私はフォーク・シンガーだったのでしょうか?

 

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「学生時代はどんな音楽をやっていたのですか ? 」と問われ、「フォーク・ソングを歌ってました」と言うと、よく言われるのは「『バラが咲いた』とか『神田川』とか、そういう音楽なんですネ」と ! 。ムムムッと押し上がってくる感情を抑えながら、「少し違うんですが・・・まあ、そんなモンです」と答えることにしています。

以下の記述は、主にAmerican folk musicのことになりますので名詞は英語表記にします(カタカナ表記だと全角で場所をとって仕方ない)。私のFolk songの入り口は、Brothers  fourでした。洋楽Popsに浸っていた高校時代、Kingston trioの「Tom Dooly」がヒットしましたが、聴いても大した感慨はありませんでした。次にヒットしたBrothers fourの「Green fields」に魂を揺さぶられました。旋律がどうの、楽器音がどうのではなく、実に不思議な声が響いていたのです。のちにそれが、Wood Bass担当のBob Flickの低音声 だとわかります。彼らのデビュー翌年に発売されたLP、「Song book」を買って、繰り返し聴き、シビレにシビレました。そして来日公演、当時まだ大学生だった彼らのコーラスも衝撃的でした。高校1年からギターを弾いていましたので、Brothers fourの真似をしたくて堪らなく、進学してからも、メンバーを集めるべく虎視眈々と狙っていました。

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1964年東京オリンピックが開かれた年になると、それまでバンカラ学生ばかりだった先輩たちは卒業し、代わって入学してきたのはIvy lookに身を包んだFashionableな学生でした。最初は(これが学生なのか?)と違和感がありましたものの、学生達の雰囲気が一気に変わり、AmericaのIvy leaguerたちがやる音楽としてFolk songも注目を浴び始めました。時機到来とBrothers four styleのgroupを結成すると、いろんなConcertから出演依頼が舞い込みはじめました。主にBrothers four とKingston trioのレパートリーを演奏したのですが、活動して曲を調べるうちに、その音楽のルーツが次第に姿を現します。上記2グループの他に、Peter Poul & Marry(PP&M)、Highway Men 、Bob DylanJoan Baez、Judy Collinsたちのレパートリーを調べて行くと、Pete SeegerやLead Belly、Cisco Houstonといった名前が現れ、その先にWoody Guthrieという名前が浮かび上がってきました。

中学・高校時代、音楽の先生から「おおスザンナ」「ケンタッキーの我が家」なんて歌を聴かされ、「これはFolk Songです。作曲したのはStephen Foster」だと教わりました。また、同じ頃Banana Boatという港湾荷役の労働歌が大ヒットし、歌っていたHarry Belafonteの歌がFolk Songだとも言われました。

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所が1960年代のFolk Songは少し雰囲気が違う。そこには「メッセージ」とか「主張」といった社会に訴えかけるものが含まれていました。Woody Guthrieのことを調べて見ると、(こんな人が居たんだ ! )と思えてきました。1912年に生まれ、極貧の季節労働者として放浪する人生の中で、1930年代~40年代後半まで約20年ほどですが、労働歌やNegro Spiritualsなど、いわゆる伝承的、口承的な歌スタイル(つまりTraditional Folk Song Style)に則って歌を作り、歌い、ラジオで流し続けた人でした。生涯に作った曲は1000曲ほど。1940年4月に音楽学Alan LomaxはVictor RecordのStudioでその歌を録音しました(LP=Dust Bowl Ballads)。1941年GuthrieはPete SeegerとAlmanac Singersを立ち上げ、それは1947年にSeegerが結成したWeaversへ発展して行きます。これは1927年から1943年にかけてBlue GrassやCountry Songを歌って録音し、人気を博した3姉妹(ハーモニカとAutoharpとギター)のバンドCarter Familyに触発されたと見て良く、soloではなくensembleでVocalするStyleは、60年代になって爆発的人気を得たHootenany boomの礎だろうと考えられます。また、Guthrieの歌に込めた抗議(Protest song)StyleはContemporary Folk musicと呼ばれるChorus groopや、solo singerにも受け継がれてゆきます。GuthrieはHootenanyが全米を席巻する前の1954年に、ハンチントン病(体が勝手に動いて止まらなくなる奇病・舞踏病)を発症し、Folk song boomの最中、1967年10月3日クイーンズのクリードムーア精神病院で亡くなりました。享年55歳。自分が生きてきた歌人生が、開花して社会現象となっているその時、本人は社会を見つめるどころではなく、奇病の苦しみにさいなまれながら、絶命したことになります。(神様はこういう皮肉が好きですネ)。

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Cisco Hustonは1938年頃にGuthrieと知り合った10歳年下のfolk singerでした。

Almanac Singersとも共演し、Guthrieとは兵役でも一緒になり、労働者としても連れ添った仲間です。Guthrieが作った曲だけのLP(↑)も発表しています。Hustonも極貧のsingerで辛酸をなめた後、ようやくFolk songが脚光を浴びだした61年に癌で亡くなりました(4月28日)。死期を悟ったのか、その1ヶ月半前Vanguard Recordのstudioで独り録音テープを回して、Guitarを弾いて歌い、音声を残しました。そのLPが「I ain’t got no homer住む家とてなく」 ↓ です。享年42歳。

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Lead Belly は生涯に重大な犯罪を何度も犯し、監獄と娑婆を出入りした黒人歌手です。1930年Louisianaの刑務所に収監されていた時、やはりAlan Lomaxに才能を発見され、Lomaxの携帯Recorderに数百曲を吹き込みました。47年結成のWeaversがBellyの作ったGoodnight Irineをヒットさせます。また、Texasの監獄に収監されていた時ひらめいたMidnight Special(夜中の列車の光が監獄の窓に当たると、その囚人の出所は近い)もヒットしました。ヒットはこの時代のFolk singerには珍しいことですが、経済的に恵まれたわけではなかったようです。そして49年に筋萎縮性側索硬化症を発症しNew Yorkで死亡しました。享年61歳。

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Woody GuthrieがThis land is made for you and me(この国はあなたのため、私のために作られた国)と歌ったU.S.A.とは、「自由と平等」の旗印のもとに建国された国でありました。American dreamという「誰でもノシ上がれる」チャンスのもと、極端な大富豪を現出させた一方、どこまでも貧困から抜け出せない、多数の底辺の人々をも生んだ格差社会です。その貧困民衆の中から生まれたFolk songは恨み節や嘆き節ではなく、身の回りの人々(Neighborhood)への愛や、将来(Negro Spiritualでは来世)への希望を含んんだものでした。だから生き延びてきたと言えるでしょう。1950年代半ばからAmerica音楽界を席巻したFolk music revivalと呼ばれる boomですが、Kingston Trio、Brothers Four、PP&M、Highwaymen、New Christy Minstrels、Bob DylanJoan Baez、Judy Collins、 Bob Gibson、Tom Paxton、Ian & Sylvia といったスター達の礎に、Guthrie、Huston、Bellyといった先達がいたことは大変重要です。65年からはベトナム戦争が始まり、徴兵制度によって戦地へ送られる若者のあいだで、歌で抗議するFolk songはさらに盛り上がりを見せました。66年に私は学校を卒業してFolk songのバンドを引退し、別のジャンルの音楽に取り組むことになります。このトシまで音楽を創ることを続けていますが、しかし身体のどこかにFolk singerのDNAが残っている気がしています。これで私が学生時代に歌っていたFolk songを少しは理解して戴けましたでしょうか。

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広告文化の不易流行・むぎ焼酎二階堂CM

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広告も「言葉、絵、映像」としてとらえれば、立派な「文化」です。中には極端に文化から遠いものもあります。製品の機能や特徴をうるさく前面に出し、「早く買わねば損をするゾ」と言わんばかり、「0120-○○○-○○○に今から30分以内にお電話申し込みいただければ、なんと70%引き。オペレーターを増員してお待ちしております」。なんて言ってる画面の片隅に小さく「この広告は1日に数回流れます」と出ていたり・・・。時のハヤリなのか数人(時に数十人)がカメラに向かって一斉に踊ったり、歌ったり。これは歌手タレントをグループにして売り出す風潮に乗っているのでしょう。1970年代、80年代に花咲いた「広告文化」の香りを残しているものもあります。今、流れている日本中央競馬会(JRA)の広告には、競走馬の走りをひとのロマンに重ねようとの意図を感じます。そんな中で特筆すべきCM、広告予算の都合なのかそれ程頻繁に流れませんが、(駅の手洗い場)→(古家の玄関)→(バレーダンス練習)→(花嫁姿)→(脱ぎ捨てられた博多帯が姿見)に写り→(女性が付け髭を外す)→そして画面に「夢よりも不思議な時間が眠っている」と文字が出て、(野原を風采の上がらない男が行く)。ナレーションが「あの日の自分を移ろう未来へ。ここで出会える。見覚えのある眼差しが心を覗き込んでいるようだ」と流れ、「麦100%、大分麦焼酎『二階堂』」と製品名が読まれます。若いひとにすれば「何だ、これッ」と思うかも知れない。しかし私たち後期高齢者には、若い頃に見ていた広告の雰囲気のひとつです。松尾芭蕉俳諧の理念を「不易流行」と言いました。「不易=変わらないものと、流行=移りゆくもの」だと。それは今や、あらゆる芸術・文化に共通にあてはまると思います。70年代後半頃、西武百貨店の広告には「マヨネーズの島では、海の中に虹が動いていた」とか、「植物は都市をソフトにする」といった文案があふれていました。当時の名だたるコピー・ライターがこぞって書いていたものです。それは当時の「流行」で、文化の先端を走るものでした。その後、西武の堤清二社長は「いくら広告を打っても、客が来ない」と嘆き、方針転換してそんな広告をやめます。実はその頃から、この「二階堂」のCMは始まったようです(1987年CM「自然」開始)。回顧調のミニ・映像は毎年1作つくられ、これが30年余りにわたって続いています。まさに頑固なまでに「不易」。制作は広告会社「大広」。CM監督は2作目から、ずっと九州在住・清水和雄氏です。ネット上ではCMのファン・クラブも作られ、各CMのロケ地を紹介するサイトもあります。ロケ地は、ほとんどが九州各地。たまに山口県もあります。ロケ費用を切り詰めている努力が痛いほど見て取れます。「二階堂酒造」で検索すると会社のホーム・ページには過去のCMを紹介するページがあり、YouTubeで閲覧できます。製品を全面に出さず、企業のイメージを訴える「企業広告」「PR広告」と呼ばれるものは、以前からありましたが、いまでは、そんな呑気に構えられる企業は少なく、せわしなく広告効果を求めて「売らんかナ」姿勢の広告主ばかりです。この広告界の変遷の中で、かくなる化石のような頑固一徹姿勢は、少しウレしくなります。ファン・クラブが作られるのも理解できます。ただ、CMにひとつ注文すれば、画面、文案、流れに「脈絡」がありません。現代詩と呼ばれる詩、現代音楽と呼ばれる十二音階音楽(無調音楽=調がなければ音楽にならない!)、一部の現代絵画や書道に見られるアヴァンギャルドに欠けているのは「脈絡」です。現代アーティストは、「脈絡」がないことで、逆にそれが「現代アート」だと粋がり、高尚ぶるヘキがあります。「二階堂CM」もこのヘキから脱却し、作品が脈絡をもって、小さなドラマになれば、素晴らしくなると・・・・私は期待しています。



 

 

シベリア抑留

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氷楔クラック地形(Wikipediaから)       つらら

一年で今が一番寒い季節です。私は、寒さに弱い。体全体、特に手足を冷やすと指、耳たぶなどに霜焼けを発症します。体を温めていても、気温が低いと指先が割れ始め、ひび割れになって痛みます。高校時代、一時山岳部に参加し、豪雪の中で1週間、テントを張って寝たことがあります。氷点下15度。朝、起きるとテントの所々から氷柱が垂れ下がり、水ばなも凍って氷柱のようになります。そのつらさは、言葉では言い表せない程のものです。ここからは、悲劇の話しです。政治的な意図はありません。しかし、悲劇の被害に遭ったひとびとには、許せない出来事だったに違いありません。

先日年末、BSの歌謡番組で少し以前のVTRが流され、二葉百合子という老婆が「岸壁の母」を歌う映像を見ておりました。「 ♪ 母は来ました 今日も来た この岸壁に 今日も来た・・・・」。聴いていてふと思ったのは、( この歌、スターリンに聴かせてやりたいナ → いやいや、大国ソビエト連邦の復活を懐かしんで励んでいる、プーチン大統領にも聴かせてやりたいナ ) と。丁度去年の年末は、ソビエト共産主義国家建設、膨大なる(69年間)実験の失敗・崩壊から30周年記念と報じられていた時期と重なっていたので、シベリア抑留をやったスターリンの悪行を思い出しました。韓国の「慰安婦問題」や「徴用工強制労働」も問題かも知れないけれど、それどころじゃない、「シベリア抑留」はもっと大問題です。ソ連は太平洋戦争終戦1週間前、瀕死の日本に、日ソ中立条約を破棄して宣戦布告し参戦、満州帝国、日本領朝鮮半島北部、南樺太、千島列島へ侵攻しました。その7日後日本はポツダム宣言を受諾し、敗戦します。敗戦時、外地にいた軍人民間人を問わず日本人50万人(一説には60万人かそれ以上)が、ソ連国内にあった約70カ所の収容所へ貨車で送られました。当時の日本人口の約1%ちかくにあたり、今で言えば富山県人口の全員ぐらいに該当します。スターリンは運河建設など公共事業を行うにあたって、囚人や侵略地の住民、捕虜を使い、強制労働を課して遂行するのを当然のことと考えており、スターリングラード戦によるドイツ人捕虜6万人のうち、強制労働による死亡者数は5万人強(90%)ちかくに及ぶと言います。日本敗戦時の外地在住日本人を連行、強制労働を当然のこととして行いました。乏しい食糧事情や劣悪な収容環境による死者の大量発生などは一顧だにせずに。厚生労働省が把握している資料では、氷点下40度極寒のシベリアでの強制労働で、飢えと過労により約6万人が死亡したことになっています(米国研究者の推定死亡数最大34万人)。最長抑留11年間。

詳しく調べたわけではありませんが、ソビエト連邦成立までの共産主義革命を概観すると、レーニンは一貫して強硬な「暴力革命」を提唱しつづけました。1905年に血の日曜日事件が発端となって始まった「ロシア革命」ですが、「プロレタリアードと農民」の革命という名のもとに、資金確保には銀行強盗も容認、1917年の二月革命帝政ロシアが倒れると、母体のボリシェビキが躍進、武装蜂起、貴族と正教会の土地を国有化します。レーニンは「この革命を確実にするためには、「恐怖と暴力が不可欠」と提唱して、翌年に組織したチェーカーによって反政府人員、数万人(一説には14万人)を処刑させます。1919年には各地に収容所をつくり、強制労働をさせました。そして1922年暮れにソビエト社会主義共和国連邦=「ソ連」が成立しました。レーニンはその約1年後病死しますが権力闘争の末、あとを引き継いだのはスターリンでした。スターリンの悪名高き「大粛正」は反革命罪を着せられた政敵や、彼が行った「農業集団化」に反対した農民を「富農」として銃殺し、その数は数百万人にのぼると言われ、正確な数はいまだに把握されていません。世紀の大実験とも言える「ソ連」国家でしたが、その始まりから銃殺や収容所での強制労働で成り立っており、それは敗戦時、日本外地にいた日本人にもスターリンが平気で行った行為でした。革命を主導したレーニンにとって、「プロレタリアードと農民のための革命」という錦の御旗の前には、帝政ロシアも政敵も正教会も、「正義」に対立する「悪」でしかありませんでした。

私たちには、この狂気としか見えない行為も、行う人間が信じる「正義」にてらして当然のこととなり、ここに「正義」の恐ろしさが内包されています。「国民が豊かになってシアワセではないか」と広言する中国政府の「正義」は、ウイグルチベット、香港の自立は、現体制を揺さぶる「悪」であり、ミャンマー軍の「正義」、シリア政府の「正義」、タリバンの「正義」、ロシアのウクライナに対する「正義」、パレスチナ紛争当事者の「それぞれの正義」、北朝鮮の「正義」の前には、民主主義国の非難や国連決議は通じません。我が日本も軍国日本の「正義」で邁進した歴史もあり、この「正義」という錦の御旗は厄介なものだと思えてきます。昨年11月17日のブログでも書きましたが、政治の世界に「善玉・悪玉」「正義」を持ち込むと、「国民のため」のつもりが、あらぬ方向へむかってしまう危険をはらんでいます。議論、理論とは「双方の意見を熟慮すること」につきるのではないかと思えてきます。一方の論理・正義を声高に主張し、突き進むだけでは「罵り合い」「殺し合い」が続くだけです。幸福と平和の前提として、双方の立場を理解してから、ねばり強く協議を重ねることが必要だと感じます。一方的に自分の「正義」で行動すれば、結果は悲劇を招くだけ。日本人の良き伝統「和」を再認識してゆきましょう。降る雪を見ながら「シベリアはもっともっと寒かろうナ」と思いながらブログしました。

 

 

 

 

年頭に際して

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      ボーイ・スカウト後輩の、O.K.クン提供写真です

明けましておめでとうございます。

年が明けました。若い頃のようにやっと越年したとか、「峠を越えた」実感がなくなりました。それだけ、淡々と粛々と生きられるようになったようです。私のようにトシをとりますと、年頭に際し、これからの抱負など考える気にはならず、むしろ、ずいぶん永く生きたナと過去に想いを馳せることになります。人生を振り返って、自分のアイデンティティーは何時どう作られたのかと考えてみる元旦になりました。

江戸時代の薩摩に「郷中(ごうちゅう)」というものがありました。以下、「郷中」の内容は司馬遼太郎の「この国のかたち」からの引用です。江戸期は、礼儀作法、服装、結髪など日本中同一だったものの、教育や学問のやり方は藩によってずいぶん違っておりました。司馬はこれを「江戸期の多様性」と言って評価しています。学問を軽んじた薩摩藩ですが、そこには郷中という独特の教育制度が根付いていました。少年達は居住区ごとの「若衆組」とも言うべき郷中に所属し、寝起きをともにして共同生活しました。大人は関与せず、若者自身によって運営されました。その長たる「郷中頭」は人望主義で選ばれ、西郷隆盛などは、十八、九歳で抜けるべきところ、請われて24歳まで頭を務めたといいます。所属する少年のことで話し合う場合は、その父親の身分がいかに高くても、郷中頭は同格として対峙しました。郷中頭が訪問するとき、父親は袴をつけ、玄関まで出迎えるといったものでした。そこには大人である師匠(教師)はいなくて、同じ郷中の若者が若者を統御し訓練し、大人の干渉を許さず、運営は独立自治だったことに特徴があります。これは各居住区ごとに割り当てられて存在し、「頼山陽は『健児ノ社』と呼んで珍しがった」と司馬は書いています。下鍛冶屋町郷中頭だった西郷隆盛の配下には、成人してから明治維新以後、政治軍事の場で活躍する、大久保利通大山巌、弟の西郷従道東郷平八郎がいました。というよりは、郷中によってそれらの人材が育まれたと、評価することができます。ここからは私の見解です。少し似た教育制度として、会津藩の「什(じゅう)」というものがありました。しかしこれは、6歳から9歳児へ施された「掟」によるもので、「ならぬことはならぬのです」という言葉(のちに「NN運動」として定着する)に表される厳しい躾教育でした。什はあくまで「つべこべ理屈を言うな。ダメなことはダメ」という躾で、「所属する若者が若者を統御する」という自治を持っていた薩摩の郷中とは大きく違っています。

この郷中の話しを持ち出したのは、私が少年時代活動していたボーイ・スカウトと類似性が認められるからです。各ボーイ・スカウトの隊には大人の隊長もいるものの、活動の中心は班長以下少年達10人未満の「班」で、副隊長もしくは上級班長郷中頭の役割に該当します。週に1度ぐらいの集まりで、共同生活とまでは行きませんが、活動はキャンプやハイキングで、それは創始者ベーデン・パウエルが提唱したScouting、アウトドアとサバイバル技能に重きを置く教育方針です。そして奉仕活動がありました。時に慈善事業に見られる「弱者に対する上から目線」はなく、「一日一善」、日にひとつ世の中に対して良い行いをせよ、というものです。公園のゴミ拾いや、赤い羽根、緑の羽根の募金活動で街頭に立ちました。年齢的にイタズラやワルさをする年頃の我々も、奉仕活動によって越えてはいけない一線を暗黙の内に自覚していたと思います。会津の「什」の掟には、「卑怯なことをしてはならぬ」「弱い者をいじめてはならぬ」と具体的に明文化されていますが、スカウト活動のキャンプ生活や奉仕活動によって、自然とそれらは身についていったと思います。「道徳教育」や「いじめの問題」も野外共同生活によって、解決できる「解」がここにあるのではないかと考えるこの頃です。重いテントや食糧を背負い、風雨と戦いながら山中を歩き寝るのが私たちの活動でした。今のキャンプは、親・保護者が4駆のジープやライトバンで荷物を運ぶと聞き及びます。ボーイ・スカウト活動も、塾や習い事に少年達が忙しくて、ずいぶん見かけなくなりました。せめて、スポーツ・クラブがその役割を担ってくれればいいのですが。

自分のアイデンティティーをたどって、在りし日の少年時代を回顧する念頭になりました。自然が自分を育ててくれたと思っています。

大晦日の飲み会

 

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  八坂神社・朮(おけら)火床                                   令和4年の年賀状

 

私が中高一貫校へ通っていた頃、同学年で4人組の仲間は6年間ずっと一緒でした。と言うのも、通学は京阪電車で、内三人は同じ小学校出身。もう一人は隣の小学校出身。同じ時間の電車の同じ車両に乗ります。しかも私以外の三人は同じ陸上部。私は足が遅くて、短距離走は無理ながら、一時野球部(中学)や山岳部(高校)に参加していて練習には長距離走がありました。高校卒業した頃から、大晦日の夜、「走ろう」と言うことになって、約8kmを走ります。ランニング・コースは東山区左京区、神社仏閣が並んでいて、朮参りと除夜の鐘を目当てに参詣する人々が昼間よりも多く往き来する夜道を走ります。学生時代の大晦日の夜は、そうやって走るのが通例でした。昭和38年には道行く参詣客から、翌年に控えていた「東京オリンピック頑張れヨ!」とヒヤカシ声のをかけられたのを覚えています。学校を卒業して就職した年の大晦日から、さすがにランニングではなく、飲み会に代わりました。四人だけの飲み会も十年ほど続くと、高校の別の仲間がひとり、ふたり加わり十人弱の飲み会になって、52年間(ランニング時代を含めると56年間)、毎年大晦日に会っていたことになります。途切れたのは、一昨年、令和元年と去年令和二年、コロナ・ウイルス蔓延によるものです。永年続けてきた飲み会なのですが、いかんせん居酒屋が営業自粛となっては続けるのは無理でした。今年はなんとか再開と思っていたのですが、また、デルタ株だオミクロン株だとなって中止です。52年間の内、同じ小学校出身三人組のひとりは、29年前48歳で急死、もうひとりは四年前から体調不良で不参加です。私も10年前癌の治療で2ヶ月入院しましたものの、運良く命拾いし、ガリガリに痩せていましたが、その年の大晦日も参加して皆勤賞です。というのが大晦日の恒例行事の紹介をしました。

さて、年末は先輩、同輩、後輩、取引先などのご縁のある方々から、この所お身内の死去に伴う喪中ハガキに混じって、その奥さんやお子さんから、ご本人死去の知らせも届くようになりました。加えて、2年ほど前から、「本年をもちまして年初の挨拶を終わらせていただきます」と年賀状の打ち切り通告も出てきて、何となく寂しい限りです。「もう年賀状はやめた」と宣言したひとに、こちらから年賀状を送るのは、ちょっとしつっこい気がして、今まで出していた年賀状の送り先を今年は整理しました。やや、薄情かと思いながらも、一方通行に送っていたひと、商売上のつながりなど大幅にカットし、送付先は去年の約半分になりました。それでも、もう何十年も会ってなくても、毎年必ずくれるひとまでカットできません。「そうか ! 」と思いました。年賀状は過去にご縁でつながっていたひとびととの音信で、無事を確かめ合う「年に一度の交信」なんだと気づきました。そして音信が途絶えたり、ご逝去のお知らせが来てご縁が切れたとき、懐かしい思い出や感謝が浮かび上がってきて、今、自分が生きていることを有り難く思う良い機会なんだと。それも、毎年の年賀状のやり取りが途切れてしまっては、お互い生死の「消息」さえわからなくなってしまいます。「消息」という言葉通り、年に一度の年賀状は生きていることの「確認」だと思えてきました。「袖触れ合うも他生の縁」とは、何事も目に見えないご縁で結ばれているという、仏教からきた考え方なのでしょう。私自身はまだまだ、天(お浄土)に召される思いはなく、この世にやり残したことが山積みです。でも、いずれ寿命が尽きて、天国へ行ったら、ひと足先に天国へ行った仲間達と飲み会ができればいいなと思っています。むかし死んだ愛犬、愛猫にも会えるかもしれない。それも楽しみです。12月22日は冬至、今年も豊作だった庭の柚子を湯船に浮かべて、柚子風呂につかり、中風除けをお祈りしました。令和3年、年の瀬を迎えての心境です。

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読後感「嫌われた監督」を読んで

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                        Wikipediaから

-落合博満は中日をどう変えたのか-  著者:鈴木忠平

前回のブログで「日本文化を覆っている霧について」を書きましたが、この本に見え隠れする「落合博満」という人物像から、文化のみならず、政治、経済、学術、芸術などすべての分野を覆っているおかしな風潮を、理解、解決するヒントが見えたような気がしましたので、紹介しようと思います。

雪の便りが届くこの季節、クルマのタイヤを冬用に代えなければなりません。自宅から勤務先までの道路に峠があるからです。いつものタイヤ屋さんでタイヤ交換をしてもらっているあいだ、向かいのレストランで昼食をするのが習わしとなっています。パスタを注文し、待っているあいだ雑誌に目を落とすと「嫌われた監督-落合博満」との随筆が目に入りました。短い文章ですが面白いことが書いてある。発売された単行本の著者が執筆したいきさつを書いた随筆でした。「落合の番記者を終えてからも、なぜか関心が消えなかった」と執筆の動機を述べています。「『誰かと繋がろうとも、理解してもらおうともしなかった』落合、その落合との緊張感が書くことへと駆り立てる」と・・・。帰宅後、早速その本をKindleで買いました。

スポーツ新聞の駆け出し記者だった著者が、2003年秋、まだ決定もしていない来期の中日ドラゴンズ監督候補、落合博満宅に「我が紙はあなたを次期監督として記事を書きますと」一方的な「宣言」を上司の命令で伝えに行く場面から始まります。本には、投手としてとっくにピークを過ぎた川崎憲次郎を監督就任1年目の開幕投手に抜擢する話。不動の三塁手立浪和義森野将彦に取って変わらせる話、それは遊撃手の井端和弘と二塁手荒木雅博を入れ替えて、肩に弱点があり一塁送球にミスをする荒木を遊撃手で使い続けた理由でもありました。福留孝介との打撃だけを通じたクールなつながりや、日本一を決める試合、8回までパーフェクトで投げていた大記録達成目前の山井大介を、9回表、岩瀬仁紀への交代させたドラマ。などなど、野球好きには興味深い逸話がたくさん載っていて、退屈せずに読める本でした。

現役時代の落合は、独特の打撃の構えを、バットを神主が顔の前に立てる笏(しゃく)という木の板を持つ格好にたとえて、「神主打法」と呼ばれたました。その打法のことをたずねられて、落合は「ロッテ・オリオンズ時代5年間ほど一緒に打撃練習をした土肥健二のスイングを真似た」と隠すこともなく言います。引き合いに出された土肥は「落合と打撃について話したことは一度もない」と困惑気味ですが、落合は「オレ流って、堂々たる模倣なんだ」と言って憚らない。著者が試合のない日、球場へ来て打撃練習を見ていると、落合が近づいてきて「何してる」と言うので「バッティングを・・・」と口ごもっていると突然「同じ場所から同じ人間を毎日見ろ。日を追って違いがわかるようになる。それを1年間続けろ。そしたら記事が書けるじゃねえか」と忠告を受けました。著者が書いた、危険球が招いた暴力事件に対する落合の意見を、デスクが勝手に自分の考えを加えた記事にしてしまった時、「誰かに同調し、頷くことをやめて、落合について考えるようになつた」と目覚めます。そこが著者の転換点だつたかも知れません。「なぜ、落合という人間は、今あるものに折り合いをつけることができないのだろうか」と疑問に思う著者が取材に行くと

「お前、ひとりか?」と確かめて、

少ない言葉で話しを始める。著者が立浪をレギュラーから外す理由を問うと、「選手ってのはな、お前らが思ってるより敏感なんだ。あいつらは生活をかけて、人生かけて競争してるんだ。その途中で俺が何か言ったら、邪魔をすることになる。あいつらはあいつらで決着をつけるんだよ」と理由など答えなかった。そのかわり、毎日観察していた三遊間の話をします。「俺のベンチの位置からは三遊間がよく見える。毎日見続けていると、昨日まで内野ゴロだつた打球が、ある日から三遊間を破られたヒットになる」「これは毎日見続けている俺にしかできないことだ。他の監督にはできない」。この言葉は、立浪をレギュラーから外す明確な答えだったに違いありません。この視点が立浪と森野を入れ替え、井端と荒木の二遊間を入れ替えた、こうして守備でも打撃でも選手を観察していたことになります。

2011年秋、中日ドラゴンズは、球団が来季の監督契約を落合としないと発表した翌日から突如勝ち続け、逆転優勝をやってのけます。この変化を何故だと質問した著者に「俺の退任発表前、巨人戦に負けただろう。その時、球団社長が球場内の通路でガッツ・ポーズをしたという噂が広がった。それからだよ、あいつら(選手)に火がついたのは」と答え、成し遂げた過去に微笑んで、満ち足りた表情だったという。つづけて「あいつら、俺がいなくなることで、契約がすべての世界なんだってわかったんだろうな」。そして球団を去る最後の試合の後、ベンチ裏で選手たちに言った「これからも下手な野球はやるなよ。自分のための野球をやれよ。そうでなきゃ、俺とこれまでやってきた意味がねえじねえか」と言葉を残して去って行きます。

著者は落合を取材した8年にわたつて関わった年月を「別世界の理を生きているような緊張感」の中に、勝敗とは別のところで、「人間とは、組織とは、個人とは」という問いかけがあったと懐述しています。時に落合の言葉を思い出し、年月を経て「ああ、こういうことだつたのか」と腑に落ちることがあるとも書いています。読後私が思ったこと、誤解を恐れずに言えば、落合のやり方は、(世間一般に流布しているやり方を一切捨てて、自分だけのやり方でやる)に尽きると感じました。私は小学生の頃から野球少年で、阪神タイガース・ファン。このトシまで阪神を見てきましたが、ずっと心底に流れている不満があります。それは「阪神の大いなる常識」をいつも感じるのです。現役、OB、電鉄経営者、ファン、スポーツ紙など阪神を取り巻くものが一体となって醸成したものに違いありません。これは落合流と対局をなしています。ひとときだけ、この常識がひっくり返されそうなことがありました。それは野村克也氏が監督に就任した時です。しかし野村が「大変なチームの監督を引き受けてしまった」と後悔していたのを思い出します。また「野村ノート」では「阪神の選手に理に基づいて戦おうといっても、なかなか伝わらない」と言う。元気だけで野球は勝てると考えているチームのムードを変えるのは至難の業でしょう。バース、掛布、岡田のバックスクリーン3連発があった1985年の優勝も「知」ではなく「元気」で勝った優勝でした。阪神常識の最たるものは「低めに投げていれば、打たれることはない」というものです。そしていつも低めを痛打され、四球がつづいて崩れたりしています。阪神の選手の中に、根強く共通の常識が流れているんだろうと思います。疑問さえもてば、分析すればわかりそうなものなのに・・・。中日に移籍してきた和田一浩が、キャンプで「打ち方を変えなきゃだめだ」と落合に言われ、「やろうと思ったら言ってこい。ただし時間はかかるぞ。それでもやるか」と言われ、バッティングの教えを乞うた時、落合の言葉の「理」とは、常識の反対側にあるということがわかってきます。スピード・ボールを打つために、スウィングを小さくしたとき「それじゃ逆に打てなくなる」と。落合は「大きく、ゆったりと振れ」と言う。やってみると不思議に打てた。「ゆったり振れば、ボールを長く見られる」というのです。おそらく落合は「常識を疑うことによって『理』を手に入れてきた」と、和田は落合の言葉の意味が腑に落ちたのです。この鈴木忠平というスポーツ紙の記者が、落合博満という不可解な人物の中心に漂っていて触れたエキスのようなもの。それは、いま、我々がもう一度評価し直さなければならない大事なもののように思えてきます。世の中が「これは、こうだ」「これは、こうだ」と決めつけている事柄、それは、「本当にそうなのか。違うんじやないのか?」と自然科学の探究原理のごとく、この読書はいつも考え直す必要があるような気がした体験でした。鈴木が駆け出しの記者だった頃、中年過ぎのベテラン記者に言われた言葉を書いています。「まず、疑わなきゃだめだ。そんなことはあり得ないと決めつける奴にニュースは取れない。スクープをものにできるのは疑い深い奴だけなんだ」と・・・・。みなさん、どうですか。そうなんですよね。

 

 

日本文化を覆っている霧について

 

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3年ぶりに歌の作曲をしたCDを発表します。きょうは主に音楽についてブログします。独断と偏見に満ちていますのを承知で読んで下さい。

永らく器楽曲を発表し続けてきましたが、3年前に歌曲CDを発表し、その流れでつづけて歌の作曲に取り組みました。あまり上手くないヴォーカルですが、自分で歌いました。誰か他人さんに歌ってもらう手もありますが、それは時間を喰うので今回も即席発表です。とは言え、なにしろトシで、長いフレーズはなかなか息が続きません。イイ歌い方はないかと思案していて、アイ・ジョージを思い出しました。私が高校生の頃アイ・ジョージがテレビで「ラ・マラゲーニア」を歌い、「マラゲーーーーーーーーーーーニア」とよくあれだけ息が続くなと、その声の出し方に感心した記憶がよみがえりました。便利な世の中です。当時のLP盤塩化ビニールに記録された音楽が、復刻版CDとして発売されています。早速Amazonで発注、「ベスト版」が翌日に届きました。いきなり6曲目の「ラ・マラゲーニア」をかけずに、まず1曲目の「硝子のジョニー」から聴きました。・・・・・ウーン「上手い!」。「歌が上手い!」。上手い歌はいろいろありますが、尾崎紀世彦的に上手い。しかも尾崎紀世彦よりも上手い。声楽の訓練を受けたかのような太い声。長く伸ばす部分の心地よいヴィブラート。逸品です。12曲すべて聴き終えて感動しました。

話が少し横道にそれますが「ヴィブラート」について一言。ヴィブラートはヴァイオリンやチェロの近現代演奏には必須のものです。同じ音を伸ばすとき、弦を押さえた指を上下させて音を揺らします。フルートなど木管楽器でも息をコントロールして行います。ヴォーカルでも同じですが、プロでも誤解している歌手が多々います。演歌歌手に多く、音程を幅広く上下させるのがヴィブラートだと誤解し、半音の半分ぐらいの音程差で上下させます。こうなるとこれはもう聴いていて気持ち悪くて仕方がありません。ヴィブラートはわずかの音程差とマンドリンの演奏のように、音圧の大小の震えをミックスしたものです。音程をあまり幅広く上下させると、外れていると感じるし、半音まで上下させると「トリル」になってしまいます。一時、ある童謡歌手もひどかったのですが、誰かの忠告を受け入れたのか、最近はマシになりました。いま思いつく素晴らしいヴィブラート歌手は、カレン・カーペンター、アンディー・ウイリアムス、コニー・フランシスといったところです。コニー・フランシスの「渚のデート」を日本語で歌った伊東ゆかりも上手い。美空ひばりも上手い。そしてアイ・ジョージ

少し横道にそれてしまいましたが、このひとアイ・ジョージ音楽学校で声楽の訓練でも受けたんだろうか、と調べてみると違う。混血児ですが、小学生までは裕福な環境で育っていたようです。太平洋戦争で父親が出征し境遇は一変、孤児になってしまいました。職業を転々、ボクサーも競輪選手も経験し「流しの歌手」に。一旦はテイチクからレコード歌手デビューをはたすも、続かず再度流しの歌手をしていた26歳、運良く大阪キタのナイト・クラブ「アロー」の専属歌手となってから売れ出しました。翌年から1971年までNHK紅白歌合戦に12回連続出場します。私がテレビで見ていたのはこの頃です。ここまでアイ・ジョージのことを書いたのは、実は現在の日本文化の現状と比較するためです。いま売れている歌ってどうでしょう。ラジオを点けていると、次から次へと歌が流れます。すべてほぼ同じ感じの曲、印象に残りません。やたらと乗りのいいリズム、それだけ・・・。歌詞も旋律も歌声もほぼ同じ。48(フォーティ・エイト)とか言ってテレビではダンスは上手いが、歌はお添えもの。特に日本人なのに、外人が日本語を話す時の話し方をまねた歌い方。あれは神経が壊れそうになります。ライブ・コンサートでは大音響と光と煙が交錯し音楽はどこへやら。音楽以外では、お笑い番組、タレントが受けようと言葉を発し続け、録音された笑い声が画面に流れるものの、ちっとも面白くない。先日亡くなった、柳家小三治の話術「クスッ」と吹き出すような味がないのです。美術の世界、映画の世界、広告の世界。音楽では最近のクラシック音楽の世界。どうにかしているヨ「日本文化」・・・・いや「世界の文化」も。いったいコレ何やってるの→つまり霧に覆われて本物が見当たらない。アイ・ジョージの歌を聴いて、久しぶりに音楽に浸った感触がよみがえりました。岸洋子という上手い歌手もいました。山田姉妹という素敵なデュエットもいますが、オリジナルの持ち歌がイマイチ面白くありません。曲の制作にもっと力を入れればいいのに。妹が妊娠したということで、それも心配です。他方、アイ・ジョージ坂本スミ子のバックで演奏していたナイト・クラブ「アロー」のバンドマンの皆さん、いまも「アロー・ジャズ・オーケストラ」として目立たないけれど活動しています。タイム・ファイブを聴きにいって、バックのアロー・オーケストラに感動しました。そのように、きっと歌の上手い歌手もどこかで、ひっそりと歌っているにちがいありません。嘆かわしい現状です。

私の歌はもうひとつだけれど、これからも歌詞、曲、編曲に精進しながら楽しんで活動していきます。いつの日にか、日本を覆っているこの変な霧が晴れるのを待ちながら。しかし、あきれたこの状態、長くつづいていますネ。