災害の記憶と反省-その1 阪神淡路大震災

f:id:doiyanneko:20200206104703j:plain
f:id:doiyanneko:20200206105046j:plain
写真は神戸大学附属図書館>震災文庫>デジタルギャラリー  より

今年も1月17日、大震災を回顧する報道がかずかずありました。4半世紀が経ったという時の流れは、夢のようです。

当日まず朝のテレビ画面に、倒壊した家屋の上から母親を叫び捜している男性の映像がありました。これには恐怖をおぼえました。自身、水道の漏水などの点検で、縁の下にもぐり込んだことがあり、閉所恐怖症ぎみのせいもあって、今、地震が来たら・・・・と恐怖した経験が何度かあります。倒壊建物の下にとじこめられて、救助を待つひとの気持ちを想像してみて下さい。助かった人々が力をあわせて、救出した事例もあったようです。あのときノコギリよりも、大きなジャッキがあれば、うんと力を発揮したはずです。町内に消火器とあわせて、大型ジャッキを常備してはどうでしょう。こんなとき、電気の復旧は絶対にやってはいけません。閉じこめられた人々への、放火殺人行為です。一面燃料山積み状態と化した町に、電気を通すのは、それに点火する行為です。地震火災の消火に加えて、通電火災まで対処しなくてはならなくなります。ガレキの下、身動きできないまま、火の手が迫ってくる事態を想像してみて下さい。「電気を通せ」と要求するのは、助かったひとのエゴ。エゴを通り越して犯罪です。5日や1週間、暗闇の夜も、エアコンもガマンすべきです。倒壊家屋下敷きの人命救出が最優先です。また、報道機関のヘリコプターが、風で火災をあおる、捜索の声を邪魔するとの批判が相次ぎました。ひとつの映像を各社で共有することで、飛行を最小限にとどめる協定ができたようです。

震災から2日目にわたしは徒歩で被災地へ入りました。国道には救援物資搬入のトラックが渋滞、1メートルも動かずエンジン音が地響きを立てて連なっていました。反対に、外へ向かってバイクやクルマに乗り合わせて逃げていくひとも多くおられました。「遺体搬送中」と書いたライトバンも外へ向かっていました。今から考えれば、被災地に避難所を設けて、そこへ救援に向かうことは間違いだったのではないかと思います。ライフラインも道路もダメージを受けている被災地の中心へではなく、近隣の都市へ被災者を移動した方が、よほど行き届いた救援ができます。とくに倒壊家屋から救出されたクラッシュ症候群の患者さんは、人工透析が必要だと聞き及びます。断水した壊れた病院よりも、無傷な近隣都市の病院への搬送がベストです。被災者が現地にとどまりたい気持ちはわかりますが、現地では社会による救援に無理があります。当日被災地をたずねたあと、電車で30分、大阪・梅田へ着きました。音楽が流れ、高校生たちは笑ってハシャぎふざけ合っており、ひとの流れも平素と何ら変わりません。30分前の地獄とくらべて、これはいったい何なんだと思いました。行政は普段から、市営住宅、民家の空き家数などを把握しておいて、被災しなかった町は、災害時には被災者を即座に受け入れるべきです。被災地の中へではなく、外への発想が必要です。

震災後、建築基準法の見直しなど建物の対策はすすんだようです。難しい問題として残るのは、消火の水を確保する方法です。ダムや地下の貯水池、防災井戸の設置など消防関係に課題が残っています。