辨慶の伝承

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辨慶石         由来板

京都市中京区三条通御幸町近辺は「辨慶石町」という町名です。御幸町通りを西へ北側のビルの下には「辨慶石」なる石がすえられています。男の子が触れると、力が強くなれるといい伝えられています。この石は衣川の戦い、主君源義経と辨慶が、終焉の地となった奥州衣川にあった時「ふるさとへ帰りたいと」泣き、ひとびとに熱病が蔓延しました。そこで辨慶の生誕の地とされている、この場所へ戻されました。それで熱病はおさまったそうです。武蔵坊弁慶は実在の人物のようです。比叡山の僧兵だったころから暴れていた相当のワルで、他人から刀を奪っていたとき、最後に奪おうとして負けた牛若丸(のちの義経)の家来となりました。その忠臣ぶりは歌舞伎の勧進帳などで有名です。なにしろ怪力豪傑の伝説は全国に多く残っています。日本史に登場する逸材のことは、多くは芝居や講談、落語、絵草紙など、一般娯楽によって語り継がれてきました。われわれがいま、歴史をおベンキョウとして学び、試験で点数をとる行為とは真逆の、おとなも子供も、娯楽として限りなく夢ふくらむ武勇伝、悲劇、教訓話しだったに違いありません。史実からは誇張やブレはあるにせよ、民のあいだに流れている伝承を、古典芸能やいい伝えから学ぶのも、よい風習ではありませんか。