時の流れが速すぎる

 

勤務先の近く、古い豆腐屋がありました。親爺ひとりが頑張って豆腐を作っていました。配達はせず、店頭で販売するだけ。時々タッパウェアを持って買いに行ってました。以前買いに行った後、半月ほどして、買いに行って見ると店は閉まっていて、豆腐は買えませんでした。それからしばらくして、前を通ると古い建物は取り壊され、更地になっていて、その後コイン・パーキングになってしまいました。今、ほとんどの人は豆腐を豆腐屋ではなく、スーパー・マーケットの食品売り場で買っているのでしょう。自宅から地下鉄のひとつ離れた駅に、ターミナル・ビルがあります。4階に文房具店があって、家内が地下の食料品売り場で買い物をしているあいだ、私は用がなくても立ち寄ります。文房具店は見ているだけで、好きで楽しいのです。万年筆、便箋、封筒、ノート、手帳、メッセージ・カードなどなど。しかし、考えればこれらはすべて、今の時代パソコンとスマート・フォンで用が足せるのです。メモ、メール、辞書、予定表、電話、LINE・・・・・。文字のタッチ、色、紙の風合いなどにこだわれば、文房具に軍配が上がるのですが、収納や写真送付、リアル・タイムの交信などでは、パソコン、スマホには勝てません。いつも立ち寄っていたこの文房具屋さん、この3月末で閉店しました。

 

日本中の書店が減って行ってます。書店に立ち寄り、あれこれと本を手にして、見て調べている時間は、読書好きには楽しいものでしょう。書店には取次と呼ばれる問屋から、毎日数回トラックが入ってきて、たくさんの書籍が降ろされるそうです。書店主は、それを1冊1冊見て、販売棚に並べる売れそうな本と、返品する本を選びます。毎日その作業に追われると聞きます。もちろん、返品される本の方が圧倒的に多く、ほとんどの本は読者に読まれることなく、出版元へ帰って行くそうです。「あなたの原稿を本にしませんか」なんて広告を見かけます。内容も価値もどうでも良くて、出版料金さえ支払ってくれれば商売になるとの魂胆です。返品され、出版元に山のように積み上げられ、廃棄されるこの無駄な在庫本の存在を考えるとき、書店がなくなって行くのを嘆く向きもおられますが、捜しているテーマ、問題を瞬時に見つけられて、玄関まで届けてくれるAmazonをむげに批判はできません。更にKindleというパネルを持っていますと、電子出版されている本が、すぐに安価にダウンロードして読めます。著作権期限の切れた本は無料。野鳥類の図鑑をダウンロードしたら、調べている鳥の鳴き声が収められていてパネルから聞こえました。もちろん印刷された本ではありませんので、場所をとらず、印刷された紙はなく、不良在庫問題もありません。

6年前に我が会社を移転しました。現在首都圏で生活している同輩に、「この頃、キミの生家の前を良く通る」とメールしました。同輩から「生家を東へ50メートル行った○○湯へいつも通っていた」と銭湯を懐かしむ返事が戻って来ました。ところがその銭湯、照明が消えたまま、のれんも出ていないままでした。先日、前を通ったら、建物が取り壊されていました。古くから「浮世床」と並んで「浮世風呂」という言葉があるように、銭湯は庶民の交流の場。広くて深い湯船に浸かれる開放感が好きで、私は良く銭湯を利用します。しかし、徐々に銭湯にも、閉店が忍び寄ってきているようです。

60年前私の学生時代、日本にも「大量生産・大量消費」の波が押し寄せ、スーパー・マーケット文化が花開きました。ジャスコ、ニチイ、ダイエーイトーヨーカドーイズミヤ・・・・。それから60年、食料品はスーパーで買い物することが定着、街角からまず魚屋が姿を消し、酒屋、米屋も消え、八百屋と肉屋が細々と残っているのみです。薬局は医薬分業とかで、調剤薬局になって残りましたものの、大手薬局の売り場は、まるでスーパー・マーケットです。

    

こうして時の流れを見渡して、世の中の変遷を体験していると、これで良いのかと思ってしまいます。ダーウインは進化論を述べた著書「種の起源」の中で「環境変化の中で生き残るのは、最も強い個体ではなく、賢い個体でもなく、変化に適応できる個体だけだ」と述べたと聞き及びました。時の速い流れの中で、コロナ・ウイルス蔓延が更に追い打ちをかけ、負けて消滅して行く商売がたくさん見受けられます。そんな中、気になっているのが、テレビのトーク番組に出演してきて、勝ち誇ったように「負け商売」を小馬鹿にしている美術工芸会社、社長のガイジンAです。Aは言います。「日本の零細企業は生産性が低い。厚生年金の掛け金ぐらい負担できない企業は、生産性が低いんだから退場すべきだ」と。これを聞いていると。腹がたちます。永らく継続してきた日本の伝統的企業は、それほどカネ儲け一辺倒ではありません。世の中に対して、取引先に対して、つつましい額の利益を、適正利潤としてやってきました。その零細企業にも行政は、どんどん税金を課し、労働を悪として「働くな」と言い、将来の退職金、年金の負担をかぶせてきました。零細企業の適正利潤と、国家や自治体という行政が課す負担のあいだには、「勘定」が釣り合っていないのです。行政は毎年毎年、予算が増幅します。減ることはありません。これを「パーキンソンの法則」と言います。英国の歴史学者政治学者シリル・パーキンソンが行政組織を研究して導き出した法則です。行政の「仕事量は、完成のために与えられた時間をすべて満たすまで膨張する」「支出の額は、収入の額に達するまで膨張する」という研究結果です。毎年、経済が成長を続ければ何とかなるのですが、一旦成長がマイナスに振れれば、そうは行きません。自治体の中には、退職間際の職員の労働時間を、1日8時間にならないようにして、正規の職員を非正規労働者にしようとする動きがあるそうです。金欠で退職金を支払いきれない苦肉の策、非正規だと退職金の支給はありません。それも結構多くの自治体でやってるらしい。ですから、赤字の零細企業にもゼニ払わせようと、固定資産税を上げつづけ、厚生年金の負担を押しつけるのです。それに賛同しているガイジンAの論理は、要するに「もっとガメつく儲けろ」ということです。西欧人がすべて「カネの亡者」とは言いませんが、弓矢しか武器をもっていなかったアフリカの人々を銃で制圧し、奴隷売買を行い、大航海時代、南の国々民族を圧して植民地とし、ボロ儲けを行った歴史があります。対して、日本をはじめ穏やかな民族は、自然の恩恵に感謝することを知っていました。日々食べて行ける分だけ、自然からの恵みとして頂戴し、それ以上を獲ることは強欲で恥と感じていました。そのおかげで、資源は守られ、永い持続可能な安定した社会が成立していたのです。漁場に集まった船団は、どの船もそこそこの収穫を分けあって共存してきたのです。Aの論理は、その船団の中で、われの船だけ格段に大漁乱獲を企てるやり方です。そしてほかの船に「キミ等は生産性が低い」と恥ずかしげもなく言ってるのと同じです。どの船もわれ先に、目いっぱい獲れるだけ獲れば、資源が枯渇してしまいます。「漁獲制限」が検討される事態は、明らかに日本のルールから逸脱しています。聞けばAは政府や自治体の顧問を務め、議員や行政官たちは、そのご託宣を有り難く拝聴しているようです。これは間違っています。我々がいにしえから守ってきたルールを捨ててはいけません。日本の「恥の文化」をもう一度考え直す機会だと思います。それを忘れてツッ走ると、必ず手痛いシッペ返しを喰らうに違いありません。永らく続いてきた良い日本文化を、西欧人のゼニ感覚で滅ぼしてはいけません。