神様、仏様

「神様、仏様、稲尾様」。これは1958年の日本シリーズ三原脩監督率いる西鉄ライオンズが、読売ジャイアンツ(巨人)に3連敗し、次の2戦を連勝、あと1勝でタイ。2勝すれば大逆転で日本一のフラッグを手にすることができる状況で、地元福岡のスポーツ新聞見出しに書かれた言葉です。「神様、仏様、稲尾様!」。

前年1957年、稲尾和久投手はシーズン中20連勝をふくむ35勝。この年は33勝を上げています。現在の中5日や中6日登板からは、信じられない勝利数です。このシリーズも7戦中6戦に投げ、絶対のエースでした。ひとは絶体絶命の窮地に追い込まれたとき、自分の力ではどうにもならない現状を、何とかして欲しいと願望します。それが「神様、仏様」との言葉になります。

我が家には神棚がひとつと、仏壇がひとつあります。勤務先の仕事場には、祠がひとつと神棚がひとつあります。仏壇には毎朝、水をお供えし過去帳をその日に合わせ、線香を焚いて手を合わせます。毎月1日と15日には、祠と神棚の榊を取り替えて、水、お神酒、米、塩、赤飯をお供えし、二礼一拍一礼します。ここで神様と仏様(ご先祖様)に対峙するわけですが、「何とかして欲しい」とか「助けて欲しい」といったお願いはいたしません。苦しい時期ももちろんあるのですが、痩せ我慢を張って、お願いはせず、毎日の「平安」と「無事」の感謝を捧げます。もうひとつ、お客様の安全も祈ります。

宗教とは「祈り」「願い」ですが、現世ご利益つまり「良い方向へ向けて欲しい」というのと、感謝「平穏・無事」を祈り、感謝するとの2つの面があるように思われます。今の所、私には現世ご利益ではなく、感謝を捧げることが宗教、つまり神様、仏様への向き合い方になっています。そりゃー私にも欲はありますし、イイ目もしてみたいけれど、いつも痩せ我慢を張って、感謝をするのが「神様、仏様」への対峙姿勢になっています。こんな風に、ちっとも頼ってこないヤツは神様、仏様にとって可愛くない存在かも知れません。

毎日報道されています、山梨県道志村で当時小学1年生の小倉美咲さんが行方不明になった事件、私がブログで余計なことを言って、捜査や社会の方々に影響することは懸念しますものの、私の小さな体験をひとこと。

高校生の頃、山岳部にも所属していた私は、ある日独りで京都市の西にある愛宕山へ登ってみることにしました。山陰線の保津峡駅国鉄を降りて、水尾から登り始めましたが、途中霧が出はじめ、視界が30メートルほどになってしまいました。そこで道に迷い、歩けど歩けど道はだんだん細くなって行きます。焦りはじめ、元来た道へ引き返しますが、いくつも分かれ道が出てきて、自分が来た道がわからなくなってしまいました。そして突然、恐怖に襲われました。そうすると動転してしまい、冷静に考えることができなくなります。焦りと恐怖にさいなまれ、ついに走り始めます。愛宕山京都市亀岡市の中間に立つ千メートル弱の山です。斜面を東へ降りれば京都市へ、西へ降りれば亀岡市へ、南へ行けば保津峡・老ノ坂国道9号線で、余程運悪く北へ向かっても京北町周山へたどりつくはずです。ところが動転すると、これらの判断はどこかへ行ってしまって、山奥へ山奥へ向かっている恐怖心に駆られます。走って走って疲れ果て、最終的に運良く、元来た水尾近くまで降りることができました。水尾では霧が晴れて、保津峡駅になんとかたどり着いて助かりました。それから教訓を得ました。①どんな小さな山でも、地理を知らない場合は「絶対に単独行はしない」→もしも、斜面から転げ落ちたり、怪我をしたときも独りではどうしようもない。②迷ったら一度立ち止まって冷静になるまで休憩する。③沢をみつけて水の流れに沿って下山する。水は最終的に海へ向かって流れている。

などです。

今回、道志村の山中で見つかった骨や靴などは、キャンプ場からかなり離れて、尾根を越えた沢で見つかっています。「小学1年生が、そんな距離を移動するのは考えられない」という意見も多く見られますが、私は、バニックになった時には、それ位は十分な移動距離だと思います。事件の可能性も視野に入れて調べられています。私の意見としては、道に迷えばあり得る距離だと感じました。ただこれは、私の個人意見として、参考にして下さい。美咲さんのお母さんが、神様、仏様に「無事帰ってきて、平穏な生活に戻れますよう」と祈られたのに残酷な結果になったようです。美咲さんの恐怖、孤独を思うと言葉にできない思いがあります。山の恐ろしさを皆さんに知って戴きたくて、書き加えました。

庭のサクランボが小さな実を付けています。