夭逝 その3 - W先輩

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広告サークルの論文集

学生時代、W先輩がサークルの冊子に載せられた一文に、私は大きな衝撃を受けました。広告活動の論文集に「商業美術雑感」との題で、「創造」がいかに大切なものかを述べられました。広告の商業デザインについての記述ですが、書かれている芯の意味は、およそ文化、芸術全般に通ずる創造の大切さでした。以後「creativity、創造」が私の人生の主題になってしまいました。いま読み返してみても、その真摯な情熱に胸を打たれます。

2年先輩のWさんは、広告会社に就職され、東京で活躍されているのを知って、わたしのなかに「W先輩の背中を追いかけていこう」という気持ちがあつたことは確かです。ところが私が卒業間近の立春の日、事故死されました。遠くに明瞭に見えていたともしびが、ふッと消えて真ッ暗闇に。喪失感の次に、人生の不条理、むごさを覚えたものです。あの情熱、整然たる論理、特筆すべき美観、独創性。すべては消えてしまいました。

1960年代70年代の広告界は、広告文化と呼べるものでした。文筆界、写真界、図案界、映像界など多彩で個性的なサムライ達が突入し、楽しさであふれていました。美しい、心地よい、ウーンとうなりたくなるような素敵なアイディア、ワクワク感・・・。しかし広告界は80年代になって徐々に変質し、お笑いものやダジャレのような軽薄な世界になりました。広告は品性を失い、格調は下落の一途、W先輩が広告界で活躍されつづけられていたとしたら、どうされたか予測がつきません。が、創造への情熱は、非凡なもので、生きておられたら、別の世界で何かを達成されたと信じています。私の青春時代、巨星を仰ぎ見ていたような思い出です。

卒業以後、私は目指して歩き始めていた道から、家業に引き戻されました。いちばん就職したくない会社の代表取締役の印鑑を無理やりもたされて、七転八倒苦悶の日々でした。中年になり、少しゆとりを得て、学生時代に活動していた音楽を再開するにつけても、演奏ではなく曲の創作に向かったのは、自然なことでした。「創造」のおかげで豊かな人生を過ごせたと感謝しています。

 

才能、才覚のある有望な若者が早世することを、夭逝というのでしょう。「生きていれば、かならずや大成したのに」との惜別を込めてつかいます。人生にはドンデン返しや、あらぬ方向への展開など、なにが待ち受けているかわからないものですが、20歳やそこいらでの死は、もしも死ななかったらという気持ちが強くのこります。

亡くなったひとのことを書くことは、後ろめたい気がします。こんなこと書いていいのかと自問します。そっとしておいたほうがとも思います。ただ、死去する前に、激しく輝いた事実は胸を打ちます。忘れ去るわけにはゆかず、ひとりでも知ってもらいたくて、この夭逝1、2、3をブログしました。反面、みずからをかえりみて、たいした成果も出せず、いたずらに馬齢をかさねて、生きながらえている自分が、「 何なんだ ! 」とも思えてくるのです。