YS-11の思い出 (MSJはどうなるのでしょう)

 

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YS-11

2000年から2005年にかけてNHKで放送された「プロジェクトX-挑戦者たち」は無名の日本人を主人公にした、かずかずの挑戦の物語です。先日再放送された「翼はよみがえった」国産旅客機YS-11開発の物語を見て、大いに感ずる所がありました。戦後GHQによって航空機開発は禁止されました。禁止が解けて、失業状態にあつた戦前からの古参技術者たちと、航空機製作初体験の若手技術者たちの無謀とも思える挑戦が番組で描かれていました。設計開始から5年余りに及ぶ苦闘の末、YS-11は完成し初飛行を成功させます。それから米国のFAAの型式証明に合格し、180機が世界の空を飛ぶことになります。私がはじめて乗った飛行機はDC-8という大型ジェット機です。天井の低い教室に人間が前を向いてギッシリと並べられて、教室そのものが前へ突進、ぐらッと浮き上がる感じでした。航空機にはそんな感覚をもっていましたが、あるとき香川県高松市へ出張することになりました。大阪空港、搭乗ゲートから空港の路面へ降りて、バスに乗ることを知って「えッ」と少し驚きました。バスは遠くに駐機している飛行機に向かって走り出し、着いて降りると筒型の小さな飛行機がありました。それがYS-11でした。大型ジェット機を見慣れていたのでそのコンパクトな機体はたまらなくユニークでした。タラップを登ってゆくとすぐ近くの窓越しに操縦士がふたり見えました。そうかプロペラ機なんだと思い、「ヒコーキに乗るゾ」とジェット機では味わえない実感が湧いてきたのを憶えています。乗客約60名、満席の乗客ひとりひとりになぜか仲間意識がわいてきてきます。自動車が道路を走るように走り出し、ふわッと浮くと左右に少し揺れて、前方が極端に上向くこともなく、上がって行きます。鳥です。鳥になった感覚でした。時々気流の加減か、浮き沈みもありますがそれがまた、大型ジェット機にはない鳥感覚を感じさせてくれます。空気に乗っている感じです。着陸はもともとスピードがそれほどないので、ソフト・ランディングで止まりました。ジェット機のように逆噴射して、必死でブレーキをかけている感じはありません。「これは楽しい !! 」。YS-11機に魅了されてしまいました。高松での用事を済ませ帰途は夕方になり、運良く窓側に席が取れて見下ろしていると、大阪の夜の光景が見えてきます。いろんな色彩の光、道路を走るクルマ。連なって走る電車。ジェット機では景色がどんどん後ろへ飛んで行く感じですが、プロペラ機は違います。眼下に広がる街の夜景の上をフワリフワリと飛んで、夢心地で眺めていました。その後、何度か地方都市へ出かける機会がありましたが、搭乗する飛行機は、可能な限りYS-11を選んで楽しみました。

YS-11は7カ国15社に輸出され世界の空を飛んでいましたが、日本国内では2006年に改正された航空法により、空中衝突防止装置が義務づけされました。YS-11は経費で対応できず、定期路線から撤退しました。その後日本では飛べなくなっても、外国では飛んでいましたけれど、補給部品の供給体制が整わず、生産中止に追い込まれたとされています。

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MSJ(MRJ)

三菱重工業社は三菱航空機を設立し、2008年国産初のジェット旅客機の開発を発表、三菱リージョナル・ジェットMRJ ( 後に三菱スペース・ジェットMSJに改名 )の 、初飛行を2015年に成功させました。名古屋空港から飛び立ち、伊勢湾を回って同空港に着陸したニュース映像を見て、航空ファンのみならず、みんな興奮したものです。ただ、その後に伝わるニュースは各航空会社との大量受注契約に対して、開発の不具合と納期の度重なる延期、契約キャンセルばかりです。そしてついに2020年、三菱重工業は開発の凍結を発表しました。私は航空工学の専門知識をもっているわけではありません。三菱重工業社の内情を知る立場にもありません。しかし、YS-11とMSJ開発に携わったひとびとの明確な違いをイメージとして抱いています。それは昭和30年代と平成になってからの日本 (人) の違いです。新幹線を走らせる、高速道路をつくる、世界に負けない自動車産業をつくる。徹夜なんて当たり前、がむしゃらに研究やもの作りに取り組んでいました。平成に入ったころから、労働は悪、週休2日制、祭日増加の大判振る舞い。若者は「イイ大学に入って、イイ企業に就職する」意識。令和が近づくと、「しんどい仕事は誰かにやってもらって、デスク・ワークに就き、余暇を楽しむ」となってきました。各製造業で、製品検査が形骸化し、資格を持たないひとの検査や、きびしいマニュアルを無視した製品の納入が常態化しています。現場の労働を軽視するあまり、管理や事務に携わるひとばかり増えているのが原因でしょう。現場の人手不足、事務職への就職殺到。しかも現場の労働者にも休暇を与え、長時間労働を忌避させようとするから、現場が回らない。MSJを見ていると、ジェット機の型式証明に合格していない時点で、売り込みや契約ばかりに励んで、延期とキャンセルが相次いでいます。ホワイト・カラーとナッパ服を着る現場とのバランスが狂っているとしか考えられない。製造業に製品出荷検査のマニュアルを作るひとは大勢いて、ますます厳しくする。製品を作るひとは常に不足していて長時間労働をとがめられる。「製品検査、そんなことやってられるか ! 」との声が聞こえてきます。家電製品や家具の失敗作は「故障→交換」で済みますが、運輸製品の自動車、電車、航空機はそうは行かない。しんどい仕事を外国人労働者や外国人研修生にやらせていては、製造業はもたないのではないですか。現場や職人を軽視する国には、衰退しかないような気がします。プロジェクトXの再放送を見ていて、あのころ日本人はもの作りに必死になって、楽しく生きていたのを懐かしく思い返しました。

 

♪ 行く先を照らすのは まだ咲かぬ見果てぬ夢

遙か後ろを照らすのは あどけない夢 ヘッドライト・テールライト

旅はまだ終わらない ♪ 

(中島みゆき作詞 ヘッドライト・テールライト から)

 

このブログにWikipediaから、YS-11とMSJの写真を転用しました。この行為は、この写真を撮影したひと、もしくは著作権を所有しているひとの了解を得る必要や対価を支払う必要があるのでしょうか ? ご存じの方は教えて下さい。

E-Mail   :   ‘neco-a-doy_19.03.08_-neco@docomo.ne.jp

終戦記念日を前にして

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2021年 夏

今年も暑い夏です。76年目の、広島と長崎の原爆死没者慰霊平和記念式典が終わりました。もうすぐ終戦記念日です。かねがね、戦争における非戦闘員、民間人の死傷者が増えたのは、20世紀になってから、もしくは第一次世界大戦からではないのかと疑問を持っていましたので、調べてみました。もちろん正確な犠牲者数を確認できた調査などあるはずもないのですが。心理学者スティーブン・ピンカーが「暴力の人類史」上巻で、歴史家マシュー・ホワイトの「殺戮の世界史(2010年)」から導いた「歴史上の主な戦争や人災による死者数」を、20世紀中頃の人口に換算して表にした資料を見つけました。(死者数には兵士も民間人もふくまれています)。死者の実数ではもちろん第二次世界大戦が最多です(5500万人)。驚いたのは、13世紀モンゴル帝国の征服が2位4000万人(20世紀中頃人口に換算すると2億7800万人)、3位は8世紀安史の乱3600万人(同4億2900万人)となっています。歴代中国王朝は紀元前より北方騎馬民族の侵入、略奪に頭を悩まし、万里の長城を築いてなんとか対峙してきましたが、モンゴル(元)は金朝を滅ぼすと、いっきにユーラシア大陸に帝国を展開します。チンギスハンの言葉に「男たる者の最大の快楽は敵を撃滅し、これをまっしぐらに駆逐し、その所有する財物を奪い、その親しい人々が嘆き悲しむのを眺め、その馬に跨り、その敵の妻と娘を犯すことにある」と語っています(A・ドーソンモンゴル帝国史』)。帝国としての広大な領土拡張は400年間におよび、先住民族に対し殺害、略奪を続けた結果、4000万人の屍を積み重ねたものでしょう。騎馬民族にとつては「応えられない味」なんだと梅棹忠夫氏は説明しておられました。8年にわたる安史の乱では唐帝国とその近隣で人口の3分の1が死亡したことになります。兵と民間人の区別がどうだったのかイメージが湧きません。大変な事態だったのは確かです。7世紀から19世紀にいたる中東奴隷貿易と大西洋奴隷貿易では4000万人(同2億1500万人)の奴隷が犠牲になり、アメリカ建国時にアメリカ・インディアンは2000万人(同9200万人)が殺されました。こうした征服者と被征服者を分ける要素は、武器の優位性にあります。槍、弓矢、太刀にはじまって、投石機、やがて手榴弾、銃、火筒と発展します。相手より武器で優位に立つことが、征服の条件になりました。軍艦、戦闘機、空母となって、「もうイイ加減にしろヤ」と言いたくなると、ミサイル、生物兵器化学兵器核兵器が登場します。昭和20年春には日本軍はすでに死に体でした。降伏の手はずを探していました。連合国もそれを知っていました。降伏は時間の問題でした。英国首相チャーチルと米国大統領ルーズベルト原子爆弾の開発を急いでいました。確かに開発初期の目的は、日本より圧倒的優位に立てる武器を持つことでしたでしょう。開発が完成しニューメキシコ州の砂漠で実験されたのは、同年7月16日、つまり終戦のひと月前です。フランクリン・ルーズベルトは4月に病死しており、あとトルーマンが大統領に就任していました。日本主要都市への焼夷弾爆撃は激しさを増しており、春に連合国軍は沖縄に上陸、7月はじめには全島を制圧しました。死亡188000人の内、民間人50%の94000人。(県民の4人に1人)。原爆の投下計画では、当初京都市が目標になっていたようです。空爆をほとんど受けていないこと、三方を山に囲まれていることは、お椀のなかで爆発させるようなもので、効果(被害)が最大限に引き出せるという理由だと聞いています。同年8月に1歳5ヶ月だった私は、頭上で炸裂した原爆で、もうこの世にいなかったかも知れません。広島、長崎へ投下されることになって、今も生きている私は、両市の被害者の方々に済まないような、後ろめたい気持ちがあります。それにしても、もうグロッキー状態の日本にどうして原爆を落としたのか。砂漠の実験で、威力はわかっていたはず。生身の民間人が生活する都市に落とせば、どんな被害が出るかわかっていて実行。「原爆を使わなければ、米兵の犠牲はもっと大きくなっていた」と言うのが彼らの言い訳です。これは嘘です。日本軍はすでに反撃能力をなくしていました。日本本土に上陸せずに見守っているだけで、白旗を揚げたはずです。原爆を作り上げた以上、実際に使って見て、結果を確認したかったのです。広島の原爆はウラニウム型の原爆。長崎へ落としたのは、プルトニウム型原爆。違う型の原爆を両方試して見たかったのです。一度ならず二度も落としたのはその意味です。赤ん坊から老人まで、非戦闘員、民間人が生活している頭の上へ。ここに先住民アメリカ・インデアンを殺害駆逐し、奴隷という労働力を使って国家を建設したアメリカ人の非人道性が見てとれます。多くのアメリカ市民が非人道的なのではありません。相手より優越した武器を持つと、それを使いたくなる奴がいるのです。それが戦争を起こさせます。マニラ市街戦を戦った兵士は、インタビューで言ってました。「戦争をやめさせるには、戦争をおッ始めた奴を前線に立たせることだ。タマの飛んでこない場所にいて命令を出していては、戦争の残酷さがわからない」と。「俺は必ず帰ってくる I  shall return」はマッカーサーが日本軍に追い詰められてフィリピンから脱出するときに悔しさを吐露した捨てゼリフです。マニラ市街戦マッカーサーの雪辱を込めた意地の産物でした。マニラを占領していた日本兵を全員駆逐するには、大量の民間人犠牲が出るのは分かっていました。フィリピン人死者10万人、日本人兵士全員死者1万2千人。米兵死者千人余りの犠牲を払ってマニラを取り戻しました。「 I  shall return」の実現に前線から遠く離れて命令を出していたのはマッカーサーです。ベトナム戦争も同様の構図でした。ソビエト連邦は70年近くにわたる共産主義社会の壮大な実験でした。スターリンの粛正による死者は2000万人に及ぶとされ、太平洋戦争でソ連は日本敗戦1週間前に参戦して、樺太、北方4島、満州にいた日本人を悲惨な目に遭わせました。

古代ローマで行われた競技パンクラチオンは、ほぼ片方が死亡するまでやるというものでした。兵士と兵士の戦いはこれと同じで、ある程度意味が理解できます。日本の戦国時代のイクサは、武士や足軽同士が斬り合い、それを農民達が離れた丘の上でクワをかついで見物しているイメージです。一方が圧倒的に強固な武器をもって相手を倒すのは、イクサと言うよりも侵略、殺戮のイメージです。更に兵士が武器を持って非戦闘員に襲いかかる必要や意味は絶対にないはずです。原爆慰霊記念日を終え、終戦記念日が近いいま、戦争における非戦闘員の犠牲をつくづく考える暑い夏です。プログは何気ない生活の側面を、茶飲み話しのように書き、ハーブの香りを楽しむように読むものなのですが、「非戦闘員の犠牲」を考えるあまり、過激なブログになってしまいました。現在も、世界各地で非戦闘員の殺戮と大量の難民が途切れることなく発生しています。

夭逝-その4 「3人の音楽家」

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♪ 春高楼の花の宴 めぐる盃影さして ♪ 「荒城の月」という日本人の琴線にふれる歌、悲哀、詩情に満ちた曲を調べていて、作曲者、瀧廉太郎が23歳で死んでいるのを知りました。( 明治12年生まれ、明治35年死去 )。豊後国の上級武士だった父親が、廃藩置県後、官僚高官となり恵まれた家庭環境で育ちました。尋常小学校の高学年のころからピアノを弾いていたようです。15歳で東京音楽学校( 現在の東京芸術大学 )へ入学、ピアノ演奏と作曲を勉強していて、本科を卒業後も研究科へ進み、音楽のエリート・コースを歩んでいたと言えるでしょう。21歳で音楽学生として、ドイツ・ライプツィヒ音楽院へ留学するものの、まもなく肺結核に罹患。現地で治療を受けていましたが改善せず、7ヶ月後帰国の途につき、帰国1年後に死亡しました。「荒城の月」は代表曲の「花」「箱根八里」とならんで明治33年作となっており、留学前の作品のようです。直筆譜面の多くは結核の感染を恐れて焼却処分されており、実際の作品数は不明。確認されているのは34曲です。

私が10年前入院していた病院では、お知らせのアナウンスの前にピアノ曲の「乙女の祈り」が鳴るのが常でした。テクラ・バダジェフスカ作曲のこの「乙女の祈り」は鉄道のアナウンスなどに良く使われ、オルゴール曲の定番となっています。昭和30年頃、化粧品のラジオCMにも使われ、日本人にはおなじみの曲です。ポーランド人、バダジェフスカの生まれ年は1834年1838年の二説あり、死去は1861年となっています。「乙女の祈り」の楽譜出版は1851年で、作曲時の年齢は34年生まれなら17歳、38年生まれなら13歳のときになります。この曲はワルシャワで出版され、ほどなくフランスの音楽誌に転載されて、フランス人に知られることになりました。日本へは明治時代に楽譜が入ってきて、以後日本人に人気の曲となっています。ところが正規の音楽教育を受けていない作曲家の作品だという理由からか、現地ポーランドではこの曲はほとんど知られていないようです。バダジェフスカが生きた時代のポーランドは、ロシア帝国の圧制下にあり、国家として存在していなかったと言える状況でした。同時代のフレデリック・ショパンは留学先のウィーンからパリへ逃れ、難民となってフランスで暮らし、生涯ポーランドへ帰国することはありませんでした。バダジェフスカはこの曲の作曲後結婚し、5人の子供を設けて10年後に病死しています。享年27歳もしくは23歳です。

和製フォーク・ソングの代表曲のような「神田川」。この曲の前奏から南こうせつの歌声に並行して、そして間奏へと哀愁に満ちたヴァイオリンの旋律が流れます。上条恒彦が歌った「出発の歌」。これらを編曲したのは、木田高介です。上条は第三回合歓ポピュラーフェスティバルの出場が決まっていたものの、「出発の歌」の作曲完成は前日、木田は三重県合歓へ向かう列車の中で編曲譜面を書いたと伝えられています。結果はグランプリ。一世を風靡した曲としてご存じの方も多いと思います。木田は東京芸術大学卒業の打楽器奏者ですがフォーク系、ニューミュージック系の数々の編曲を手がけています。芸大在学中にロックバンド「ジャックス」に参加、バンド解散後POPS音楽の世界へ向かい、個性豊かな編曲家になりました。31歳の時、山梨県河口湖でクルマ運転中、同乗の友人と共に交通事故死しました。

上記、夭逝した3人が作曲・編曲した曲に私は啓示のようなものを感じてブログを書いています。瀧には哀切や日本人が持つ無常観。「乙女の祈り」の高音へ跳ねるように向かうアルペジオ・メロディーには10代の乙女が見つけたこころの底にある躍動の芽。木田の編曲には特異な感情の表現力を感じ、どうしてこんな表現力を会得したのかと言う不思議。私は2019年12月のブログで、夭逝-その1として画家・関根正三のことを書きました。なぜか今、こうして夭逝した才能が気になっています。彼らに共通する運命の残酷さをしみじみ感じるこの頃です。

世はいかさま

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食い物や飲み物CMで芸人、タレントが「旨い旨い」と言うのはわかるんですが、料理人や料理研究家が出てきて「旨い。本当に旨い」なんて言うCM見てると、この人たち普段からマトモなもの食ってないんじゃないのかと思ったりします。本物、技を極めた料理人などは、CMに出るわけがなく、イマイチ高評価が得られていない料理人には、CMに出ることで名前と顔が売れて、何も知らない視聴者に有名料理人だと思い込んでもらえるので、得る所が多いのでしょう。これを称してハッタリと言います。かって雑誌編集者・評論家だった山本夏彦氏は「世はいかさま」と題する写真コラム集を発表しています。マスコミに上手く乗って、顔と名前が売れれば、素人にとっては一流人。料理番組大盛況、料理人が先生先生とおだてられ、食材の選び方、調理の仕方をこと細かく説明します。しかし、本物の一流はそんな所には出てこないものです。乾燥味噌汁やパスタ、缶詰ジュースなど、たいして旨くもない食い物、飲み物をゼニもらったからと言って「旨い旨い」と良心ある人間なら言えるわけがありません。三流の野球選手がコーチや解説者になると、饒舌になって、あることないこと説明しまくるのと同じです。大体、自分が苦労してつかんだ技術はペラペラと簡単に公開しないものですし、またその微妙な機微は、言葉で説明できるものでもない。王貞治氏や長嶋茂雄氏から打撃の神髄を聞いて納得したひとなどいないでしょう。王氏はバットの代わりに真剣を振ってコツをつかんだとか、長嶋氏の説明は「バック・スウィングの時、グリップエンドをここに上げれば打てるんだ」とか、川上哲治氏に至っては「球が止まって見えた」といつた説明で、凡人に理解できるシロモノではありません。禅問答のような世界です。テレビの料理番組で、出演料理人からこと細かくされる説明は、それで素人は感心し、番組が成り立つモノですから、余り罪はなくそれはそれで構いません。しかし本物はこんなモンじゃない、隠れた名人、職人が多くいることを知ってほしいと思います。私はなぜこんな憎まれ口を言うか。それは本物の職人仕事がわからない人が多すぎることへの警鐘です。マスコミ、特にテレビで放映されると、そのことはほぼ無条件に真実だとされてしまいます。STAP細胞を作り出したと科学誌Natureに発表し、割烹着で実験に取り組む姿を公開し、大発明だと世間に持ち上げられたあと、その後の検証で論文にいくつもゴマカシが見つかり、論文の手順で細胞の再現が試みられたが、再現されず大恥をかいた女性。考古学の分野で、次々に旧石器時代の埋蔵物を発掘して「神の手」を持った発掘者なんて言われたひと。それによって旧石器時代の歴史事実、研究に大影響を及ぼしたものの、前もって埋蔵物を埋めているところを見つかり、ウソがバレた。このウソに影響された中・高校の歴史教科書を書き直す必要が出てきて、大学入試試験問題もひっくり返さなければならなくなりました。日本の考古学学会もメンツがつぶれた捏造事件。難聴なのに交響曲を書いたとして、現代のヴェートーベンと賞賛されたひと。私も音楽好きなので、友人からその交響曲第一番「HIROSHIMA」のCDが送られてきました。聴いてみたものの、眠い。つまり退屈で退屈で早く終わらないかと、我慢をしながら聴いたおぼえがあります。誰だと名前を公表することは避けますが、現代日本の作曲者としてトップ・クラスに評価されているひとが「これだけ立派な交響曲を書いたのだから、特別に大きな賞を作って表彰してあげる必要がある」とテレビ・カメラに向かって発言していました。その後の顛末は、実は音楽大学の講師に多額の報酬を支払って作曲してもらい、自作として発表したこと。ゴースト・ライターだったその講師は「あのひと、普通に会話できて耳は聴こえてるヨ。譜面を書く能力はもっていない」と打ち明けました。難聴の障害者手帳もだまし持っていたようです。こうして数年づつの時間の割合で、虚偽捏造欺きが世間を賑わします。ある意味で冗談の一環として笑い飛ばすのなら、結構楽しいのですが、それが真実として社会問題になってしまうとそうも言っていられません。これらのウソは発覚して幕切れとなって良かったものの、発覚しないままのものもあるでしよう。その一歩手前のバレない栄光の専門家や権威は、相当たくさんいるはずです。こうなると山本夏彦氏のように「世はいかさま」と達観して平気でいるのもひとつの生き方ですが・・・。ただ、私の住んでいる京都という町には、過去から今日まで隠れた芸術家、工芸家が連綿と世の本流から外れ隠れていて、その作品にふれると雷に打たれたほどの衝撃をうけます。とくに名もない作家、職人の素晴らしい仕事は、華やかに名をなした「大先生」の仕事と比較すれば、問題にならないほど輝いています。

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マスコミ、特にテレビで有名になった「大先生」の仕事が本物なのかどうか、深く検証する文化をこの国に根付かせることが必要だと思っています。割烹着で実験した女性の実験も再現できなければ意味はなく、何度も発掘できたことよりも、その埋蔵物が本物かどうか検証する必要があり、難聴のひとが書いた交響曲も、聴いて感動できるかどうか、眠ければ眠い音楽です。ことの本質よりも、付随するエピソードを好む日本人の性癖が本質を見えなくしています。大切なことは、世間の評価は信用しない。本物を見極める自分の感性を持つことに尽きます。「秘すれば花」むしろ光が当たっていない場所に本物がある可能性の方が高いと言えるかも知れません。料理人が「旨い、本当に旨い」と言う食い物のCMを見るにつけ、「世はいかさま」と理解した上で、だまされずに隠れた本物の仕事を見直していただきたく、今回のブログになりました。

インバウンド & パンデミック 白書

 

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何かイヤな感じがする。普段での生活とは違和感を感じる。話し方も行動もけたたましくて、土足で座敷へ踏み込まれているようだ。インバウンドと称して2年半前まで押し寄せていた外国人観光客に、日本人の多くはそう感じていたに違いありません。他方、そんなことは、どうでもよろしい。簡単にカネを持ってきてくれる有り難い客だと、千載一遇を謳歌していた業者もたくさんいました。これはブームと呼ばれる社会現象でした。何かが急に流行りだし儲かりだすと、日本人はそこへ殺到します。戦後だけでも、次々にブームはやって来ましたが、どれもそれに無関心でいて、参加しなければ特段影響は受けませんでした。しかし、インバウンドだけは、周囲に迷惑を掛けまくります。私の暮らす京都では、ホテルの利用許容量が逼迫し、次々と新築されるホテル用地の奪い合いで市街地の地価は高騰、固定資産税は上がり、市民の台所・錦小路市場や神社には外人があふれ、立ち食い、ゴミ捨てが横行、観光地ではレンタル着物店が軒を並べ、市バスは一日乗車券を握りしめた客を満載して走っていました。異常でした。イヤだなと思っていました。何か悪いことが起こりそうな予感がしていました。世の中には嫌われても平気なひともいます。また、そのひとがかかわってくると、病気や不幸が発生する事態もあります。面と向かって口にはしませんが、死に神のような感じを受けることもあります。2年半前まで、そんな人々と否応なく付き合わなければならない不愉快な状態でした。別にインバウンド目当てに商売をしていたのではなくても、迷惑を被ります。祇園町ではカメラを構えて舞妓を追い回し、帯や袖などを触ります。一日中通りを、車付きのスーツケースが音をたてて行き交います。いつか死に神がやって来そうな感じがしていました。

来ました。

武漢で手に負えない、厄介なウイルスが人間のあいだで蔓延しはじめると、まずそのことを隠蔽し、次にヒトヒト感染は起こらないと言い、大量の肺炎患者が死亡しはじめても、そんな病気はないとシラを切り、罹患した人々が春節祭で世界中を移動してこのパンデミックを引き起こしました。これが少しはまともな国で始まったのなら、初期に何とか押さえ込めたていたかも知れません。その後、自国開発のワクチンを、開発途上国にもったい付けて恵み与え、我が国はこのウイルスを押さえ込んだと、記念展までやる始末。そもそも、この迷惑を世界にバラ撒いたのは、誰なんですか。責任は誰が取るのですか。

インバウンド特需は蒸発し、コロナ蔓延でホテル、飲食店の倒産廃業が頻発しました。

そもそも、簡単に開業できすぎます。陶器磁器を売る店、竹細工や扇子を売る店など、かっては商品を自家で制作して売っていました。今は販売であれレンタルであれ、業者から仕入れて店頭に並べれば商売成立です。もっとひどいのは、売れてはじめて仕入れ代金を支払う、売れるまでは店頭に委託で並べているだけというのもあります。料理店というのは、普通10年も20年も修行を積んだ料理人が、食材を厳選し、調理技術を駆使して作った料理を提供するものです。ステーキ・ハウスや焼き鳥屋が乱立していますのは、こう言っては失礼ながら、大した調理技術はいらないからです。焼くだけです。焼き肉屋は客が自分で焼いて食べてくれます。営業許可は簡単に取れ、その気になれば明日からでも商売できます。大手居酒屋チェーン店では、ほとんど調理済みのものを仕入れて、注文があれば温めるだけで出しているようです。そうでなければ、あれだけの多種類のメニューがあり、注文から数分で出てくるわけがない。ある会席料理店に、弁当屋から転職してきた若者が、入店初日、「エッ。料理って一から作るの ? 」と驚いたといいます。以前の店では、できあがったものを買ってきて、弁当箱に詰めるだけだったそうです。「こんなことしていれば、儲かりませんヨ」と言うので、ご主人から「料理屋が儲かる商売だと思うことが間違いだ ! 」と叱られた逸話が残っています。ホテル、旅館は旅行者が夕刻から翌朝まで生活するところです。食事、入浴、排泄、就寝など快適に提供しなければなりません。病気や怪我をするひともあり、それに対処もしなければならない大変な商売です。宿泊施設を建設し、あとは運営会社にまかせる。これ、安易に考えすぎていませんか。簡単に開始できる商売は、簡単に閉店してしまいます。平時に戻れば、また雨後の竹の子の乱立です。

職人仕事が少なくなりました。一般のひとは、職人仕事と簡易仕事の区別をしなくなりました。週休2日制、祭日連休の増加、「休め休め」の号令で、面倒な仕事から逃げるようになりました。安ければ良いという風潮、値打ちのあるものを大切に使うことを時代遅れだとする風潮が日常化しています。コロナをバラ撒いた国は、かつては労賃が安いという理由で、世界の工場だなんておだてられ、それはまた世界中に価格競争という弊害をバラ撒きました。永くつづくデフレーションの圧力は、あの国から出ています。インバウンドの反省は、コロナ・ウイルス蔓延の責任追及に通じます。死に神と早く縁を切って、本来のわれわれの国の姿に戻るべきです。カネになるのなら、何でもやるという、卑しい生き方でこころ豊かな人生が送れる訳がありません。

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広報後進国ニツポン

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立ち話しがはずみます

 

戦国時代の映画やテレビ・ドラマのシーン。斥候か伝令の若武者が早馬を飛ばしてくる。戦陣に到着、馬から飛び降りると武将に対して「申し上げます。ただいま敵は○○川を渡りました。3万の軍勢が△△城に向かっております」などと息せき切って報告する。このとき若武者は武将に対して、かならず膝をついて申し述べるのです。けっしてツッ立ったまま言うことはありません。私が生まれ育った所は、京都の花街、祇園の近くです。若い舞妓見習が田舎から出てきた当初、座敷で、お茶屋の女将や先輩芸妓に立ったまま話をすると、「ちょっとアンタ、立ってモノ言うのやめヨシ!」ときびしく叱られます。襖の開け閉てはもちろん、必ず畳に両膝をついて話すのが、祇園に限らず京都では当然の行儀作法です。日本の総理大臣も東京都知事も、国民、都民に立ったまま話をします。新型コロナ蔓延下、毎日のように首相も都知事もテレビ画面に出てきます。それは首相官邸や都庁の廊下(ロビー)に記者やカメラマンがじっと待機していて、相手が出てくると質問を投げかける段取りになっています。前もってそこにマイクが設置されている場合もあります。質問に適当に応え(詳しく説明することはありません)、ひとつかふたつ出た質問に手短に答えると、サッとどこかへ行ってしまいます。逃げ腰なのです。この国の政治は、まともに国民と向き合う気があるのかと疑問に思います。新型コロナに関する会見、ニューヨーク州クオモ知事は広いテーブルに資料を並べ、椅子に座ってニューヨーク州の現状を、毎日詳しく説明していたそうです。データを開示し、あとは記者の質問がなくなるまで応じていたと伝えられます。台湾でもコロナ蔓延を抑えた衛生福利部長・陳時中は毎日会見を開き詳しく説明。記者の質問がなくなるまで応じ、台湾のひとびとは現状が良く理解できたと納得し、彼の人気は高いと伝えられています。

日本の政治家にこの姿勢がないのはなぜか。ひとつはトップが現状を全体的に把握できていない。各部署に任せっきりで総合的に問題を把握できていません。だから記者から数々の質問がでると、答えに窮するのがわかっているので逃げ腰になります。もうひとつは、旧弊からくるもの。政治家派閥の領袖が力をもってしのぎを削っていたころ、記者は番記者として領袖にくっつき、そこから特別に情報を得ていました。まともな国民向け会見のないこの国では、そうしないと重要情報が得られない。政治家のほうも、世論操作や派閥運営の裏ワザとして、本情報、ニセ情報を番記者を利用してリークしたりしていました。内閣官房長官の毎日の定期会見はあるのですが、すでに実情報が行き渡ったあとの発表で、セレモニーのような感じがします。会見に、官房長官は大きな冊子をかかえて登場しますが、そのなかのデータなどを見ながら数字あげて具体的に説明しているのを見たことがない。しかもツッ立ってやってる。質問を希望して挙手をする記者を、傲慢にも手のひらを立てて恣意的に選びます。記者を選ぶと言うことは、すべての質問には答えないということ。質問のある記者は、着席順に質問できて最後のひとりまで答えるのが内閣の広報担当大臣ではないですか。国会の答弁もしかり。前日ぐらいに前もって提出された質問に対して、委員長が挙手した答弁者を指名し、閣僚席もしくは官僚席から答弁者がノコノコと答弁席に歩いてくる。答弁がズレていようが、食い違っていようが、的を得ていようが、言いっ放しですぐに元の席へ戻ってゆく。この不毛な繰り返し。これやめたほうがいい。民主主義の本家、イギリス議会の映像を見ますと、質問者も答弁者もテーブルをはさんで椅子に座って、普通に話しするように審議、質問答弁しています。これをやるには問題に対する知識、見識が必要です。ごまかしたりすれば、すくにバレてしまい、見ている国民は (ア!このひとダメだ) とか (このひと良く勉強しているナ) とか感じて、議員としての資質がマルわかりになります。日本の議会もこの方式に変えましょう。それに、首相や都知事の廊下立ち話、逃げ腰方式をやめて、椅子に座って現状や自らの意見を知ってもらうよう努力をし、しっかりやるべきです。国民、都民を自分より目上の存在と思う意識があれば、立って話すのは失礼なのであり得ない。国民、都民は納税者、選挙民なのですから。みなさん声を大にして言いましょう。「ちょっとアンタ、立ってモノ言うのやめヨシ!」と。やんごとなきお方が、「引退したい。次の代へ譲りたい」とテレビで国民に向かって述べられた会見でも、ちゃんと椅子に座って話されていたではないですか。たかが首相や都知事が立ってモノ言うなんて、馬鹿にしています。皆さんそう思いませんか。

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空港ピアノという番組

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柚子の花とサクランボ

庭の柚子の木が花をつけました。今年の冬には実をつけそうです。サクランボもわずかですが、小さな実がついています。

さて

BSテレビ放送で「空港ピアノ」という番組があります。15分間ほど、番組と番組のあいだに放映されます。日本だけでなく、世界の空港や駅ロビーに設置された中型グランド・ピアノに目をとめた、通りかかったひとが、思い思いに演奏します。弾くひとの心境や、どんな訳アリの旅行中なのかなど、それぞれの事情がテロップで出ます。旅には人生の特別な意味もあり、こころ打たれるシーンもかずかず見られます。プロのミュージシャンあり、ピアノ教師あり、むかし習っていたピアノ演奏を退職してから再開した老人あり、独学我流で弾く若者ありで、21世紀にもなると、これほどひとびとのなかに、音楽が、ピアノが根付いているのだと知って「人間ってイイな」と思えるのです。ふと足をとめて演奏するひとを、ロビーのひとは遠くから見て聴いていて、ときに拍手があつたりします。多くの空港にピアノが置いてあるようです。まったく無関心に通り過ぎるひともあつて、さりげない風景が空港の日常を表しています。以前、ある国会議員さんが、ほんの短い期間でしたが、棚からボタ餅のように、総理大臣になって外国を訪問ました。その時、まったく我流でマスターしたピアノの腕前を、外国要人のまえで披露したことがありました。なにごとにも器用に取り組んで自分なりに身につけ、話題もあきれるほど豊富、冗談ユーモアも実に上手いひとでした。それをある音楽家が「正規のピアノ教育も受けず、まともな教師に師事もしていない我流のピアノを、外国要人のまえで弾くなんて、国の恥だ」とマスコミで発言しました。それが誰だかは私は今も覚えています。それに対しある高校生がした反論は「正規の音楽教育を受けた受けていないは関係ない。音楽教育を受けたひとの音楽だけが音楽ではない。音楽はひとそれぞれ自由に楽しむもののはずだ。我流のピアノ演奏も立派な音楽ではないのか。それを恥というひとが間違っている。音楽を誤解している」という主旨の発言をした記事がありました。私は、これは我流演奏を批判した音楽家が赤恥をかいたのだと、大いに溜飲を下げたものです。「空港ピアノ」には決して上手いとはいえない、たどたどしい演奏もありますが、それはそれでまた何となくこころ暖まるものでOKです。「ウサギ追いしかの山 小鮒釣りしかの川・・・」あるピアニストが、この「ふるさと」の曲を弾いてる映像、画面には「東日本大震災の被災地巡回したとき、この曲を弾くと、各地の会場ですすり泣きがきこえてきた」とテロップが現れました。ショパンやリストでなく、「ふるさと」というのがイイじゃないですか。ここに本当の音楽のちからを感じます。むかし旅のドラマやロマンは夜行列車でした。いまは世界各国の主要都市、日本の多くの都道府県に空港があって、ひとびとは飛行機で移動することが増え、空港を行き来するひとびとはひとりづつ旅の物語を抱えています。そこにピアノを置いてみれば、上手い下手もプロもアマも関係なく、意図せず人生の事情がにじみ出てきます。こころ打たれたり、涙ぐんだりして、この15分間ほどの映像に引き込まれています。ピアノのまわりに数個のカメラとマイクを設置してあるだけ。そこには製作者の意図も演出者の技量もなく、通りかかったひとの人生がさりげなくにじみ出てきている、出逢いのような、身の上話を聞いているような時間を体験できている気がします。こんな番組があるかぎり、まだまだ日本の文化も捨てたものではありません。