プラスチックごみに鈍感すぎませんか

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白川の流れ               かにかくの碑

 

「かにかくに祇園はこひし寝るときも枕の下を水のながるる」

これは歌人・吉井 勇が詠んだ歌です。祇園町北側、新橋南の辰巳通り、白川のほとりに石に刻まれた歌碑があります。私の勤務地の横をこの白川が流れています。白川は、歌碑から100メートルほど流れると鴨川に落ち込み、そのさき淀川、そして海へと続きます。この白川にゴミを投げ込むひとがいるのです。先日、ゴミ回収の業者さんと話ししていると、「昔は生ゴミは畑に肥料として埋め、燃えるゴミはカマドや風呂の燃料(焚き付けと言った)にし、その他のゴミは川へ投げ捨てていたのです」と話ました。思えば昭和20年~30年代、街にほとんどゴミは落ちていませんでした。食料自体が不足していて生ゴミはほとんど出ず、燃えるものは貴重な燃料として拾って帰るから、道にはゴミらしいゴミは見当たりませんでした。それ以外のゴミは川へ投げ捨てたといっても、自然に分解されるものばかりで、量はわずかでした。ガラスや陶磁器は貴重で、少々欠けても使っていました。「江戸前」という言葉は、東京湾の「漁場」やそこで獲れる「魚介類」を指す言葉です。江戸時代になって江戸の人口が増えると、人間の排泄物をふくめた生活排水が海に流れ込み、その栄養で江戸前には魚介類が増えて、豊かな漁場が形成されました。循環型社会のお手本だったのでしょう。もちろん大阪湾も同じ事情で「佃煮」の語源となった摂津国の佃村や、多様な魚介類が水揚げされる明石は有名です。

ところが、昭和も高度成長期を迎え、便利な生活を作り出した反面、自然環境に多大な負荷を与えるものが登場しました。「プラスチック」です。気づかないうちに紙や木材に取って代わって、生活に浸透しました。都会のゴミ問題が浮上するのも、このころ昭和40年代からでしょう。いまも川へ不要品(ゴミ)を投げ捨てる習慣が残っているのでしょうか、不要なプラスチックを川に捨てるひとがいるのです。プラスチックは下流へ、そして海へ流れます。海に漂うプラスチックは、波や風や太陽の紫外線を受けてミリ単位の細かい粒になります。これを二次マイクロ・プラスチツクと言います。100年~200年かけないと消滅しない微細なプラスチックが海洋に漂ったり、海底に沈むと生物に与える影響は容易に想像がつくでしょう。魚の消化器だけでなく、その身や海鳥の筋肉にもマイクロ・プラスチックの蓄積が次々と報告されています。魚を食べられない日が来るかもしれません。一次マイクロ・プラスチックというのもあります。スクラブ剤と呼ばれる、洗顔料、ボディ・ソープ、歯磨きなどにその使用効果を上げるため混入されています。目に見えないほど小さなマイクロ・ビーズは使用後、下水道を下水処理場へ流れますが、うんと細かいので処理場のフィルターを通過してしまって海へ流出します。元々、自然由来であるクルミアプリコットなどを微細に砕いて混入していたのを、プラスチックに代えたのです。「コストを落として大量に売れさえすれば、あとは知らねえ」との意図が見受けられます。スクラブ剤に自然由来のものに代えて、プラスチックを入れるこの反社会行為、つまりこの鉄面皮思想が社会の基底に流れていて、自分が得る利益が社会に負荷をかけることを気にかけない風潮が、タバコの吸い殻、ペット・ボトルなどのポイ捨てにつながっています。マイクロプラスチック・ビーズはしだいに禁止へ向っていますが、当然で、混入を採用した経営者には刑事罰を加えるべきでしょう。

コンビニやスーパーのレジ袋が有料化されました。しかし、その価格は低くすぎます。回収、処分の価格が盛り込まれていません。ペット・ボトルも同様にコストを考えれば、自動販売機の飲料価格を1本500円~1000円位にする必要があります。飲んだ後ボトルを捨てても良い価格になっています。我が家には2.0Lのボトルが約10本ほどあります。中身を使った後、洗って使います。勤務先の井戸水を汲んで帰って、飲み水として使います。ときに名水と言われる神社の地下水を汲んできたりします。空のペット・ボトルは2年間ぐらいは十分使えます。酒買いは、瓶に詰めた清酒が売り出されるまでは、酒徳利をもって酒屋へ買いに行き、樽から徳利に酒を入れてもらうものでした。いま酒屋には100種類ぐらいの瓶詰め清酒が並んでいます。選択肢は拡大したのですが、飲んだ後残った瓶が環境に負荷を与えます。ガラス、陶磁器のゴミとして出さなければなりません。紙パックの清酒や焼酎が増えてきているのは、良いことです。世の中見渡せば、プラスチックであふれています。「安いから」「便利だから」はその分社会に負荷をかけています。大量生産、大量消費の時代は、「汚染」という大きな荷物を社会、自然に背負わせているのです。コンビニへタッパ・ウェアーか鍋をもって、おでんを買いに行くことを想像してください。不便です。しかし、トレイは不要になります。割り箸は森林資源の無駄遣いだとして、食堂などではプラスチック製の箸を使い始めました。あれは間違いです。割り箸は森林の「間伐材」で作ります。森林は間伐しなければ、それぞれの樹木が太陽光の奪い合いをして、結果貧弱な成木しかできません。割り箸は間伐材を使うことで、森林の生育に貢献しています。原発の電力は低価格だと永らく宣伝されてきました。しかし、福島第1原発事故を受け、安全対策費、事故処理費、さらに使用後核廃棄物の処分費がそっくり抜け落ちて、と言うよりは意図的にカウントされていなかったことがわかりました。ペット・ボトル、コンビニやスーパーの食品トレイ、レジ袋、化学繊維で作られた衣服、その他あらゆるプラスチック生活用品、すべて同じ構図→回収、処理費用が必要費用なのに抜け落ちています。自動販売機のジュース1本500円~1000円は、極端な計算ではないのです。

結局、プラスチックを製造する企業に、出荷した製品の完全回収と処理費用を負担させる方法しかありません。プラスチックの価格は上がります。社会にとってはそれが適正価格です。そうしていれば、原料として木材や紙由来の代替え品が、価格競争力をもって開発されてゆきます。地球温暖化にばかり注目が集まりますが、地球のプラスチック汚染も同じ重要な問題なのです。

 

[ 追加プログ ]

今朝(11月7日)、日本経済新聞朝刊の26面に「プラスチック、肥料原料に」という記事が載っています。3大学共同研究で、プラスチックから肥料の原料を作る試みなんだそうです。プラスチックを分解する方法、再利用する方法、更に同じような性質をもった、分解可能な代替え品をつくる研究が急がれます。それまでは、プラスチックの使用を極力減らす努力も必要です。

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