の欠如としか考えられません。つまり、試験で良い成績をとる訓練を続けていれば、逆にもともと人間に備わっているはずの想像力が消えて行くように感じます。スポーツで勝つことに知恵を絞ったり、野山で昆虫や動植物の観察に没頭するほうが、よほど想像力また創造力が鍛えられるように思います。

名門大学に入り→サラリーマン養成学科で修学→就職後は挨拶回りと接待ゴルフ→豊かな年金生活。エリートさんよ、人生、充実していましたか。悔いはありませんか。この「営業」と名付けられた行為、ほとんど真の意味は「挨拶回り」です。わたしも零細企業ながら経営者のハシくれ、この「挨拶」にはほとほと閉口しました。まず、商売上の重要な相談や議論はほとんどありません。「世間話し」が中心です。名詞を交換し、世相や天候の話し、少し突っ込んでお互いの会社の内情、出身地、出身学校の話題です。「午後1時に伺います」と連絡があると、30分前には昼食を終えて待機、1時間話しして帰って行かれます。時には2時間に及ぶこともあり、午後3時までは他の予定を入れる訳には行きません。こうして1日のうち、2~3時間がつぶれるのです。何か意味のあるものが残ったか ? 残ったのは空しくも「よろしくお願いします」だけです。

青年の頃、誰でも自分の行く末、人生に大いなる不安を抱えています。その半分ぐらいは、貧困の恐怖です。食いはぐれないか ? カネに困らないか ? 戦国時代は、どの大将について行けば良いのか選択の良否、戦で知恵をしぼり、腕力胆力を鍛え、そして幸運に恵まれてなどなどが出世の条件でした。明治時代になって、それらの条件はことごとく消滅、誰決めることなく、代替え案として出てきた出世の条件は「お勉強」の出来不出来になってしまいました。慶応4年、松山藩秋山家、生活困窮のなか妻がまた懐妊しました。堕胎か産まれた子を「寺へやってしまおうか」と両親の相談を聞いていた10歳の好古が言う「赤ん坊をお寺へやつてはいやぞな。ウチが勉強してな、お豆腐ほど(の厚さの)お金をこしらえてあげるぞな」。これがのちに日露戦争で騎兵を率いた秋山好古、その赤ん坊が、海軍少佐として戦った真之の兄弟です。母は「貧乏がいやなら、勉強をおし」とも言い続けました(司馬遼太郎著・坂の上の雲より)。もちろん二人とも才覚に恵まれた人物であったのでしょうが、「お勉強」ができなければ、軍隊の重要な地位につけなかったことも確かです。ウクライナ戦争の戦況解説に、自衛隊の元指揮官がテレビ出演されます。皆さん入学難関の防衛大学出身者ばかりです。私が危惧するのは、「日本の防衛をこの『お勉強優秀』のひとびとに任せている現状は、大丈夫なんだろうか」というものです。1944年ビルマでのインパール作戦。立案、決行は牟田口廉也中将によるものでした。当時の指揮官も「陸軍大学」や「海軍兵学校」出身の超エリートばかり。しかし、作戦の中身は兵站を無視した幼稚な強行作戦でした。途中、命令を無視して現場から退却した、佐藤幸徳師団長によれば「我が師団の上には、『馬鹿の三段構え』がある。第15軍と、方面軍と、南方軍がそれだ。馬鹿を相手にボンヤリ待っていたら全員総死骸だ」とまで言わせ、他の資料によりますと「馬鹿の三乗」とまで述べたとなっています。現地からの食糧不足電報に司令部は「現地で調達せよ」との返信です。ジャングルや標高3~5000メートルの山岳で、どうやって食糧を調達するの ? これを机上の空論と言います。参加した日本兵9万人の内、死者2万人の多くは餓死と病死であり、撤退路は「白骨街道」と呼ばれて、のたれ死の死体が並ぶ惨状でした。世の中の多くのひとは「立派な大学を卒業したエリートのやることに間違いは無いだろう」と考えているようです。福島第一原発事故の翌日、原子力安全委員長M氏はヘリコプター上の隣席にいた菅直人首相に「原発は大丈夫なんです。(原子炉は)構造上爆発しません」と述べ、その午後、原子炉建屋が爆発したとき「アーッ」と言ったそうです。東芝は日本を代表する重電、家電、半導体メーカーです。2005年以降、N氏、S氏、T氏の3代の社長の下で、不正な会計処理が組織的に行われていました。中身を調べて見ると、この3人は自分たちが考え出さねばならない「会社の稼ぐ方策」を一般社員に「チャレンジ・チャレンジ」と言って求め、上手く行かないと、決算の数字を粉飾して公表し、誤魔化し続けたものでした。皆さん、立派な一流大学卒業のエリートたちです。

そもそも、人生のある時点で、安心の切符を手にしようと考えること自体が間違っているのです。「国立のT大学を卒業しているオレよりも、三流大学しか卒業していないアイツの年収の方が多いのはオカシイ」と言ったひとがいたそうです。私の高校の同窓会、元気で羽振りの良いのは、ヤンチャで成績の悪かった連中ばかりです。学校の成績と、世の中への対応力はまったく別物です。司法試験、建築士、税理士など、資格試験に挑戦するのは悪いことではありません。ただ、それに合格したからと言って、一生、食いはぐれがない、身分が保障されたと考えるのは間違いです。試験は単なる通過点。人間、生きていく上で、日々努力と苦労がつきものです。私も来年は満80歳。今の所、年金で生活できている結構な状況ですが、やはり難しい問題が次々に浮上してきます。人間、「安心」なんてことは、道路の「逃げ水」のようなものなのでしょう。

今日のブログは、成績劣等生だったDoiyanの吐露でした。

薪ストーブはCO2を出す

10年ほど前まで、「地球の温暖化とは本当なのか」と半信半疑でした。しかし現在、数々の現象や証拠を確認して、「温暖化は間違いなく進行している」と確信し、大いなる危機感を持っています。冬になって、薪ストーブを焚くとき、いつも疑問を抱えていました。薪を燃やして暖をとるのは、CO2を排出しているのではないか ? と。温暖化やCO2に関するテレビ番組を意識して視聴するようになり、ようやく答えが浮かび上がってきました。薪を燃やすと、煙突からCO2を大気中に放出します。これダメじゃないかと思われるかも知れません。少し事情が違うのです。樹木は苗木から大木へと成長します。このとき必要なのが太陽光と大気中の二酸化炭素CO2です。樹木の葉には「葉緑体」があり、光が当たるとCO2を葉の裏にある気孔から取り込み、水を樹木内にある道管で吸い上げ、このふたつからデンブンと酸素が生成されます。デンプンは師管を通って木全体に送られ木は生長し、酸素は気孔を通って排出されます。光の力でCO2からデンプンを作り、その過程でできた酸素を大気中に放出しています。森林がCO2を吸収し、酸素を放出していると言われる現象です。樹木に蓄えられたデンプンとは、炭水化物、すなわち炭素と水素の化合物なんだそうです。樹木すなわち薪を燃やせば、蓄積されていたこの炭素がCO2として放出されます。しかし樹木を薪にせずに放置すればどうなるか。一定の年限を経たあと、成長は止まり、やがて倒れます。倒木となった木は、バクテリアやキノコなどの微生物によって分解され、その過程で炭素をCO2として大気に放出します。つまり木は燃やしても、朽ち果ててもCO2を出すことに変わりはありません。樹木を木材にし建築材料として炭素を閉じ込めたとしても、建物もいつか朽ち果て、廃材は地中に廃棄されるか、燃やされます。建築材料に炭素を閉じ込めても長くて1000年、日本最古の木造建築、法隆寺でもたかだか1400年です。家具にされても同じです。やがては放出されることになります。それならば、森林を伐採して薪を作り、燃やして暖をとるのはどうなんでしょう。伐採、運搬、薪割りなどにエネルギーを消費しますが、伐採した後の空地に苗を植え、森林を育てますと、CO2を取り込みながら、酸素を放出してくれます。樹木が生長している限り、CO2を吸収しつづけます。温暖化対策として森林のCO2吸収力は、いままで計算されていた量の2倍以上あるらしいことがわかってきました。寒い冬、暖を取るのにエアコン=電力(多くは化石燃料の燃焼)で、ガス・ストーブ=天然ガス(輸入に頼る化石燃料の燃焼)で、石油や石炭ストーブ=化石燃料そのものを燃焼して室温を上げる、などなどよりも、放置すれば朽ち果て、倒木となってCO2を排出する前に樹木を薪にして、暖をとるのは似たような行為ながら、まだマシな循環作業のように思えます。薪ストーブは、暑い夏の室温を下げるのに使えませんが、冬に上げるのには使えます。その代わりとして、注目すべきはバイオマス発電です。石炭火力発電と同じように、物の燃焼によってタービンを回し発電します。もちろん燃焼によってCO2を放出します。しかし燃焼させる物は、木材をチップにしたもの、生活廃棄物、畜フン、枯れ草などの有機物です。バイオマスは発電ですので、照明や、電気自動車の動力、エア・コンの動力にもなり冷房にも使えますます。燃焼物は、生成時に酸素を放出した有機物で、薪ストーブの燃料と同じです。CO2を閉じ込めた木材などのカシコイ利用方法です。森林や有機物の利用は、温暖化を阻止する利用方法として、理にかなっています。大気中の温暖化ガスとしてのCO2を吸収しているのは、海と森です。海中でも太陽光が届けば、昆布やワカメ、そして藻類は森林と同じく、海水に溶けたCO2を吸収し成長し、酸素を泡にして放出します。雨や風、波によって海に溶け込む大気中のCO2も、相当な量だそうです。海底に沈殿したCO2は、気が遠くなるような時間を経て、海溝などのプレートに潜り込み、火山の噴火によって、ふたたび大気中に放出される。地球はこの循環を繰り返してきたのだそうです。

今から3億年から3億6千年前、地球には「石炭期」と呼ばれる時代がありました。高く高く樹木が生い茂っていたそうです。その時代に茂っていた樹木が朽ち果て、倒木となったものの分解されず、そのまま地中に埋もれて石化したのが石炭だといいます。この石炭を掘り返し、動力エネルギーとして使い始めたのが「産業革命」。今回の地球温暖化は、そこから始まっています。やがて石炭にとどまらず、石油、天然ガスを使い始めて、温暖化が急激に加速したのが現状です。天然ガス燃焼時のCO2排出量は、石炭の半分ぐらいといいますが、生産と液化、輸送時にCO2を結構排出するそうです。

私は科学者でも、化学の研究者でもでもありません。しかし、地球温暖化について、一応一般人の常識範囲の知識で、述べました。おおむね間違っているとは考えていませんが、もしも、このブログの中で問題になるほど間違っている箇所があれば、ご指摘下さい。新しい知識の確保という意味で、welcomeです。今の急速な温暖化は、地球の危機ではありません。人類の危機という、深刻な事態です。食糧不足、疫病蔓延、害虫害獣の増殖などなど、人類にとっての問題がいっぱい出てきます。何とかしなくてはならないと思っています。そんな問題意識を持ちながら、町が寝静まった夜更け、薪ストーブの炎を見ていると、妙に気持ちが落ち着くのを感じています。

 

時間の重さ

我が不遇の人生

わたしは今年の3月で79歳になりました。人生、振り返ってみれば、カネにそれほど不自由をしてきたわけではありません。もちろん、持ちきれなくて困るほどの大金を、手にしたこともありません。経済的な生活では、まあフツーの人生を歩んできたと言えるでしょう。しかし、学生時代から夢見て追いかけてきた、仕事や希望に関しては後悔後悔の連続、失敗山積みの人生でした。20代の前半、家業が窮地におちいり、その立て直しに飛び込んだのが、何よりも失敗の大きな原因です。自分は自分の道を歩んでいて、「家業がどうなろうとも、オレには関係ない」と冷たく見放すことができなかったのは、自分の弱さです。「家業の立て直しぐらい、やってやろうじゃないか」と舐めてかかったのを後悔します。借金を完済できた時、35歳になつていました。その間、昼夜を問わず、モーレツに激闘したあのエネルギーを、自分が夢見た仕事に使っていれば、大したことができたかも知れないと後悔しています。35歳。家庭を持ち、子供ができ、得意先、従業員に責任を持つ立場になってみれば、家業の立て直しが完了したからと言って、「ハイさようなら、ここから自分の人生を自由に生きて行きます」なんてできませんでした。まさに不遇の人生です。

しかし、まだマシだと思うのです。

学校を出て、自分の人生を歩むべく、東京へ出たのは昭和41年です。そこからわたしの社会人生活が始まっています。ことしで57年が経ちました。その昭和41年の6月、静岡県清水市で、味噌製造会社専務41歳、妻38歳、次女17歳、長男14歳が刺殺され、その住宅が火災全焼、集金された37万円が不明という事件が起きました。「味噌製造会社一家殺人、放火事件」とでも言える事件ですが、その後の事件経過により、容疑者の名前をかぶせて「袴田事件」として一般に知られています。8月18日、被疑者として袴田 巌氏が逮捕され、取り調べでは犯行を否認していましたが、拘留期限の3日前に犯行を自白しました。一審裁判では、起訴事実を全面否認、43年有罪死刑判決。その日に東京高裁へ控訴するも51年、高裁は控訴棄却、上告。55年最高裁は上告棄却。9日後判決訂正を申し立てるも、棄却。昭和55年12月12日死刑が確定します。翌年56年静岡地裁へ再審請求。平成6年再審請求棄却、東京高裁へ即時抗告。16年即時抗告棄却。最高裁へ特別抗告。20年最高裁特別抗告棄却。同年静岡地裁へ第2次審査請求。22年袴田死刑囚救援議員連盟が「被告は心身喪失状態にある」として法務大臣に刑の執行停止を要請。23年法務省は精神鑑定などを実施し、「執行停止の必要性は認められない」と結論。8月第2次再審請求で証拠衣類5点の再鑑定を決定。26年3月静岡地裁再審開始、死刑執行と拘置執行を停止決定、釈放される。(実に48年目です)。静岡地検、東京高裁へ拘置停止棄却の申立するが棄却。静岡地検、即時抗告。同年8月抗告審理で地検が「存在しない」としていた証拠の「5点衣類の写真ネガ・フィルム」が静岡県警で保管されていたことが判明。30年即時抗告審で、東京高裁は原決定を取消、再審請求棄却決定。ただし、死刑、拘置の執行停止は維持。弁護側が特別抗告。令和2年最高裁第3小法廷、「再審請求を棄却した東京高裁決定は、審理を尽くさなかった違法がある」として決定を取消、高裁へ審理を差し戻し、東京高裁第2刑事部で審理へ。令和3年弁護団が味噌漬けにされた血痕から赤味が消失する鑑定書を、東京高裁へ提出。令和4年裁判官3人が初めて袴田被告と面会。令和5年(今年)3月、東京高裁「衣類以外に犯人と決定できる証拠はなく、確定判決に合理的な疑いあり」。再審開始決定。

というのが、57年間の経緯です。この間被告は、ずっと無罪を訴え続けてきました。しかし、刑事事件の中には、諦めて刑の執行を受け入れる被疑者がいることも確かです。わたしはもちろん、事件の有罪、無罪を主張したり、検証したりする立場にありません。が、このトシになると、社会に出てからの57年間を振り返ることが多くなります。余りに長い時間、茫洋としていて、把握するには重すぎるのです。それを「これで良かったのか」とか「不遇の人生だったんじゃないのか」とか思いながら、ただただ、その時間の長さが、重さに変わって行きます。袴田事件、もしも、無罪だったら、冤罪だったらと考えると、この時間の重さはとてつもなくやり切れなくなってきます。わたし自身、不遇の人生だとしたら、「何のためにこの世に生まれてきたのか」と思います。しかし、それどころじゃない、もしも冤罪をかぶせられ、拘束され続けた人生だったら、それは、絶対にあってはならないものでしょう。人間は失敗や間違いをやらかします。捜査関係の仕事、裁判の仕事に携わるひとびとには、なおなお一層の慎重さが必要だと思うのです。57年間の重さを書きました。事件の有罪、無罪を主張する文章ではありませんので、念のため。

 

夜の戸締まり

前回のブログ「ウイスキーの誘惑」では、万葉時代、夜に男が女のもとへ通ってくる男女関係を述べました。古い時代のことで、現・近代とは無関係のことだと思っていました。ところが、大正から昭和のはじめにかけてまで、農村や山村では、この風習が残っていたようです。昭和55年頃だったと思います。私たちは、スキーに行こうと連れだって雪深い但馬地方へ出かけました。友人の実家に泊めてもらうことになり、就寝前にお母さんに「さあ、戸締まりをしましょう」と言うと、「戸締まりって ? そんなことはしません」との答えです。「玄関や窓に鍵をかけないのですか」と問うと「鍵はありません」と言います。「では、大阪や東京へ出かけるときは、どうするのですか ? 」「そのまま開けっ放しです。泥棒の被害に遭ったことはありません」「若い娘さんがいる家も ? 」「同じです」「ン・・・・・? 」。

司馬遼太郎の「街道を行く」シリーズ、「熊野・古座街道」編で司馬は、古座川渓谷出身のほぼ同年代の男性に「幼い頃、あなたの在所に『若衆組』はありましたか ? 」と問います。男性はいともさりげなく「ありました」と『若衆組』の説明をはじめます。数え十五歳で、親の家を出て加入し「若衆宿」で寝起きする。両親の監視から離れて、若衆頭の命令に従って生活する。どうやら、薩摩藩にあつた「郷中」と同じようです。もともとは神社の祭礼、火災の消火、道路や水路の補修など、若者の力仕事の必要から発生したものらしいものの、いつしかそれは団体生活となり、若者の教育機関の役割を担うことになったようです。「よばい」の風習も当然あり、それは若衆頭の監督下、卑猥なものではなかったといいます。各家は夜「戸締まり」などしない。モテる娘のもとへは複数の男が通ってくるけれど、妊娠したときには、誰が父親なのか娘に「任命権」があったと言います。合っていても違うと思っても「任命」された男に「拒否権」はありません。夜間、各家の台所にはいつも必ず、飯櫃に一膳分のメシが入れて置かれていて、「よばい」に行った空腹の若者は、台所に上がって自由にそれを食うことができたと言います。戸締まりをしたり、飯櫃を用意していない家は、火事など災害の時、消火に来ない、持山へ火を誘導されるなど、若衆組から仕返し「仇 ( アタン ) 」をされるのです。この話を読んだ時、私は泊めて貰った但馬の友人の家「戸締まりなんてしません」を思い出しました。司馬は、この「若衆組」の存在を、日本人のルーツの南方起源の証拠として取り上げています。それは氏素性を無視して、ひとを「平等」に扱うという、反儒教的な性質です。この「若衆組」や「よばい」が連綿として昭和のはじめまで続いていたことは、驚きでもありますが、万葉時代の風習は、決して現・近代と断絶されたものではないのだと思いました。思えば昭和30年代ぐらいまで、農村や山村には、「青年団」なる似た組織があつたことが、私の記憶に残っています。これらは日本史の裏側で、史としての資料にならずとも、古代から続いていた日本社会の背骨のように感じられました。私たちは歴史を見るとき、都会的な視点でのみ、とらえているような傾向があります。「若衆組」や「よばい」は都会では見られなくても、歴史の裏の部分では密かに続いていたのを認識した次第です。一方、江戸という大都会では、若者の性の受け皿として、「吉原」に代表される「花魁宿」とか「女郎屋」、「女郎宿」というものが機能していたことも間違いありません。古典落語には、「吉原通い」の話しが多く残っています。古今亭志ん朝は生前「吉原。あれはいい所だったネ」とため息まじりに述懐していました。古典落語の世界で「吉原」が無視できないテーマとして残っていることは、「花魁」や「売春」が江戸という大都会では若者の性の処理施設としてちゃんと機能していた、おおらかな時代があったことを知ることができます。売春防止法が施行されたのは昭和31年です。それは私が中学1年生の時です。中高一貫校に入学したてのころ、高校生たちが、名残を惜しむように閉鎖前の赤線へ出かけていった話しを、いくつも聞きました。「赤線」と言ってももはや死語になりつつあり、「女衒 ( ゼゲン ) 」と並んで、若いひとには理解できないかも知れません。高知出身で有名な女性の直木賞作家は自身を描いた小説のなかで、父親の職業が「女衒」だったと告白していますし、中島みゆきは「やまねこ」という歌の歌詞に「女衒」を使っています。オリンピック委員会で「女性委員の割合を増やせ」との意見に「女性が多いと、会議に時間がかかって仕方ない」と言っただけで、大騒ぎになるこの国では、いま「吉原」や「女郎屋」「赤線」「女衒」を話題にすることはとんでもないことだと思われるでしょう。しかし、若者の間にHIVや梅毒が広まっていることも無視できません。オフレコでも構わないので昔から続いてきた「通い夫」や「よばい」の存在を、社会の在り方として語り合うのも必要なことだと思います。うわべだけの「清く・正しく・美しく」の品行方正風潮では、人間の本性まで探ることができず、それは誤魔化しに見えてくるのです。

ウイスキーの誘惑

去年の年末から、冷たいものが凍みるようになっていた左下の歯、そろそろ治療をしなければいけないと思い、歯科医院に電話をしてみると、「今週は予約の空きがありません」と予約係の女性が言う。「冷たいものが凍みるんだ」とひと押ししてみると、「今から40分あとなら空きがある」と言うので、あわてて出かけました。担当医師は休暇で、初対面の歯科医でした。両側の歯から金歯をかぶせているブリッジの下、欠けている歯が痛んでいるらしい。「かぶせている金歯を外して治療しなくてはなりません。外した金歯はもう使えません」という医師に私は「金歯に○○万円ほど支払った記憶があります」と言うと、資料を見ながらもう少し高額、「○○万円でした。外した金歯は業者に売ることもできます」と勧めます。勧めを断って「金歯は寄付しますワ」と答えました。ブリッジを外し、神経を抜いてしまいましたので、凍みや痛みはなくなりました。次の治療まで1週間以上間が空きます。医師は「痛み止め」を出しました。治療部分の「痛み止め」と勘違いしていました。考えれば神経を取ってしまったので、治療部分が痛むわけがありません。3日後の就寝前から頭痛が始まりました。「これか !」合点がゆきました。治療途中の歯から入った、口腔内の雑菌が頭の左後ろ部分で、増殖しているようです。ズキン、ズキンと痛みます。とても眠れないので、「痛み止め」を1錠飲みました。効きました。しばらくして、痛みは消え、眠りに就きました。翌日、やはり頭痛が出てきました。歯を磨き、口腔内を清潔にして出勤しました。しかし、昼前から、また頭痛がはじまりました。仕事になりません。さて、どうしたものかと思案。頭痛のたびに痛み止め剤を飲んでも、一時のゴマカシ、そうだ治療途中歯の消毒を思いつきました。退社、帰宅してウイスキーを探します。癌が再発してから、アルコール飲料は一切口にしていません。ありました。ウイスキー・メーカーS社に勤めておられた先輩からもらった「10年熟成白州」。加えて先般の食事会に親戚の子が持ち込んだウォッカ2本。「白州」を口に含んで、患部に滲みるようにグチュグチュ。それを呑み込まずに、ペーッと洗面台にはき出します。いい香り。忘れていたウイスキーの刺激が、口内いっぱいに広がります。ゴクリと呑み込みたくなるところを、ペーッ。実にもったいないけれど仕方ない。飲酒はドクター・ストップです。ウオッカもいい刺激です。しかしペーッ。数回繰り返して、徐々に頭痛は消えてゆきました。しかし、「ペーッ」を「ゴクリ」と呑み込む誘惑に襲われます。去年の夏、大手術のあとのリハビリ中、テレビに流れるビールのCMを見ていて、あまりにも旨そうで「飲んでみてやろうか」との強い誘惑に駆られました。が、それをなんとか乗り越えたので、今回も誘惑に大苦闘しています「ペーッ」「ペーッ」。

次の日曜日618日は父の日なんだそうです。思い出しますのは、私の3人の子供たち、幼稚園に通っていた時、父の日にはそれぞれの子供と一緒に、父親も参加する催しがありました。参加をうながす家内に「オレは出ない。両親が離婚した家庭もあるだろう。片親の子はどうなる ? 」と言いますと「・・・・」答えに窮して「父親が行かないと、ウチも母子家庭だと思われます」と言う。「イイではないか。せめて片親の家庭の子への応援だヨ。幼稚園へ行っても良いが、行くなら『父親参加の日』を設けたことを園長に抗議したい」と言いますと「やめてください。だからアナタは変わりモンだと言われるのです」と言う。自分が変わりモンなのは否定しないけれど、片親の子の感情を無視したこの催しは、どうしても納得がゆきませんでした。3人の子供とも、幼稚園から小学校まで、私は父親参観なんて出たことがありません。これは能天気な大人の行動に、子供が深く傷ついている一例です。今は、多少片親の子への配慮ができて、父親参加はなくなったように聞きます。

今、世の中は少子化対策に大車輪。父親も休暇を取って、子育てに専念すべきだとの風が吹いています。万葉時代を思い出すのです。「居明かして君を待たむ ぬばたまの わが黒髪に霜はふるとも」。これは夜に恋人が通ってくるのを待ちわびている女性の詩です。万葉時代、諸説あるものの、一説では、家庭とは、若い女と老婆もしくは子供が基本で、男は家庭に属していなかったといいます。ですから、ぬばたまの闇に紛れて、夜ごといろんな家庭を訪れ、今夜はこの女、明日はあの女と密会を楽しむのが常だったのかも知れません。これ、男にとってちょっとイイ制度だと思いませんか。もちろん、男に子育てなんて扶養の義務はなし。扶養は女の仕事。ですから、経済的に成立さえすれば、母子家庭が一般的だった時代は、そんなに不自然ではないように思います。女性が働く時代、夫が子育てをする時代、今の時代の風潮が、極端に向かっているような気もします。こんな風に考える私は、やはり変りモンなんでしようかネ。昨日、深夜に眼が醒めると、アオバズクの鳴き声が聞こえました。「ホーッ、ホーッ」。自宅の裏には森があつて、今年もアオバズクが゛渡ってきたようです。東南アジアやインドから遠路やってくるとのことです。「ぬばたま」の闇に響く声を聴いていると、男の訪れを待ちわびる、万葉時代の女性の心境がわかるような気がします。「黒髪に霜はふるとも」とは、待ち疲れて「黒髪に冷たい夜の霜が降り積もるまで待っている」のと「黒髪が白髪になるまで待たせるの ? 」と掛けた意味があるそうです。

気候変動

地球温暖化が話題になって、もう20年も30年も経ちます。最初の頃は、温暖化って本当に進んでいるの ? なにかデータの読み違えではないの ? 気温なんて一定の幅をもって上下するもの、上昇時だけを取り上げて、下降時を無視しているのでは ? などなど、本気で危機感をもつには行きませんでした。しかし、この直近10年ぐらいは、かなり確かなデータが示され、本当に危機へと突き進んでいるのを感じるようになってきました。

この危機とは、地球の危機ではありません。人類の危機です。地球本体にとっては、温暖化も寒冷化も高湿化も乾燥も、危機でも何でもなく、何度も経験してきたことです。氷や海の水量が増えようが減ろうが、大陸が移動しようが、暴風が吹き荒れようが、地球にとって別にどうってことはありません。それは、そこで生きている人間にとって、大変なことであります。地球の長い時間の中で、海進(=海水が増大して、海水面が上昇)や海退(=海水が減少して海水面が下降)は結構普通にあった現象のようです。それも20~100m規模で。海退の証拠は海水面下に沈んで見つけにくいようですが、過去、海岸線が現在より100mも沖にあったという研究もあり、また、現在の海水面よりも20~30m高い場所に貝塚遺跡があるという証拠や、珊瑚礁の痕跡が残っていたりするようです。縄文時代の縄文海進では、関東平野の3分の2は海水面に覆われていたという研究もあります。現在冬期、氷点下20℃~30℃にもなる青森県や長野県八ヶ岳山麓に、縄文人が集落を築いていたのが不思議でしたが、超温暖化時代だったと考えれば、合点がゆきます。氷河時代の海退では、ベーリング海峡はひとが歩いて渡れる浅さだったため、東南アジアやシベリアの人々が北アメリカ、中米、南米へと移住したのではないかと言われています。

ただ、これらの温暖化、寒冷化は数千年、数万年のスパンで上昇、下降したのに比べて、現在の温暖化はたかだか数百年、産業革命以後に急激に上昇したことに問題があります。私は、この原因のひとつに、人口爆発があると感じています。

世界の人口は、旧石器時代100万人、新石器時代1000万人。それが18世紀半ばの産業革命によって増加し、一挙に2億5000万人。現代2020年には78億人になっています。増えすぎました。大繁殖です。食糧確保のため大農業、生活のための移動、体温維持(空調)、排泄などによる水質悪化と温暖化ガスの排出、地中からのエネルギー採掘、都市の建設によるセメントや鉄鉱石の消費。などなど。

こうして増えすぎた人間は、ちょっとした環境の変化に脆弱です。現在、人口減少が、政治問題化しつつあります。子供の数を増やせと号令がかかっています。一度立ち止まって考えてみましょう。子供を増やせとは、働かずに年金で生活している人々のエゴではありませんか。若い世代に働いてもらってとは、人手不足を含めて、今の社会体制を変えずに楽していたいとの考えではないですか。それが壁に当たると、今度は移民に頼ることまで考えます。今の社会体制で、下働きを誰かにやってもらって、自分は年金を継続して受け取りたいという身勝手さが目につきます。高齢者が旅行を楽しむのも結構でしょう。しかし、ホテルの清掃、ベッド・メイキング、レストランの調理、皿洗い、鉄道の保線作業、バス・タクシーの運転など、誰かに働いてもらうことで成り立つ贅沢です。以前は人間がこれほど長生きしなかったので、問題は目立ちませんでした。また、長生きした高齢者も、何らかできる範囲で働いて、社会に参加していました。それが、年金もらって毎日遊んで暮らすために、「子供を増やせ! 」とは、エゴにしか見えません。人口を減らしてゆく、そしてそれに合致する社会を構成して行く、これがこれからの進むべき道のように思えます。世界人口を減らしてゆくこと、これが温暖化の解決みならず、世界の問題解決の糸口のように思えます。発展途上国の人口増加は、悲劇と表裏一体です。食糧難、疫病といった生存にかかわる危機をはらんだ問題です。人口問題解決の「解」を飢餓や疫病に任せることは、悲劇としか言いようがありません。もう少し賢い方法を探るべきだと思います。運河を作り井戸を掘り、農業を推進することは一時の解決策にはなりますが、それはまた、それだけ人口を増やすだけです。何かもう少し賢い解決策を、世界で考える・・・・・。まずは、人口減少へ舵を切りましょう。

ジョン・ウエインにアメリカを見た

 

ネコのひたいほどの小さな我が家の庭ですが、数年前に植えた柚子が花をつけました。サクランボの小木は2本あり、春に開花したとき、おのおのの花弁に綿棒をくっつけて、受粉を試みました。蜜蜂が飛んで来て、花の蜜を吸いにくると、それぞれの花弁にもぐり込んで、交互の木の花粉をからだにつけ、両木間を行き来するので、自然と受粉できるのですが、我が家近辺では蜜蜂が見当たりません。「蜜蜂の巣を作って飼育すると(養蜂)、楽しくて感動する」とインターネットに載っています。また、そうして蓄えられた蜜は、市販の西洋蜜蜂のものよりも、濃厚で美味しいと書いてあります。しかし、住宅地で養蜂をやりますと、蜂が近隣家庭に干してある洗濯物を汚したり、何よりも蜂が飛び交うことを危険に感じるひとも多いと言います。森林の一軒家に転居しないと無理だと、養蜂は思い留まっています。去年は受粉を試みたあと、入院したので結果を見ることができず、家内から「2粒だけ実がなった」と知らされました。今年は、早く開花したほうの木はダメですが、遅咲きの木のほうには、たくさん実がなっています。果樹にかぎらず、農業行為は生育を見ているのが楽しみです。自分の子供の成長を眺めている感じがします。

「子供の成長を眺めている楽しみ」という言葉、60数年前に観た映画「アラモ」を思い出しました。1830年頃、北米大陸のテキサスは、メキシコ領で住民は独裁政治、圧政に苦しんでいました。「アラモの戦い」とは、反政府、独立反抗戦争のことです。アメリカ人にとっては「Remember Pearl Harbor」と並んで「Remenber the Alamo」と称され、国民の独立自尊の象徴となっています。映画でジョン・ウエイン扮する、テネシーから援軍にやってきたデイビー・クロケットが、勝ち目のない戦いへの参加を暗に応えて言います。「Republic(共和国) 、Republic、この響きがいい。自由に暮らし、話せる国だ。人の往き来、物の売り買いも自由。感動的な言葉のひとつだ。『共和国』と聞くと胸がつまる。自分の子供が歩き出す時と同じだ。胸が熱くなる言葉。それが共和国だ」 。1960年に製作されたこのMGM映画は、ジョン・ウエインが出演と同時に、製作まで手がけた映画です。彼がこの映画に込めた想いは「Republic」という言葉に凝縮されていると感じました。結果的には、アラモの砦に籠もって戦ったひとびとは全滅しましたが、独立反乱軍の軍員増強立て直しの時間稼ぎに貢献して、最終的には反乱軍に勝利をもたらし、テキサスは独立後、アメリカ合衆国のひとつの州になりました。この映画の音楽はデミトリー・ティオムキンが担当しています。数々のアメリカ映画音楽を作曲した巨匠です。この映画のテーマ曲は「The green leaves of summer」。これに「遙かなるアラモ」とか「アラモの歌」なんて変な日本語訳名がついていますが、若い日の緑葉の夏、種まき、収穫の頃を歌った望郷の内容です。明日のメキシコ軍の大攻撃で、砦を守る者達の全滅が必至の夕刻シーンに、哀愁を帯びたこのメロディーが流れます。ティオムキンの出身は、旧ロシア帝国領だった「ウクライナ」です。ロシアの侵略、独裁政治への反抗戦争が続いている現在、何か目に見えない縁(エニシ)を感じます。

この映画を観たのは、大阪梅田のOS劇場、当時売り物だったシネラマ方式の大画面、私は高校3年生、終戦から15年が経過という時代でした。私たち戦中生まれの者は、物ごころついた時からアメリカ文化の洗礼を浴びています。進駐軍、チューイング・ガム、チョコレートからはじまり、映画はもちろん、音楽、デニムのジーパン、アメ車、ダンス、コカ・コーラ・・・ETC.。アメリカそれは、食い物も文化も飢餓状態だつた子供の前に突然開けた、夢の国でした。そんな憧れの映画スター、ジョン・ウエインに会った経験があります。私が小学生だった頃の記憶として残っているのですが、調べると「1958年昭和33年映画『黒船』の撮影で来日」となっています。そうすると私は中学3年生。時期にズレがあります。昭和29年~30年ころに、撮影以外で非公式に来日していたのか、私の記憶が間違っていて、やはり昭和33年だったのかどちらかです。我が家の家業は料亭です。その日、誰かが「ジョン・ウエインが来てるヨ」とそっと教えてくれました。私は門の内側でじっと待っていました。どれほど待ったか、石段の奥、砂利道の暗がりを誰かこちらへ歩いてきます。小山のような大男というより、電信柱のように天を突く大男でした。ジョン・ウエインはひとり足早に石段を降りてきて、待ち構えていた私と目が合うと「Oww」と言って手のひらを上に向け、微笑みながら門の外のハイヤーに乗って消えて行きました。「Oww」と微笑みは、彼がファンの少年に接するとき、いつもしている動作だったに違いありません。その間、ものの15秒ほど。それでも会ったのです。本物のジョン・ウエインに。天にも昇る気持ちでした。誰彼なしに友達に自慢したいと思った覚えがあります。アメリカ映画、文化の象徴としてのスターと遭遇した記念碑的出来事でした。ジョン・ウエイン、1979年、癌で死去。享年72歳。ネバダの核実験場近くで、撮影を続けたのが原因ではないかと言う説もあります。

「アラモ」。この映画が強く印象に残っているのは、私にとって高校3年生だったことが関係しています。高校3年生、それは私のターニング・ポイントでした。それまでと、それ以後と私の人生は大きく変わりました。詳しくは述べませんが、あることがキッカケで、人生を積極的に生きようとの意識が芽生えた時期でした。1960年代は、良き時代のアメリカが更に興隆を極めて行く時期と重なっています。子供の成長を見守るこころ=圧政下で自由を求め、立ち向かって行く精神を、映画「アラモ」に見て、強く印象に残った体験です。