短距離ランナー福島千里

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西王母椿

先日のNHK-BS番組・スポーツ・ヒューマン「速く走れないなら死んでいるのと同じ」はあと味の悪い番組でした。陸上競技、女子短距離選手、福島千里選手への密着取材番組でした。福島は2008年から急に頭角をあらわし、その年、オリンピック女子100m日本代表に選ばれました。北京オリンピックでは1次予選で敗退したものの、女子五輪代表参加は、吉川綾子以来56年ぶりの快挙でした。それからおよそ10年間、日本の女子短距離界で頂点の座を維持しつづけました。が、このところ福島は記録を落とし、不調に苦しんでいます。その約1年間密着取材と銘打った番組です。担当ディレクターは何と、過去のライバル選手 ( 同い年 ) だった中村宝子です。高校時代は福島よりも速く、短距離界で評価は上でしたが、大学卒業後引退、静岡新聞の記者を経て昨年、2019年NHKのディレクターになりました。福島の友人である関係を使って、撮りにくい映像、問いにくい質問をして聞き出した本音など、特別に密着取材した場面が頻繁に見られました。福島は途中なんどか、「もう取材は中止してほしい」と申し入れます。しかし、また福島の方から、中村に連絡を入れるのです。言い残したことがあるのか、誤解を解きたいのか、寂しいからか・・・。映像から、彼女のひとの良さ、取材への後悔、そして苦しみが痛いほど伝わってきました。テレビは残酷な道具です。取材しているカメラ・レンズの奥に視聴者の好奇心が潜んでいます。番組製作者はそれを無視できません。長く頂点を極めてきた栄光と、現在の不振。視聴者は意地悪く、不振であればあるほど、その対比を楽しむ傾向があります。福島とともに、今回中村ディレクターも放送のあと、それを感じてこころに傷を負ったのではないかと想像します。このテレビがもつ野次馬根性の側面とどうつきあっていくか。永遠のテーマかも知れません。放送開始の街頭テレビの時代から、見てきた私はそう感じています。頂点を下り始めた運動選手への取材は、頂点が高ければ高かったほど、好奇心のマトになります。私は小さい頃、野球少年でした。成人して、沢木耕太郎著の「敗れざる者たち」を読んでショックを受けました。憧れの毎日オリオンズ榎本喜八選手の現役時代と引退後の奇行が、赤裸々に取材されていました。沢木は奇行を野次馬的に書きながら、それでもその本質が究極の打撃を追求するあまりの行動であることを付け加えていました。福島の取材で「死んだのと同じ」と本人が言ったシーンはありません。製作側が勝手にテーマにしたのかも知れません。製作側のピント外れを表した言葉に感じられます。福島は100mと200mのいまだに破られていない日本記録保持者なのに、この1年間、出る必要のない試合に、何度も出場しています。彼女は練習の成果としてのタイムを、繰り返し確認したかったのではないかという気がします。「速く走れた時の感覚」を口にしていました。その忘我、脱魂の境地を必死で探し求めているのが今の姿ではないでしょうか。短距離走はもって生まれた筋肉の結果です。それを発揮できる期間は永遠ではありません。そのピークが過ぎたとは信じられずに、挑戦しつづける姿は、悲しくも感動的です。昨日、再放送が済みました。多くのひとびとに、この番組は見てほしくないので、今日になってブログした次第です。

K.ヤイリの特注ギターを2台もっている理由

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K.Yairi-YC-10NC CUSTOM 材質違いの2台

2008年夏、休暇をとって、高速道路を長野県の温泉に向かって走っていました。滋賀県の名峰・伊吹山を過ぎて、関ヶ原にかかると「これより岐阜県」の標識が目に入りました。「岐阜県 ンーン!」とあることを思い出しました。半年近くまえ、ガット・ギターを作るべく大阪のN楽器店にヤイリギターの特注見積を出すよう、求めていました。ボディの板を指定し、サイドはこれ、トップはこれ、裏板はこれ。マホガニー、シダー、スプルース、ハカランダと板の種類を組み違わせ3台分、金額によってそのうち1台を発注しようと。なかなか回答がないので、一体どうなってるんだとN楽器店にせっついても音沙汰なし。岐阜県はヤイリギターの所在地。「よしっ」とカーナビでヤイリ社を捜すとすぐに出て、直行。普通の町工場でした。ポール・マッカートニーほか、エリック・クラプトンカルロス・サンタナ、日本でも桑田佳祐など、そうそうたるキダリストが発注しているギター・メーカーがこれかと意外に思ったものです。事務所に入って、社員に「見積が来ない。どうなってるんだ」と不満をぶちまけると、「ウチの社長は職人で、事務仕事を放置するんですヨ」と平謝り。「社長以外に見積出せるひとはいないのか ? 」「いない・・」とやりとりしていると、小柄なオッサン(第一印象、失礼! )がヒョコヒョコ入ってきました。会ったことはなかったけれど、矢入氏がどんな顔のひとかは写真や映像で見ていて知っていました。「ここに居るやないか。すぐに計算して見積出してくれヨ」。矢入氏が社長の席、粗末な事務机に座ると社員から事情を聴き、山積みになった書類の下の方から、私の依頼書をさがし出しました。しばらくジーッと見ていて、「こちらへ来てくれ」と歩き出します。ついて行くと工場の中を案内してくれて、「この板はこう使うと、こんな音になる」とひとつひとつ説明をはじめ、私が「ハカランダはあるのか」とたずねると、ハカランダのまえで、加工の仕方を教えてくれました。ハカランダは世界的に貴少な銘木で、ブラジルからの輸出はワシントン条約ですでに禁止されています。ほかの楽器、家具メーカーには教えられない、堅くて加工が難しいハカランダの企業秘密の加工法を教えてくれました。「アンタ、好きな女ができたら、いつも一緒にいたいと思うだろう」。いきなり女の話を持ち出しました。「一緒にいたい」と答えると、「ギターも同じ、いいギターはいつも弾いていたくなるもンだ」と説明します。「アンタの求める音はわかった。ひとつ、オレに任せてくれないか。2台作ってみる。気に入った方を選んでくれればいい」。「頼みます、よろしく」とエンジンもエアコンも止めていたクルマに戻ると、汗だくの家内がブーブー文句を言いましたから、2時間近く話していたのだと思います。見積金額のことなど忘れてしまって、ヤイリ・ギターをあとに長野県の温泉に向かいました。

ギターができあがったと連絡があったのは、翌年の早春のことです。大阪のN楽器店へ行ってみると店員がそれを弾いていました。文句のつけようのない、思った通りの良い音でした。「もう1台届いてますよ」。とそちらを弾いてみると、パワーは控え目なものの、なんとも言えない甘美な音色です。「どちらを選びますか。残った方は、当店が仕入れにして売ります」と問われ、即座に「両方買う」と答えました。思えば最初から、金額は交渉、確認していないままでした。2台分の金額を聞いて、(安い)と思うと同時に、矢入氏が特別に配慮してくれたものと察知しました。

これは2008年夏から2009年早春にかけての出来事です。

矢入一男氏の訃報に接したのは、2014年3月。享年81歳でした。ヤイリギター社で会ったのは彼が75歳の時だったでしようか。一男氏が2005年に卓越技能賞(現代の名工)、2006年に黄綬褒章を受章というのはどうでもよいことですが、ヤイリギターの特徴はまず構造がしっかりしていること。そして何よりも特筆すべきは、高い(ハイ・ポジション)音の狂いがほとんどないことです。わたしたちが学生のころ垂涎の的だった、米国G社ギターもM社ギターも鳴るのですが、ハイ・ポジションは狂う。ヤイリと比べるとその差は歴然としています。この高音の安定技術は世界に誇るべきものだと思います。若いころから父親といっしょに、ギター作りに一生を歩んだ一男氏の最大の功績だと考えて良いでしょう。この世に世界に誇るギター作成技術を残しました。かく言うわたしは馬齢をかさね後期高齢者の仲間入りをしました。何年か前から、買い集めてきたギターとバンジョーを音楽仲間の後輩に、形見分けと称してプレゼントしています。しかし、この材質の違う、それぞれ独特な特徴をもった、K.Yairi-YC-10NC,CUSTOM 2台は、臨終までもっているつもりです。

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保証カード

 

筒美京平氏の訃報

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秋明菊ホトトギス

 

2020年10月7日作曲家・筒美京平が死去したとの報道がありました。私が20~30代のころ、筒美氏は超売れっ子作曲家で、華々しく次つぎヒット曲を連発していました。「ブルーライト・ヨコハマ」「また逢う日まで」「魅せられて」など、ご存じの方も多いことと思います。私も曲作りをする者のハシくれとして、作詞家の阿久悠氏とあわせて、感心をもっていた人物です。その名前を途切れずにあちこちで見かけていましたから、今日までズーッと作曲を続けていたことは、当然知っていました。しかし私の記憶にある作品名は、ある時期までで、以後今日までどんな曲を書いていたのかわからず、ネットで年表をくって見ました。愕然としました。1966年の「黄色いレモン」にはじまり、よく知っているヒット曲が多数並びます。しかし1980年以後、私が知っている曲がないのです。何が起きたのか。大きな歌謡界の変化が見えました。叙情歌、演歌、和製フォーク、ニュー・ミュージックがヒット・チャートに上ったのは、80年までです。「ギンギラギンにさりげなく」と可愛い子チャンに歌わせておけば売れる時代を作り出し、歌詞・旋律は二の次、もっと言えば「ドーでも、よろしい」。アイドル歌手のプロマイドPOPSとでも呼ぶ時代の到来です。思いかえせばそのころが日本文化全体のターニング・ポイントだったのでしょう。テレビ番組は学芸会以下の企画でお笑いが中心。タレントが何か言ったら、録音された笑い声がゲラゲラ流れる。内容はすこしも面白くない。CMも美感、格調、アイデァまったくなし。映画の物語は「ドーでもよく」CG使って、ビルから飛び降りたり、爆発したり、カー・チェイスと弩ハデ。これが今日まで続いています。古くは服部良一あたりから、古賀政男、中村八大、遠藤実宮川泰、平尾昌晃そして筒美京平とつづいてきた作曲家、彼らをわたしはメイン・カルチャーととらえています。不毛のクラシック音楽界は、まさにサブ・カルチャーになり下がりました。歌謡曲ではある時点から、曲がさきにできて、それに歌詞をつけるといった作り方になつたようです。それでは心の琴線に触れる歌はできにくく、プロマイドを売るようにアイドル人気を売るやり方。文化から逸脱して単なるゼニ儲けになっています。この手の音楽が主流になり、歌詞の善し悪しはどこかへいつてしまいました。晩年の阿久悠氏がある番組で「いい歌詞が書けたと思って、発売しても、売れないンだよ」と悩んでいたことを思い出します。80年以後今日まで、筒美氏作曲のおびただしい作品群。ヒット曲も多いようですが、どんな気持ちで曲を書きつづけてきたんだろうかと、複雑な気持ちになりました。筒美氏はグループ・サウンズに楽曲提供することから出発した作曲家です。だからと言って、歌詞を無視、旋律さえ良ければなんて考えていたとは思えません。80年までの曲は、実に歌詞と旋律がうまくフィットしています。フォーク系の私でも、唸りたくなる曲がたくさんあります。80年以後の歌詞が空虚な曲をどんな気持ちで書いていたのかと、悲しくなりました。2002年ヒット・チャート1位になったというTOKIOの「AMBITIOUS  JAPAN」を聴いてみました。やたらと「まっしぐらに旅に出た」ばかりで心の琴線に触れる言葉はありません。同じ鉄道会社が78年に提供した「いい日旅立ち、雪解けまぢかの・・・岬のはずれに少年は魚つり・・・砂に枯れ木で書くつもり・・・」といった情景、哀愁などは感じられませんでした。音楽が売れない。と音楽産業の衰退が話題になります。まず「ゼニ儲け」と考えてやれば、まともなひとびとがソッポを向くのは当たり前。歌詞を大切にし、歌づくりの楽しさを取り戻すのは、ソング・ライター、ミュージシャンばかりでは無理です。音楽産業にたずさわるひと、とくにプロデューサー、レコード会社の経営者の意識改革が必須です。筒美京平氏の訃報に接し、作品群を見て思ったことです。

関西ことばについて

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コスモスと萩

 

方言「〇〇〇ケ」について

本日の日経新聞朝刊44面。「文化」欄に町田 康 氏が「日本語で言え」という一文を書いています。日常会話のなかにやたらと英語が多い、「英語で言うな、ぼけっ」と怒っています。大阪人の作家らしい意見だと思い、ある友人の言葉づかいを思い出しました。

全員ではありませんが、関西人の一部のひとは「そーやんケ」「それは違うんちゃうケ」と〇〇ケをつかいます。思い出した友人はこの言い方が顕著でした。〇〇ケは「そーやデ」「それは違うデ」の、もっと言えば「そーです」「それは違います」の数段砕けた言い方になります。ですから、公式の場や、目上のひとに使っては失礼になります。同輩もしくは目下にそれも馴れ馴れしく使います。あまりお上品な言い方ではなく、女性はまず使いません。関西以外であまり聞いたことがなく、ネットで検索してみると、「教えてgoo」というサイトに「●●け?と語尾に「け」をつける地域はどこ? (方言)」というのがありました。18件の回答があり、総じて〇〇ケの会話は、大阪、京都、奈良の南部(???)で使うとの回答が多くありました。別の友人は、あるところでオバハン同志が「ほんまケェ」「ええやんケ」としゃべっていたと驚いて、語ったことがあります。関西といえども若い女性では、考えられません。もうひとつ広島の回答者は「そうですケ」が広島では丁寧な言葉で、商売でもよく出てくる地元の言葉です」と述べています。「ケ」のまえに「です」がついていて「そうでございます」にあたるのでしょう。江戸落語を聞くと「そうじゃネェ」とか「いいじゃネェか」といったしゃべりかたをします。「ちがうやんケ」「ええやんケ」に近いのかも知れませんが、「〇〇ケ」ほど砕けていずに「ご隠居さん、それでいいじゃネェか」と多少親しい目上にも使うようです。町人、職人言葉から来ていると認識して悪い印象はもっていません。上方落語の良いところは、いくら庶民の会話とはいえ「〇〇ケ」は使いません。高座で使う言葉ではないのでしよう。一部ガラの悪い漫才を別にして。言葉は感染伝播します。私は「〇〇ケ」は使いませんが、学生時代のサークル仲間、福井県敦賀から来ていた友人は、いつしか感染され、いまも「ほんまケ」「そうケ」と話します。逆の現象もあります。1年生のとき、愛媛県今治から来ていた同期は「こんなに息苦しいストレスのたまる学校はない。県人会で地元の言葉でしゃべる時だけ、解放された気分になる」と言いました。そのうち臆面もなく今治弁で話しはじめ、同期が感染をうけました。「ほんでニャー」「〇〇しよるんゾ」と話す関西人同期が数人います。

関西で「サラス」は良くない行為を非難する時に使います。「卑怯なことサラシて」とか「あいつのサラシたことは恥や」とか。東大阪選出の国会議員の先生と話していた時です。地元後援会のひとびとと数隻の屋形船に乗っていた時、酔っ払ったひとりが、こちらの船へビール瓶を投げつけたと言います。「怒鳴ってやったんですヨ『何んサラスんじゃ、この餓鬼ャ』」「・・・・」軽い驚きがありました。いろいろ大臣、財務大臣もされ、重厚な声で国会答弁されていた先生が『何んサラスんじゃ・・・』と。しかしすぐに理解しました。(そうか、地元では河内のオッサンなんだ)と。そして河内人のDNAが間違いなく体内に根付いているのを知って安心した次第です。むかし当社の社員大勢で片付けものをしていた時、派遣社員の男性が、着物のすそをまくり上げ、ももひきパッチもあらわに、片付けに参加しはじめました。その姿を見て長野県出身の女性が「まぁ、何て格好サラシて」と発言しました。(エッ)とその場の全員が彼女を見て、爆笑になりました。全員が「何て格好しやがって」よりキツイ表現と受け取ったのです。サラスの本来は「晒す」で見せないものを見せる「白日にさらす」や「さらし者」とかの意味です。関西人の「サラス」と「そんな格好を晒す」の食い違いでした。

中学生になって大阪寝屋川市にある学校へ通い始めた時、大阪から来ている同級生が「ちょっと消しゴム、貸したってぇな」と言うのです。まわりを見渡して「貸したる」て誰にと思いました。大阪では「1人称の自分」に何かを「2人称の誰かに」求めるとき、「3人称の誰かにしてやれよ」のように言うのです。京橋の露店で物売りの婆さんが「兄チャン、残りこんだけや。ひとつ買うたりぃナ」と誰か他人の売り物を勧めるように言うのです。京都人には不思議なショックでした。最近、気になるのが、若い女の子までが「むかつく」を使うのです。元々、「吐き気」のことですが、転じて「気分が悪い」→「腹が立つ」となって、腹が立つことを「むかつく」と表現するようになったのでしょう。テレビのタレントなどが気安く「むかつく」を使うので、若い女の子までか口走ります。しかし、下品な表現にちがいありません。「〇〇ケ」よりも程度の低い言葉だと思っています。

出町柳

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紫式部とコスモス

秋らしくなりました。今日は天気も良く、昼から散歩にでかけました。仕事場からの散歩は東西南北いろんなルートを歩きますが、一番多いのが三条大橋へ出て、鴨川河川敷遊歩道を北へ、出町柳賀茂大橋を折り返し帰ってくるルートです。

この散歩ルートでいつも思いだすこと。鴨川を北へ、丸太町大橋、荒神橋をすぎると、出町柳賀茂大橋がちかづいてきます。思い出すのは、高校の通学電車。当時、京阪本線は三条が終点でした。小学校、中学、高校と同じ学校のNとは家も近く、京阪で大阪府にある高校に通っていました。いつも同じ時間、同じ車両に四条から乗ります。高校2年生のころです。始発の三条から2~3歳年上の素敵な女の子(お姐さん)が、お勤めらしく丹波橋まで乗るのです。週に1~2度会います。髪の毛をボーイッシュに短く、チャーミングです。会えるとNと「いいネ」「好きだ」なんて遠巻きに会話したものです。ある時、座っているその子の前に立つたNが「定期入れが見えた!『出町柳』だ!。出町柳に住んでるゾ」と興奮して言うのです。『出町柳』の文字が通勤定期券にみえたそうです。

出町柳』から市電か市バスで三条まできて、京阪で伏見へ通勤のようです。

それからその子のことをNとは『出町柳』のニックネームで話すようになりました。「居た。オイ出町柳だ」「出町柳に会えたっ!」といつた具合です。繁華街、観光地の東山区に生まれ育ったNもわたしも『出町柳』には特別な響きを感じていました。住宅街であり、京都大学立命館大学(当時は御所東)、同志社大学、府立医科大学のある、アカデミックな特別のエリアです。地名への憧れもありました。もちろん、男子校のわたしたちは、その子と話すことも、おツキアイなんてとてもできずに、片想い、憧れのまま、高校を卒業して、京阪電車に乗ることもなくなりました。わたしもNも、あれこれ恋愛もしました。いつしか『出町柳』お姐さんをすっかり忘れてしまっていました。この所、鴨川を北に向かって歩いていて、賀茂大橋(出町柳)が近づいてくると、懐かしく思い出すのです。そして、できれば会ってみたい気もします。「実は高校のとき通学電車であなたに・・・」なんて打ち明けても、おぼえている訳もないけれど。すでに80歳近いお婆さんになっているはず・・・。賀茂大橋で折り返すとき、あたりを見渡したり、60年まえの通学電車のシーンを思い出したりしています。Nはすでに他界しました。これはもう独り言でしかありません。いやいや、私ごとのつまらない片想い、初恋はなしをブログしてしまいました。済みません。

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出町柳・鴨川左岸には萩が

 

 

 


 

ゲイジュツの一考

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N.Junzou氏の水彩画

私のイトコ夫婦が、毎年水彩画と油絵の二人展を開催します。きょう観に行ってきました。ご亭主のN.Junzou氏は水彩画(上の写真)、妻のN.Nobukoさんは油絵(下の写真)です。生活圏の風景、室内での挿花、はたまた描画のために海外旅行に、毎年出かけているようで、外国風景も描きます。Nobukoさんは私のイトコで、小さいころから絵を描くのが好きで描いていて、Junzou氏と結婚してから、専業主婦そして子育て。いつからかまた、油絵を描きはじめました。Junzou氏もお勤めを定年退職してからか、その前からは不明ながら、水彩画を描いて、ふたりで悠々自適の作画生活です。およそゲイジュツは、それを職業としておカネを稼ぐ、生活するひとをプロと称し、絵の分野では「画家」と呼ばれます。しかし職業とすることはなかなか大変なことで、売れなければ悩み、世間の評価に左右され、思う作品ができなければ苦しみます。ちょっと有名画家の生涯を調べてみればわかります。貧困、薬物・酒中毒、自殺、心中、発狂、放浪、野たれ死・・・・・。わたしも若いころは、画家の悲惨な境遇と作品を見くらべて、感動もし価値も感じていました。いま、後期高齢者になってみると、違うのです。平凡に生きて(平凡に生きることだけでも大変なことです)絵を描いたり、文章、作画などいわゆるゲイジュツするのも、職業ゲイジュツ家となんら価値は変わらない。そんな感じがしてきています。30歳まえに世間にみとめられ、その後酒中毒、放浪のすえ野垂れ死んだ画家。絵が描けなくなり、20数年間一歩も家から出られず、息子の死に顔を見て、急に筆をとって死に顔を描きはじめ、晩年は子供が描くような絵を描いて天寿をまっとうしたひと。波瀾万丈、変人奇人、悲惨な人生図の枚挙にいとまはありません。しかしイトコ夫妻の水彩画・油絵を見ていて作品の価値はそれらと何もかわらないと感じます。「死後の評価が違う」と言われます。が、死んでから褒めてもらってもしかたない。生きて描いているときに、自分で感動できているかどうか。ゲイジュツとは、そんなもんだと思えるようになってきました。私事になりますが、家業の経営に携わりながら、音楽の創作を続けてきました。楽しい思い出ばかりです。20世紀に入ってクラシック音楽の分野では、変な病気が蔓延しています。なかには素晴らしい作品もあるものの、有能な才能はポピュラー音楽へ流出した感があります。とくにこの100年間ほどは、現代音楽と呼ばれる無調の音楽、12音階音楽が書かれ演奏されています。それも立派な音楽大学芸術大学を卒業したひとびと(入学するだけでも大変です)が大真面目でやっています。ネコがピアノの鍵盤上を歩いているような音楽。わたしはあれを音楽とは認めませんし、冗談のたぐいだと思っています。難解なものに価値があると誤解しているのです。また、職業として生計が立っても立たなくても、専業であればプロということになります。働けど暮らしが楽にならなくても「じっと手を見」ればゲイジュツ家とされるのです。他方、生業としてお勤め、また経営者として働き、好きなゲイジュツもヤル。この人生もアリです。今日、イトコ夫妻の二人展を観て、「好きに絵を描くのはイイな」と思い、音楽のことも併せてゲイジュツに抱いた感想を書いてみました。

下の絵はNobukoさんの油絵です。

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N.Nobukoさんの油絵

 

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トシを自覚します

 

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立山へ行った時の高山植物(自足で登ったのではありません。ケーブル・カーです)

腸の調子が悪く、昨日内視鏡検査を受けました。最悪、大腸癌、直腸癌を覚悟していましたが、小さなポリープがひとつ見つかっただけ。拍子抜けです。それでもトシを自覚し、警戒をおこたらず、摂生につとめます。検査前にはいろいろ考えました。癌でここで絶命となっても「親が死んだ年齢より多く生きられたではないか」とか「いろいろ課題をまだまだ残したものの、一面シアワセな人生だったんじゃないか」とか20代、30代、40代で早世した友人たちのことも頭をよぎりました。上の写真は、数年前立山へ行ったとき撮った高山植物です。中学生のころから山に登り、高校時代はいち時期、山岳部に所属していました。今回、山の思い出も去来しました。1週間も2週間もテントがけで山を歩いていた元気だった時代は、遠くなりました。もう一度あの頃にもどりたいとかなわない願いを夢見ます。実はこの秋に、約1ヶ月バイクで北海道を走る計画をたてていました。しかし、調べれば調べるほど、快適なホテルを贅沢に連泊する予定と、バイクで僻地をはしる冒険的・野性的現実の矛盾がうきぼりになってきました。雨にうたれる、何十㌔も人家もない国道、ヒグマとの遭遇、道に迷えば野宿、バイク故障に自力で修理などなど。気分は20代の自分と、現実のきびしさ。迷っていたところに、腸の不調がきて、トシを自覚、断念です。大腸の内視鏡検査がおわったところで、力がぬけました。皆様から「いいトシして、一体なに考えてるんだ」と叱られた心地します。これからは、ほそぼそと、おとなしく生きて行きます。

次の写真は、立山から撮った後立山連峰です。

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