T前議員が落選した理由

f:id:doiyanneko:20211117182710j:plain
f:id:doiyanneko:20211117182649j:plain

             ことしも柚子は豊作でした

 

庭の柚子が収穫段階をむかえ、3分の1ほど収穫しました。吸い物やうどんの吸い口にして、良い香りを楽しんでいます。

先般の衆議院選挙の結果により立憲民主党(以下RM党)の党首が辞任しました。私のブログはできるだけ特定の政党のことは書かないようにこころがけていますが、どうも評論家や政治記者のなかに、あの選挙結果を誤解しているひとが多いので敢えて書きます。ここに国民の政治に対する変化の潮流を感じるからです。政治活動をサボッていたベテランや大物議員が落選したのは当然です。そのなかで、日常活動が結構目立っていたのに落選したひとがいます。いままで大阪府T市とS町の選挙区、大阪10区から当選していた女性T前議員です。かねがね私はこのT前議員、国民の投票で選ばれた国会議員として、実に恥ずかしい存在だと思っていました。関西人としても恥ずかしく思っていました。T市に住んでいる後輩に、「Tのようなひとを選出している住民として、恥ずかしくないのか?」と以前言ったことがあります。「ウチの嫁ハンや、おバチャン達がファンになって推してしまうのです」と言うので「キミはどうなんだ」と言うと「恥ずかしい」と答えました。今回の選挙結果の風向き変化を、まずこの感覚で捉えてみてください。テレビの報道トーク番組などに出ている時のT女性は、そこそこデータなどを示してそこそこ普通の意見を述べたりします。まんざら根っからのバカでもなさそうです。ところが国会審議、特に証人喚問になると「なに?このひと」と言いたくなるぐらい品格の低い人物に豹変するのです。「あなたは疑惑のデパート」「疑惑の総合商社」とののしり「ヤバいと思ったんじゃないですか」と吊し上げる。これは審議でも質疑でも国政調査でもありません。プロ・レスリングです。最初から悪玉役と善玉役を決めておいて、善玉役が悪玉役をこれでもかと叩きのめすショー・ビジネスです。観客はヤンヤの喝采、溜飲を下げる。この善玉役をいったんやってしまうと、麻薬と同じでやめられないようです。思えば戦後以来、国会審議の一潮流として、脈々とこのプロレス・ショーは続いてきました。野党の質問者が大臣や官僚の落ち度、失敗、疑惑を声高にヤリ玉にあげて、こきおろす。立法行為でも審議でもなく、勧善懲悪、月光仮面鞍馬天狗よろしく、悪人をやっつける。もちろん放送のない委員会では地道な審議が行われ、国民に必要な法案が成立しているのですが。しかし、予算委員会など放送される審議では、このプロレス・ショーになってしまいがちなことは否定できません。このプロレス快感依存症におちいって、どんどん党勢を衰退してきたのが日本S党でした。55年体制と言われる2大政党時代、野党として大きな力をもち、60年安保法案時代の国会では与党のJM党を脅かす存在でした。あるJM議員が自嘲気味に「JM党は、戦後ずっと日本S党が要求する政策を5年遅れですべて実現してきた」と語っていたのが忘れられません。日本S党がそんな存在価値とは別に、いつしか勧善懲悪ショー依存症におちいり、尻すぼみ。今は昔の見る影もありません。先ほどの大阪10区選出のT前議員は、もともとこの日本S党出身で、このプロレス快感依存症が骨の髄まで染みこんでいるのでしょう。今回の衆議院選挙、RM党が議席を減らしたのは、日本K党と選挙協力をしたからとか、日本Iの会に無党派層を食われたとか言われますが、実は有権者がプロレス・ショーに傾いた政党に嫌気がさしている面を忘れてはいけません。RM党のなかには、このコロナ蔓延をうけ、困っているひと、根本対策などのために与党と首つきあわせて対応した立派な議員もいます。そんなひとは落選していません。政治評論家のなかには、RM党の党首選びに、「T前議員が立候補すべきなのに、落選したから残念だ」といったひとがいます。「おいおい、T議員が落選したことを、何ととらえているんだ。ピンボケ感覚もいい加減にしろヨ」と思ったのが今回、こんなチト政治的なブログを書いた理由です。いま国民も議員も、国会審議のプロレス・ショーから卒業する良い機会です。悪事や疑惑は、警察や検察が対応すべき問題です。国会で取り上げるから、司法が対応しなくなるのです。不正があれば、告発、告訴して、国会は適切に捜査されているかを監視すれば良いのです。相手をヤリ玉にあげて、善玉ぶって人気をとり、選挙を有利にしようという根性に、そろそろ有権者は飽きてきているのです。T前議員が落選したこと、RM党が議席を減らしたこと、日本S党が風前の灯火なのを私はそうとらえています。永田町の常識は国民から見て非常識。相手をヤリ玉に上げてプロレス・ショーを繰り広げるのを得意とするT前議員の落選を、好ましい政治の潮流変化ととらえるべきです。

 

 

プラスチックごみに鈍感すぎませんか

f:id:doiyanneko:20211105132345j:plain
f:id:doiyanneko:20211105132422j:plain

白川の流れ               かにかくの碑

 

「かにかくに祇園はこひし寝るときも枕の下を水のながるる」

これは歌人・吉井 勇が詠んだ歌です。祇園町北側、新橋南の辰巳通り、白川のほとりに石に刻まれた歌碑があります。私の勤務地の横をこの白川が流れています。白川は、歌碑から100メートルほど流れると鴨川に落ち込み、そのさき淀川、そして海へと続きます。この白川にゴミを投げ込むひとがいるのです。先日、ゴミ回収の業者さんと話ししていると、「昔は生ゴミは畑に肥料として埋め、燃えるゴミはカマドや風呂の燃料(焚き付けと言った)にし、その他のゴミは川へ投げ捨てていたのです」と話ました。思えば昭和20年~30年代、街にほとんどゴミは落ちていませんでした。食料自体が不足していて生ゴミはほとんど出ず、燃えるものは貴重な燃料として拾って帰るから、道にはゴミらしいゴミは見当たりませんでした。それ以外のゴミは川へ投げ捨てたといっても、自然に分解されるものばかりで、量はわずかでした。ガラスや陶磁器は貴重で、少々欠けても使っていました。「江戸前」という言葉は、東京湾の「漁場」やそこで獲れる「魚介類」を指す言葉です。江戸時代になって江戸の人口が増えると、人間の排泄物をふくめた生活排水が海に流れ込み、その栄養で江戸前には魚介類が増えて、豊かな漁場が形成されました。循環型社会のお手本だったのでしょう。もちろん大阪湾も同じ事情で「佃煮」の語源となった摂津国の佃村や、多様な魚介類が水揚げされる明石は有名です。

ところが、昭和も高度成長期を迎え、便利な生活を作り出した反面、自然環境に多大な負荷を与えるものが登場しました。「プラスチック」です。気づかないうちに紙や木材に取って代わって、生活に浸透しました。都会のゴミ問題が浮上するのも、このころ昭和40年代からでしょう。いまも川へ不要品(ゴミ)を投げ捨てる習慣が残っているのでしょうか、不要なプラスチックを川に捨てるひとがいるのです。プラスチックは下流へ、そして海へ流れます。海に漂うプラスチックは、波や風や太陽の紫外線を受けてミリ単位の細かい粒になります。これを二次マイクロ・プラスチツクと言います。100年~200年かけないと消滅しない微細なプラスチックが海洋に漂ったり、海底に沈むと生物に与える影響は容易に想像がつくでしょう。魚の消化器だけでなく、その身や海鳥の筋肉にもマイクロ・プラスチックの蓄積が次々と報告されています。魚を食べられない日が来るかもしれません。一次マイクロ・プラスチックというのもあります。スクラブ剤と呼ばれる、洗顔料、ボディ・ソープ、歯磨きなどにその使用効果を上げるため混入されています。目に見えないほど小さなマイクロ・ビーズは使用後、下水道を下水処理場へ流れますが、うんと細かいので処理場のフィルターを通過してしまって海へ流出します。元々、自然由来であるクルミアプリコットなどを微細に砕いて混入していたのを、プラスチックに代えたのです。「コストを落として大量に売れさえすれば、あとは知らねえ」との意図が見受けられます。スクラブ剤に自然由来のものに代えて、プラスチックを入れるこの反社会行為、つまりこの鉄面皮思想が社会の基底に流れていて、自分が得る利益が社会に負荷をかけることを気にかけない風潮が、タバコの吸い殻、ペット・ボトルなどのポイ捨てにつながっています。マイクロプラスチック・ビーズはしだいに禁止へ向っていますが、当然で、混入を採用した経営者には刑事罰を加えるべきでしょう。

コンビニやスーパーのレジ袋が有料化されました。しかし、その価格は低くすぎます。回収、処分の価格が盛り込まれていません。ペット・ボトルも同様にコストを考えれば、自動販売機の飲料価格を1本500円~1000円位にする必要があります。飲んだ後ボトルを捨てても良い価格になっています。我が家には2.0Lのボトルが約10本ほどあります。中身を使った後、洗って使います。勤務先の井戸水を汲んで帰って、飲み水として使います。ときに名水と言われる神社の地下水を汲んできたりします。空のペット・ボトルは2年間ぐらいは十分使えます。酒買いは、瓶に詰めた清酒が売り出されるまでは、酒徳利をもって酒屋へ買いに行き、樽から徳利に酒を入れてもらうものでした。いま酒屋には100種類ぐらいの瓶詰め清酒が並んでいます。選択肢は拡大したのですが、飲んだ後残った瓶が環境に負荷を与えます。ガラス、陶磁器のゴミとして出さなければなりません。紙パックの清酒や焼酎が増えてきているのは、良いことです。世の中見渡せば、プラスチックであふれています。「安いから」「便利だから」はその分社会に負荷をかけています。大量生産、大量消費の時代は、「汚染」という大きな荷物を社会、自然に背負わせているのです。コンビニへタッパ・ウェアーか鍋をもって、おでんを買いに行くことを想像してください。不便です。しかし、トレイは不要になります。割り箸は森林資源の無駄遣いだとして、食堂などではプラスチック製の箸を使い始めました。あれは間違いです。割り箸は森林の「間伐材」で作ります。森林は間伐しなければ、それぞれの樹木が太陽光の奪い合いをして、結果貧弱な成木しかできません。割り箸は間伐材を使うことで、森林の生育に貢献しています。原発の電力は低価格だと永らく宣伝されてきました。しかし、福島第1原発事故を受け、安全対策費、事故処理費、さらに使用後核廃棄物の処分費がそっくり抜け落ちて、と言うよりは意図的にカウントされていなかったことがわかりました。ペット・ボトル、コンビニやスーパーの食品トレイ、レジ袋、化学繊維で作られた衣服、その他あらゆるプラスチック生活用品、すべて同じ構図→回収、処理費用が必要費用なのに抜け落ちています。自動販売機のジュース1本500円~1000円は、極端な計算ではないのです。

結局、プラスチックを製造する企業に、出荷した製品の完全回収と処理費用を負担させる方法しかありません。プラスチックの価格は上がります。社会にとってはそれが適正価格です。そうしていれば、原料として木材や紙由来の代替え品が、価格競争力をもって開発されてゆきます。地球温暖化にばかり注目が集まりますが、地球のプラスチック汚染も同じ重要な問題なのです。

 

[ 追加プログ ]

今朝(11月7日)、日本経済新聞朝刊の26面に「プラスチック、肥料原料に」という記事が載っています。3大学共同研究で、プラスチックから肥料の原料を作る試みなんだそうです。プラスチックを分解する方法、再利用する方法、更に同じような性質をもった、分解可能な代替え品をつくる研究が急がれます。それまでは、プラスチックの使用を極力減らす努力も必要です。

f:id:doiyanneko:20211105132228j:plain
f:id:doiyanneko:20211105132308j:plain



 



 

 

人口減少はそんなに悪いことですか-その2

f:id:doiyanneko:20211029073951j:plain
f:id:doiyanneko:20211029073743j:plain
f:id:doiyanneko:20211029073659j:plain

「人口減少」→「 大変だ ! 」という新聞記事を読んで、少し気になったことがあり、調べてみました。私が小学生の頃(昭和20年代)、先生から「日本の人口は1億人に近づいている。もうすぐ1億人になる」と聞かされていました。総務省の人口統計「国勢調査」によりますと、当時昭和25年の人口は8411万人余りとなっています。去年令和2年の国勢調査と比べて、少々驚きました。去年の人口1億2622万人強、なんとこの70年間で4211万人、50%もの増加です。昭和22年~24年生まれ、戦後のベビー・ブーム(団塊の世代)と呼ばれる人口爆発以後でのこの増加。イナゴやウンカではありませんが、大繁殖です。小・中学校では1学年50数人が6クラス。通勤、通学ラッシュ、電車のドアからひとがはみ出て入りきらない。駅員の朝の仕事は、ドアが閉められるまでひとを押し込むこと。デバートのバーゲン会場には買い物客が殺到し、商品の取り合い。受験地獄、中学といわず高校も試験に通るのが大変でした。ただ、大学受験では昭和30年代の進学率は高卒生の20%そこそこ。それでも狭い門を目指して、遊びたい年代に遊びを我慢して、受験勉強に励まなければなりませんでした。団塊の世代が受験をひかえて、大学の定員は大幅に増枠され、また次々に大学、短大が新設されましたが、受験は決して楽々とは言えない状態でした。つまり気がつかないうちに、ひとがどんどん増加し、大量生産、大量消費、大混雑、競争社会。これが高度経済成長と言われる日本の姿でした。気がつけば人口50%増、教育界、経済界を問わず、拡大拡大が習性となっていたのです。それが今、膨らんだ風船がしぼむように、人口減。電鉄、自動車、住宅、求人求職、あらゆる面で下降指向の風向きに慌てているのです。人口が50%も増加してきたこと自体、異常と捉えた方が良い。1票の格差なんて言って、人口が密集している選挙区では、過疎地域の選挙区と比べて票が軽いと文句を言うけれど、ならば過疎地へ引っ越しすれば良いではないですか。選挙権は、住民の意思だけでなく、その地域の意思をも代表する意味をもっています。いくらスカスカの選挙区から選ばれた議員でも、選挙人の代表であると同時に、地域の代表でもあるのです。自分の票の軽さに文句を言い、選挙区を分割せよと言う人は、高度経済成長、拡大拡大トレンドのヘキが抜けていないのです。ある極端な環境には、極端な動植物がはびこるように、この70年間の人口増は、よほど日本のなにもかもが、人間の生存に適していたとも言えるのです。イナゴやウンカ、プランクトンの大発生と同じです。ひとはイナゴやウンカにたとえられ、嫌な気分になりますが、そのひとつひとつの存在、個性が軽んじられるからにほかなりません。振り返れば、この70年間、こころのどこかにウンカと同じ没個性のヒガミがあつたのではないでしょうか。人口が減れば労働力が不足し、年金制度が成り行かなくなるというけれど、待機児童問題が解決に向かい、受験人口の減少は競争の緩和、食糧問題にもプラスです。基本的に人口増加時代とは、ひとをアタマ数として見る没個性の時代でした。このコロナ・ウイルス蔓延のなかで見えてきたのは、いまひとびとがやっている仕事の多くが、本当に必要な仕事なのかという疑問です。リモート・ワークだ何んだというけれど、なくても良い仕事を「仕事だ仕事だ」と言ってやっていたのじゃないのか。ひとが増えるとそうなります。英国の歴史学者、パーキンソンが、役所を観察して「役人の数は、仕事の量とは無関係に増え続ける」と結論づけ、「与えられた時間によって、仕事量はその時間をすべて満たすまで膨張し」「支出の額は収入額に達するまで膨張する」とするパーキンソンの法則、「役人の数は無限に増大する」を導き出しました。民間でも同じ、ひとが増えれば、必要不必要に関係なくひと数に合わせて「仕事」を増やして行く。自動車生産の工場映像、溶接ロボットが火花を散らして、ベテラン溶接工に代わって働いています。それをロボットに仕事を奪われたと文句を言うひとがいるのです。空いた時間を楽しんだり、もっと創造的な仕事に取り組めば良いのに・・・。ひとは困れば本気になって何とかします。介護で老人のベッド移動がつらくなれば、腕力アシスト・スーツを作り、アマゾン社の倉庫では、注文をうけた商品をひとが移動してカゴに入れるのではなく、カゴが移動して取ってきて、発送トラックに乗せます。人口減社会のアタマ数が減って困る仕事は、移民や外国人研修生で補うのではなく、知恵で置き換える社会の到来です。アタマ数が減って困るからと、ますます密集してはいけません。それは問題の解決を遠ざけ、新たな問題も引き起こします。タワー・マンションが林立しだすと、その地域の小学校教育体制や行政サービスが追っつかなくなり、迷惑です。拡大、拡大の時代から、拡散・ゆとりの時代へと流れは向かっているのです。

東京地下鉄の路線名を変えてチョーダイ

f:id:doiyanneko:20211021141242j:plain
f:id:doiyanneko:20211021141218j:plain

今年も柿と柚子が実をつけました。秋です。

先日、東京へ出張しました。新橋で用事をすませて、次に赤坂見附へ行こうと地下鉄神谷町駅へ入りました。さあ、どちらのホームからどちら向きの列車に乗ればいいのかわからない。Suicaを持っているので切符は買わずに入場します。駅員さんに「あのー、赤坂見附へ行きたいンですが」と問いますと「そちらのホームから乗って、霞ヶ関丸ノ内線に乗り換えてください」との答え。こんな田舎モン、別に珍しくないと見えて、涼しい顔して教えてくれました。さあ、頭の中で「丸ノ内線丸ノ内線と唱えます」。乗る方向がわかれば、霞ヶ関で降りるのはわかります。そこでどの路線に乗り換えるのか、田舎モンには難しい問題が浮上します。千代田、日比谷、丸ノ内、銀座、有楽町、田舎モンにはどれも同じ地域、同じ場所で区別がつかないのです。普段から地下鉄を常に利用されている乗客や、駅員さんの記憶の中で、路線名称はキチンと整理できているのでしょう。しかし、田舎モンにすれば、何でこんなに区別しにくい路線名をつけているんだろうと思います。馬鹿じゃないかとも思えてきます。地下鉄を掘り始めた時の方向を路線名にしたのかも知れません。「丸ノ内線!丸ノ内線!」とつぶやきながら、なんとか無事乗り換え、赤坂見附へ着きました。

東急電鉄の「東横線」や「池上線」、西武鉄道の「国分寺線」、「秩父線」の名称、東急は「渋谷」から、西武は「池袋」か「新宿」から。これはどこからどこへ向かって走っているのか大体わかります。西武鉄道池袋線新宿線のように、東京都内へ向かって終点の路線名称、これは郊外のひとからはわかりやすいかも知れませんが、川越線や飯能線(もしくは吾野線)とした方が、東京からどこへ行ってる電車かわかりやすいはずです。池袋と新宿の距離はしれています。それでこの際、提案します。「東京都市交通研究会」か「東京地下鉄路線名研究会」を立ち上げて、路線名の変更を検討されてはいかがかと思います。「丸ノ内線M」は「池袋・大手町・荻窪線」に、「有楽町線Y」は、「和光・飯田橋・新木場線」に、「日比谷線H」は「北千住-銀座-中目黒線」に、「副都心線F」は「和光・東新宿・渋谷線」に、「千代田線C」は綾瀬・大手町・代々木線」に、「半蔵門線Z」は「押上・大手町・渋谷線」に、「東西線T」は「中野・大手町・西新橋線」に、「新宿線S」は「本八幡・神保町・新宿線」に、「浅草線A」は「押上・日本橋・馬込線」に、「銀座線G」は「浅草・日本橋・渋谷線」に、「日暮里・舎人ライナーNT」はそのままか「見沼代・日暮里ライナー」に、「東京さくらトラムSA」は「早稲田・三ノ輪橋トラム」に変更検討いかがでしょう。

もうひとつ「京浜東北線」の名称。最初は私鉄が東京駅へ乗り入れてきてると勘違いしました。だから東京駅から新橋や浜松町へ行くとき、先に京浜東北線の大船行き列車が入ってきても、いつも乗らず山手線を待って乗りました。これには適当に乗って失敗した記憶がそうさせています。ある暑い夏、京都府田辺市にある一休寺の法事に参加し、京都へ帰ろうと近鉄京都線新田辺駅へ急いで歩きました。運悪く駅到着の前に列車は出たあとでした。駅到着まえに並行して走るJRの線路を渡ったのを思い出し、引き返して京都方面(と思ってた)へのホームに立ちました。JR京田辺駅はその頃、無人駅だった気がします。すぐにJRの列車が入ってきて、乗り込みヤレヤレと猛暑から逃れて安堵しました。ところが京都へ向かっているはずの列車が急に、大きな弧を描いて180°転回、逆方向へ向かいます。結局到着したのは、大阪の京橋でした。片町線が旋回して、180°逆へ走るのを知らなかった失敗です。この体験が、京浜東北線を避けていた原因になっています。浜松町へ向かったはずが、上野とかそれより北の東北方面へ向かっていたというのを恐れました。ですから、「京浜東北線」は東京駅を起点にして、「大宮線」と「大船線」に名称分割した方が良い。もちろん両線、乗り換えなしの直通は可能として。それにアタマに「JR」を付けて下さい。山手線と同じだと安心して乗れます。先ほどの地下鉄路線名も、中心駅を決めて、たとえば「丸ノ内線」は「池袋・大手町線」と「大手町・荻窪線」に分割して路線名をつけた方が良いかも知れません。交通問題に興味をお持ちの方、ご一考願います。

もうひとつ、閑話休題

先ほどみずからのことを「田舎モン」と表現しましたが、京都人のなかには「自分は田舎モンではない」と思っているひとが少なからずいます。なにしろ1100年近く「王城の地」だったのですから。なかには、明治天皇は東京へ「遷都されていない」。明治2年に「ちょっと東京まで行ってくる」と出かけられたままで、帰ってこられなかっただけだ→京都は首都のまま。東京は「田舎モン」だと。

しかし東京奠都と言って、国の統治機構、皇居など、明らかに国家権力は東京へ移ったものの、京都も首都のまま併存していると言うのですが・・・・。東京から新幹線で帰ってきて、自宅までタクシーに乗ると、街の暗さ、人車往来の少なさが目に付きます。「あ~田舎やなァ」と思います。田舎に住んでること、田舎モンなのは少しも恥ずかしいと思いません。それよりも東京一極集中、あのクレージィな活気、反面京都よりももっと田舎の過疎問題、さびれの酷さが気になります。その問題は、いずれいつかまた・・・・・。

人口減少はそんなに悪いことですか

f:id:doiyanneko:20211008205804p:plain

Wikipediaから

米国・ワシントン大の研究論文では「世界の人口は2064年の97億人をピークに減少に向かう」と予測。それ以後は予想以上の少子化が進むということで、世論は「さァ大変だ」となります。しかし、人口減少、少子化って、そんなに悪いことですか ?  私はむしろ、人口増加の方には「食糧危機」「超過密都市」「病疫の蔓延」などマイナスのイメージを強く持っています。特に発展途上国では「食糧不足」「乳幼児の飢餓、死亡」「資源や水の奪い合い、内戦」など、人口爆発によってもたらさられる悲劇があとを断ちません。人口が減少に向かって「大変だ大変だ」と困るのは誰か ? まず労働集約産業の経営者。次に役人と政治家。そして大量消費を経営の前提としている産業従事者( 広告、報道、出版なども含めて )。これら困る人々に共通する最大公約数は、人間を牛や羊など家畜並みに捕らえている点です。個々の個性や特殊性は関係ない。とにかくアタマ数が問題なのです。労働集約産業とは、人海戦術、多くの人間を奴隷、家畜のように使って、何かを作り出したり、売ったりする。個々の労働者の技能・知能は問わない。とにかく人手、アタマ数だから足りなければ、外国人労働者、移民で代替えを図る。単純労働を研修実習生などと偽って働かせるセコい方法を採る。インチキそのものです。

私は若い頃、石油ショックを経験しています。あの時得た教訓は2つ。「日本産業界のモーレツな省エネ努力」に驚きました。各企業が秘めていたポテンシャルの凄さに目を見はりました。1970年頃、「このまま石油消費が増え続ければ、10km間隔で中東から日本まで原油タンカーを連ねなければならない」と聞かされていました。中東戦争をきっかけに、1973年産油国は石油価格を70%値上げし、潤沢な石油輸入は不可能になりました。背に腹は代えられない。腹を背に代えられない。産業界はこぞって省エネルギーに取り組み、10年間ほどで以前使用していた石油の3割減、4割減で生産、生活が可能になりました。ガソリン1リッターで5kmしか走れなかった自動車を、1リッターで10kmも走れるように作りかえました。もうひとつは、あの時堺屋太一氏が話した言葉「どれだけ採掘しても、石油は枯渇しない」でした。石油は採掘しすぎて埋蔵量が減ってくると、採掘生産量は減ります。少ない石油の価格は上がります。すると上昇した価格の石油を買えるひと(会社)は減ります。つまり供給がどんどん減ると、需要(使用量)もどんどん減って、枯渇するまで採掘しつづけられなくなるとの論法でした。

あのとき学んだ教訓で考えれば、人口爆発→食糧不足→飢餓→栄養失調→大量死の図式は大量飢餓死→産児制限→人口と食糧が均衡する の法則が当てはまるかも知れません。もちろん大量飢餓死という悲劇がまっていますが、子供を産んでも食糧がなければ生きられないとなっては、産児制限の力が働くことは確かです。人口減少は怖くない。人口爆発が怖いと考えるのは、大量飢餓死という悲劇に突入するのが怖いのです。30万年の人類史のなかで、一貫して微増してきた人口ですが、英国の人口は産業革命以後100年で4倍に爆発増加したという数字があります。産業革命で移動、運搬、生産など人間の労働量が減った分、不必要になった人口は減ったのではなく、増えました。食糧が増え、楽ができてひとは増えました。この増加トレンドは人類にとって危惧材料です。しかし先進国においては、高学歴化、女性の社会進出などの要因で、出生率が下がり21世紀中に多くの国で人口が減るらしいのです。労働量は減って、人口も減る。喜ばしいことではないですか。発展途上国ではまだまだ人口が増え、食糧や豊かさを求めて国境を越える移民問題が大きな問題になってきました。先進国は移民を「ひとのやりたがらない労働」に置き換えようとはせず、発展途上国の人口増加を抑制する手立てを考える時期にきています。食い過ぎによって脂肪、血糖値、体重が増え、用もないのに血相変えてランニングして、体重を減らそうとしている人々を見ていると、先進国ではまだまだ食料、労働力(人口)が余っているのだと感じています。

A malnourished child in an MSF treatment tent in Dolo Ado.jpg

 

f:id:doiyanneko:20211008210048p:plain

Wikipediaから

 

YS-11の思い出 (MSJはどうなるのでしょう)

 

f:id:doiyanneko:20210816195633j:plain
f:id:doiyanneko:20210816195248j:plain
YS-11

2000年から2005年にかけてNHKで放送された「プロジェクトX-挑戦者たち」は無名の日本人を主人公にした、かずかずの挑戦の物語です。先日再放送された「翼はよみがえった」国産旅客機YS-11開発の物語を見て、大いに感ずる所がありました。戦後GHQによって航空機開発は禁止されました。禁止が解けて、失業状態にあつた戦前からの古参技術者たちと、航空機製作初体験の若手技術者たちの無謀とも思える挑戦が番組で描かれていました。設計開始から5年余りに及ぶ苦闘の末、YS-11は完成し初飛行を成功させます。それから米国のFAAの型式証明に合格し、180機が世界の空を飛ぶことになります。私がはじめて乗った飛行機はDC-8という大型ジェット機です。天井の低い教室に人間が前を向いてギッシリと並べられて、教室そのものが前へ突進、ぐらッと浮き上がる感じでした。航空機にはそんな感覚をもっていましたが、あるとき香川県高松市へ出張することになりました。大阪空港、搭乗ゲートから空港の路面へ降りて、バスに乗ることを知って「えッ」と少し驚きました。バスは遠くに駐機している飛行機に向かって走り出し、着いて降りると筒型の小さな飛行機がありました。それがYS-11でした。大型ジェット機を見慣れていたのでそのコンパクトな機体はたまらなくユニークでした。タラップを登ってゆくとすぐ近くの窓越しに操縦士がふたり見えました。そうかプロペラ機なんだと思い、「ヒコーキに乗るゾ」とジェット機では味わえない実感が湧いてきたのを憶えています。乗客約60名、満席の乗客ひとりひとりになぜか仲間意識がわいてきてきます。自動車が道路を走るように走り出し、ふわッと浮くと左右に少し揺れて、前方が極端に上向くこともなく、上がって行きます。鳥です。鳥になった感覚でした。時々気流の加減か、浮き沈みもありますがそれがまた、大型ジェット機にはない鳥感覚を感じさせてくれます。空気に乗っている感じです。着陸はもともとスピードがそれほどないので、ソフト・ランディングで止まりました。ジェット機のように逆噴射して、必死でブレーキをかけている感じはありません。「これは楽しい !! 」。YS-11機に魅了されてしまいました。高松での用事を済ませ帰途は夕方になり、運良く窓側に席が取れて見下ろしていると、大阪の夜の光景が見えてきます。いろんな色彩の光、道路を走るクルマ。連なって走る電車。ジェット機では景色がどんどん後ろへ飛んで行く感じですが、プロペラ機は違います。眼下に広がる街の夜景の上をフワリフワリと飛んで、夢心地で眺めていました。その後、何度か地方都市へ出かける機会がありましたが、搭乗する飛行機は、可能な限りYS-11を選んで楽しみました。

YS-11は7カ国15社に輸出され世界の空を飛んでいましたが、日本国内では2006年に改正された航空法により、空中衝突防止装置が義務づけされました。YS-11は経費で対応できず、定期路線から撤退しました。その後日本では飛べなくなっても、外国では飛んでいましたけれど、補給部品の供給体制が整わず、生産中止に追い込まれたとされています。

f:id:doiyanneko:20210816195322p:plain
f:id:doiyanneko:20210816195105j:plain
MSJ(MRJ)

三菱重工業社は三菱航空機を設立し、2008年国産初のジェット旅客機の開発を発表、三菱リージョナル・ジェットMRJ ( 後に三菱スペース・ジェットMSJに改名 )の 、初飛行を2015年に成功させました。名古屋空港から飛び立ち、伊勢湾を回って同空港に着陸したニュース映像を見て、航空ファンのみならず、みんな興奮したものです。ただ、その後に伝わるニュースは各航空会社との大量受注契約に対して、開発の不具合と納期の度重なる延期、契約キャンセルばかりです。そしてついに2020年、三菱重工業は開発の凍結を発表しました。私は航空工学の専門知識をもっているわけではありません。三菱重工業社の内情を知る立場にもありません。しかし、YS-11とMSJ開発に携わったひとびとの明確な違いをイメージとして抱いています。それは昭和30年代と平成になってからの日本 (人) の違いです。新幹線を走らせる、高速道路をつくる、世界に負けない自動車産業をつくる。徹夜なんて当たり前、がむしゃらに研究やもの作りに取り組んでいました。平成に入ったころから、労働は悪、週休2日制、祭日増加の大判振る舞い。若者は「イイ大学に入って、イイ企業に就職する」意識。令和が近づくと、「しんどい仕事は誰かにやってもらって、デスク・ワークに就き、余暇を楽しむ」となってきました。各製造業で、製品検査が形骸化し、資格を持たないひとの検査や、きびしいマニュアルを無視した製品の納入が常態化しています。現場の労働を軽視するあまり、管理や事務に携わるひとばかり増えているのが原因でしょう。現場の人手不足、事務職への就職殺到。しかも現場の労働者にも休暇を与え、長時間労働を忌避させようとするから、現場が回らない。MSJを見ていると、ジェット機の型式証明に合格していない時点で、売り込みや契約ばかりに励んで、延期とキャンセルが相次いでいます。ホワイト・カラーとナッパ服を着る現場とのバランスが狂っているとしか考えられない。製造業に製品出荷検査のマニュアルを作るひとは大勢いて、ますます厳しくする。製品を作るひとは常に不足していて長時間労働をとがめられる。「製品検査、そんなことやってられるか ! 」との声が聞こえてきます。家電製品や家具の失敗作は「故障→交換」で済みますが、運輸製品の自動車、電車、航空機はそうは行かない。しんどい仕事を外国人労働者や外国人研修生にやらせていては、製造業はもたないのではないですか。現場や職人を軽視する国には、衰退しかないような気がします。プロジェクトXの再放送を見ていて、あのころ日本人はもの作りに必死になって、楽しく生きていたのを懐かしく思い返しました。

 

♪ 行く先を照らすのは まだ咲かぬ見果てぬ夢

遙か後ろを照らすのは あどけない夢 ヘッドライト・テールライト

旅はまだ終わらない ♪ 

(中島みゆき作詞 ヘッドライト・テールライト から)

 

このブログにWikipediaから、YS-11とMSJの写真を転用しました。この行為は、この写真を撮影したひと、もしくは著作権を所有しているひとの了解を得る必要や対価を支払う必要があるのでしょうか ? ご存じの方は教えて下さい。

E-Mail   :   ‘neco-a-doy_19.03.08_-neco@docomo.ne.jp

終戦記念日を前にして

f:id:doiyanneko:20210811110133j:plain
f:id:doiyanneko:20210811110012j:plain
2021年 夏

今年も暑い夏です。76年目の、広島と長崎の原爆死没者慰霊平和記念式典が終わりました。もうすぐ終戦記念日です。かねがね、戦争における非戦闘員、民間人の死傷者が増えたのは、20世紀になってから、もしくは第一次世界大戦からではないのかと疑問を持っていましたので、調べてみました。もちろん正確な犠牲者数を確認できた調査などあるはずもないのですが。心理学者スティーブン・ピンカーが「暴力の人類史」上巻で、歴史家マシュー・ホワイトの「殺戮の世界史(2010年)」から導いた「歴史上の主な戦争や人災による死者数」を、20世紀中頃の人口に換算して表にした資料を見つけました。(死者数には兵士も民間人もふくまれています)。死者の実数ではもちろん第二次世界大戦が最多です(5500万人)。驚いたのは、13世紀モンゴル帝国の征服が2位4000万人(20世紀中頃人口に換算すると2億7800万人)、3位は8世紀安史の乱3600万人(同4億2900万人)となっています。歴代中国王朝は紀元前より北方騎馬民族の侵入、略奪に頭を悩まし、万里の長城を築いてなんとか対峙してきましたが、モンゴル(元)は金朝を滅ぼすと、いっきにユーラシア大陸に帝国を展開します。チンギスハンの言葉に「男たる者の最大の快楽は敵を撃滅し、これをまっしぐらに駆逐し、その所有する財物を奪い、その親しい人々が嘆き悲しむのを眺め、その馬に跨り、その敵の妻と娘を犯すことにある」と語っています(A・ドーソンモンゴル帝国史』)。帝国としての広大な領土拡張は400年間におよび、先住民族に対し殺害、略奪を続けた結果、4000万人の屍を積み重ねたものでしょう。騎馬民族にとつては「応えられない味」なんだと梅棹忠夫氏は説明しておられました。8年にわたる安史の乱では唐帝国とその近隣で人口の3分の1が死亡したことになります。兵と民間人の区別がどうだったのかイメージが湧きません。大変な事態だったのは確かです。7世紀から19世紀にいたる中東奴隷貿易と大西洋奴隷貿易では4000万人(同2億1500万人)の奴隷が犠牲になり、アメリカ建国時にアメリカ・インディアンは2000万人(同9200万人)が殺されました。こうした征服者と被征服者を分ける要素は、武器の優位性にあります。槍、弓矢、太刀にはじまって、投石機、やがて手榴弾、銃、火筒と発展します。相手より武器で優位に立つことが、征服の条件になりました。軍艦、戦闘機、空母となって、「もうイイ加減にしろヤ」と言いたくなると、ミサイル、生物兵器化学兵器核兵器が登場します。昭和20年春には日本軍はすでに死に体でした。降伏の手はずを探していました。連合国もそれを知っていました。降伏は時間の問題でした。英国首相チャーチルと米国大統領ルーズベルト原子爆弾の開発を急いでいました。確かに開発初期の目的は、日本より圧倒的優位に立てる武器を持つことでしたでしょう。開発が完成しニューメキシコ州の砂漠で実験されたのは、同年7月16日、つまり終戦のひと月前です。フランクリン・ルーズベルトは4月に病死しており、あとトルーマンが大統領に就任していました。日本主要都市への焼夷弾爆撃は激しさを増しており、春に連合国軍は沖縄に上陸、7月はじめには全島を制圧しました。死亡188000人の内、民間人50%の94000人。(県民の4人に1人)。原爆の投下計画では、当初京都市が目標になっていたようです。空爆をほとんど受けていないこと、三方を山に囲まれていることは、お椀のなかで爆発させるようなもので、効果(被害)が最大限に引き出せるという理由だと聞いています。同年8月に1歳5ヶ月だった私は、頭上で炸裂した原爆で、もうこの世にいなかったかも知れません。広島、長崎へ投下されることになって、今も生きている私は、両市の被害者の方々に済まないような、後ろめたい気持ちがあります。それにしても、もうグロッキー状態の日本にどうして原爆を落としたのか。砂漠の実験で、威力はわかっていたはず。生身の民間人が生活する都市に落とせば、どんな被害が出るかわかっていて実行。「原爆を使わなければ、米兵の犠牲はもっと大きくなっていた」と言うのが彼らの言い訳です。これは嘘です。日本軍はすでに反撃能力をなくしていました。日本本土に上陸せずに見守っているだけで、白旗を揚げたはずです。原爆を作り上げた以上、実際に使って見て、結果を確認したかったのです。広島の原爆はウラニウム型の原爆。長崎へ落としたのは、プルトニウム型原爆。違う型の原爆を両方試して見たかったのです。一度ならず二度も落としたのはその意味です。赤ん坊から老人まで、非戦闘員、民間人が生活している頭の上へ。ここに先住民アメリカ・インデアンを殺害駆逐し、奴隷という労働力を使って国家を建設したアメリカ人の非人道性が見てとれます。多くのアメリカ市民が非人道的なのではありません。相手より優越した武器を持つと、それを使いたくなる奴がいるのです。それが戦争を起こさせます。マニラ市街戦を戦った兵士は、インタビューで言ってました。「戦争をやめさせるには、戦争をおッ始めた奴を前線に立たせることだ。タマの飛んでこない場所にいて命令を出していては、戦争の残酷さがわからない」と。「俺は必ず帰ってくる I  shall return」はマッカーサーが日本軍に追い詰められてフィリピンから脱出するときに悔しさを吐露した捨てゼリフです。マニラ市街戦マッカーサーの雪辱を込めた意地の産物でした。マニラを占領していた日本兵を全員駆逐するには、大量の民間人犠牲が出るのは分かっていました。フィリピン人死者10万人、日本人兵士全員死者1万2千人。米兵死者千人余りの犠牲を払ってマニラを取り戻しました。「 I  shall return」の実現に前線から遠く離れて命令を出していたのはマッカーサーです。ベトナム戦争も同様の構図でした。ソビエト連邦は70年近くにわたる共産主義社会の壮大な実験でした。スターリンの粛正による死者は2000万人に及ぶとされ、太平洋戦争でソ連は日本敗戦1週間前に参戦して、樺太、北方4島、満州にいた日本人を悲惨な目に遭わせました。

古代ローマで行われた競技パンクラチオンは、ほぼ片方が死亡するまでやるというものでした。兵士と兵士の戦いはこれと同じで、ある程度意味が理解できます。日本の戦国時代のイクサは、武士や足軽同士が斬り合い、それを農民達が離れた丘の上でクワをかついで見物しているイメージです。一方が圧倒的に強固な武器をもって相手を倒すのは、イクサと言うよりも侵略、殺戮のイメージです。更に兵士が武器を持って非戦闘員に襲いかかる必要や意味は絶対にないはずです。原爆慰霊記念日を終え、終戦記念日が近いいま、戦争における非戦闘員の犠牲をつくづく考える暑い夏です。プログは何気ない生活の側面を、茶飲み話しのように書き、ハーブの香りを楽しむように読むものなのですが、「非戦闘員の犠牲」を考えるあまり、過激なブログになってしまいました。現在も、世界各地で非戦闘員の殺戮と大量の難民が途切れることなく発生しています。