能登半島地震・遠国遠望症候群

ネットで捜しましたが、能登半島地震の無料画像がなく、蘭の画像でゴメン

「遠国遠望症候群がニッポンを滅ぼす」

元旦の午後に発生した能登半島地震から、半月近くが経ちました。

倒壊した家屋の下から、120時間を経過して救助され、命をつないだひともおられましたが、今は(1月13日現在)もうほぼ、生存救出は無理なようです。正月元旦の午後、大きな地震に襲われ、家屋が倒壊。何とか這い出したものの、一緒にいた家族は倒壊したガレキの下。人力ではとてもガレキは取り除けない。まわりの家屋も同じ状況。どうしよう。はて、困った。道路は寸断されているようだ。救援は来るのか来ないのか。これが能登半島の先端に近い集落の状況でしょう。

私は年に数回、東京へ出かけます。その時いつも、東京という街の変容、民間企業の力量に圧倒されます。〇〇ヒルズなんて巨大なオフィス・ビルがどんどん建設されているのを見るにつけ、地方との決定的な格差を感じます。あのビルの林立と、同じ時代、地震被災者に毛布や食糧が届かない現実。寒さの中で感染症を恐れながら、排泄もままならず身を寄せ合っている被災地のひとびと。巨大都市パワーと過疎地域のこの格差は何なんでしょう。もしかして東京のエネルギーの数%を、被災地へ振り向けるだけで、すべてが解決できるような気がしてきます。しかし、現実の政治は、そうは動きません。自衛隊災害派遣、インフラの復旧、必要物資の輸送。これらは道路の寸断、港湾の損傷などを理由に、ノロい(遅い)のです。私はこれを「遠国遠望症候群」と名付けました。どこか遠い国の出来事を、ひとごととして遠く眺めている状態です。

理由は、「現場」と「司令部もしくは管理部」との乖離にあります。このところ私がこのブログで繰り返し述べてきたことです。今回の地震支援にたいしても ( またか ) と感じます。日本人の多くが、受験(お勉強)→名門大学へ→オフィス・ワークへの就職を、人生の目標としてきたことから、「現場」が遠いのです。同じ企業であっても、「現場」はどこか遠い国のことだと感じているのではないでしょうか。企業は「現場」で動くもの。「司令部や管理部」で動くと考えるのは、本末転倒です。お勉強成績優秀なエリートが中心になって行った太平洋戦争は、失敗の見本例でした。戦いに窮した現場から「食糧が足りない」と打電しても、大本営は「現地調達せよ」。「武器・弾薬・兵員が足りない」には「神軍が一丸となって突撃すれば、勝てる」と応じて、現場の窮状を理解しないのです。インパール作戦で「食糧が足りない」と打電しても、ジャングルや3千メートルの高地にいる兵士に「食糧は現地調達すべし」とは、現場を知らない指令部の「遠国遠望症候群」です。これら司令部の幹部は、海軍兵学校陸軍士官学校を成績優秀で卒業したエリートばかりでした。お勉強が国や組織を動かすリーダーを作るという、間違った考え方の典型でした。しかし、なかには海軍兵学校出身ながら、現場の重要性を知っていた人物もいました。現場の大切さを知っていた山本五十六は、南方戦地現場で指揮を執りつづけ、兵隊と一緒になって戦果を上げました。不幸にもラバウル基地からブーゲンビル島へ向かう時、その情報の暗号文を敵に解読され、搭乗機が狙い撃ちされて墜落死を遂げます。その葬儀が国葬で営まれたことは、彼の行動への高い評価に他なりません。

能登半島地震に関するネット上では、現地視察に入ったひとりの国会議員に対して、他の議員から「迷惑だ」「なにやってんの」と誹謗中傷が飛び交っています。東日本大震災の折、現地入りした当時の菅直人首相に対しても、同じ批判がありました。私の意見は違います。2021年3月13日付けの、私のブログ「菅直人議員の再評価」を読んでみて下さい。湾岸戦争の時、日本人の人質救出に向け、イラクへ交渉に行ったアントニオ猪木参議院議員は、「国会議員は手を挙げて採決に加わるだけじゃないでしょう。国会議員はそういうものだと思っていて行った」と言います。今回、現地入りする勇気もない議員が、交通渋滞などを理由に批判しますが、ヒガミ・ネタミとしか思えません。かって田中角栄という政治家は、自分が生まれ育った新潟という地方が、冬には半年間雪に閉じ込められ、晴れる日がひと月に3日ほどしかない現実に抗い、山を切り開き太平洋側へ道路や鉄道を通しました。この願望は、かって裏日本と呼ばれた日本海側で育ったひとにしか分かりません。そこへ彼が投入しようとしたエネルギーは、半端なものではありません。圧倒的な物量です。今の政治家とは、ケタが違うのです。犯罪は悪いことに違いありませんが、田中角栄ロッキード事件に比べて、パーティー券収入のチョロまかし、野党でも架空秘書へのニセ給与支払いなど、数千万円程度の政治資金規正法違反を見ていると、何と国会議員のスケールが小さくなったモンだと感じます。このスケールの小ささが、救援規模のミミッチさや時間的な小出し、ノロさにつながっているものと感じています。国会議員には年収5千万円ぐらいの収入を保証し(全額生活費に充当できる収入)、引退後は潤沢な年金があってしかるべきです。選挙時のサービス合戦を防ぐために、国費から給与が支給される政策秘書は4人までに制限しましょう。私設秘書を認めてはいけません。選挙はあくまで政策力で争うべきです。そうでなくては2世3世議員か資産家しかできない職業になってしまいます。卑しい根性の議員を排除する方策は、国や自治体の品性を保つために、常に考えていなければなりません。パーティ券収入をチョロまかすような、ミミッちい議員を排除し、正々堂々と持論を展開できる、まともな議員で構成する議会を作ること。今、時流に乗って勢力を拡大しているある政党は「議員報酬を削減し」それを「自ら身を切る改革」と人気取りを狙い、声高に言います。そんなに「自ら身を切る」ことが快感なマゾヒズム的好みのムキは、カミソリで自らの手首を切ってはどうですか。「議員報酬」が、民主主義のコストだと考えれば、今より増やしても、それぐらいの金額は安いものです。それは国の当然の必要経費ですから。

災害が起こると、総理大臣以下閣僚はナッパ服(作業服)を着て、テレビの前に現れます。あれは茶番劇です。東京の官邸にいて、作業服を着て会議をやっている。作業服は作業をするとき着るものです。スーツを着て会議をすればいいじゃないですか。むしろいつものスーツ姿で現地入りし、少しガレキ処理も手伝い、スーツが汚れ、破れて、その汚れたスーツ姿で対面すれば、被災者はその心意気を感じるかも知れません。東京でナッパ服着て会議やっているのを見ると、あれはみんなで冗談をやってるんだと思ってしまうのです。