職人仕事について

ロシアのウクライナ侵攻が長引いています。時折、穀物輸送の動向などに関して、黒海の情勢が取り上げられ、地図上でエーゲ海から地中海へ通じる狭い水路、トルコのイスタンブールがテレビ画面に出てきます。そこで思い出すのは、当方の家業でお世話になったS大工さんです。オヤジさんの時からの出入りで、彼は工業高校、建築科の生徒だった時から、手伝いとして来ていました。高校卒業後、オヤジさんとふたりで、いろいろと建物の修理などに尽力してくれました。オヤジさんが亡くなってからは、当店でももちろん出入りの大工さんとして、活躍してくれました。現在は移転して新築ですが、実は5年前まで当方の家業は、明治時代の建物を使っており、ある意味で「装置産業」でもありました。私の仕事は、建物の修理などの経費をいかに安く押さえるかが、経営手腕の重要点でした。ですから、この大工さんを通じて、質的に高度な要求をしながら、いかに安く仕上げるかに腐心していました。いつも、彼と厳しいせめぎ合いをしていた思いがあります。他にも出入りの得意先はあったでしょうが、連絡すればすぐに来てくれるほど、当方のウエイトは高かったはずです。あまり儲けさせてあげた記憶はなく、彼に息子はふたりおりましたが、後を継いで大工になろうとはしませんでした。思い返すと厳しすぎたのかと自身に罪悪感を覚えます。このS大工さん、晩年仕事も少なくなってから、「イスタンブールへ旅行してきました」と言いました。話を聞くと、若いときから西洋史が好きで、いつも調べていたと言います。「現地をあれこれ見て、大満足」だったとも言いました。これが私にはからだの芯に響きました。「これこそが教養だ!」と。大工に限らず、技を極めた職人さんには共通の持ち味があります。学校でのお勉強ではなく、現場での修行、知恵に醸成された「もののわかり方」、これが本当の「教養」です。S大工さんは二級建築士の資格をもっていました。しかし、そんなペーパー・テストで得た知識よりも、オヤジさんから叩き込まれ、「差し金」「墨壺」「鑿の使い方」「木材の性質」「墨付け」など経験から取得し、蓄積された「ものの見方」が教養を作ったのだと感じます。オヤジさんはむずかしい場所に溝を掘るとき、独自に大工道具を作って作業したと言います。キラリと光る「創造性」です。そしてその息子は仕事とは別に、西洋史に興味を持って勉強していた。このとき、私は伝統職でもある職人さん達が身につけている「知恵」すなわち「教養」の意味がわかった気がしました。

今年5月に私は癌の摘出手術を受けました。癌を見つけてくれた病院からは「当方ではとても手に負えない」と匙を投げられ、即刻大学病院へ送られました。そこで手術の説明を受けたのは、外科チームのトップ、親玉とも言える教授からでした。詳しく詳しく手術の説明をするその教授は、何となく楽しそうにその手順を笑顔で話すのです。そしてニコやかに言います「手術を受けるのも、受けないのも選択肢。どちらを選びますか?」。私がこの教授に感じたもの、それはまさに「職人魂」でした。聞いていて「このひとに生命を委ねても大丈夫だ」との思いがわき上がってきたのを覚えています。手術を受けない選択をしていたら、おそらく今、私はこの世にいないでしょう。この教授に感じたもの、それは35年ほど前、同じ大学病院で母が肺癌の治療を受けたとき、担当の「医学部教授」に接して感じた高圧的、権威的感覚とは真逆のものでした。この手術チームの頂点におられる教授を「職人」と呼ぶのは失礼かも知れません。しかしこの時私がこの教授に感じたものは、ベテラン職人さんがもっている雰囲気、培われた経験、すなわち仕事を通じて会得された職人さんに共通の「自信」でした。これを「教養」と言って良いのではないかと思います。

明治以来、日本人は良い収入を得るため、ひとの上に立つため、自らの人生の安心のため、お勉強に励み良い成績を取り一流大学へ進むことが、その方法だと勘違いしてきています。世間では職業が「管理」と「現場」に二分されています。若者が大学進学に殺到し、「管理」の仕事に殺到し、就職先がないという状況が起きています。反面「現場」では人手不足が顕著です。これは何を意味するか? もうそろそろ「現場」を大切にし「職人」を大切にしてゆく方向へ舵を切ることが、この国の未来をきめるための大切なポイントだと考えています。「現場」を大切にし、職人仕事を尊敬し、収入を良くして、働くこと生きることの意識改革が必要です。皆さん「現場」が手薄になると、大変な事態を招きますよ。いや、もうそれは多方面で起こっています。食糧、運輸、医療、介護、建設、機械、・・・ETC。日本人がここに早く気づいて欲しいと思っています。

かくも長き休暇

4月に発病し5ヶ月が経ちました。病気療養とはいえ、これほど長くお休みするのは初めてのことです。まだ3ヶ月は続きそうです。こんなトシながらまだ退職はしていません。わずかながら薄給を食んでいますので、休暇扱いです。今日、たまには日光に当たらないとダメだと思い、雑草のあいだに座ってみると、小さな蝶々がヒラヒラ飛んでいました。それで思い出したのが画家、熊谷守一です。97歳まで生きた守一ですが晩年の18年~20年間、40坪ほどの自宅から、一歩も外出しなかったといいます。若い頃から、夫人や周りの人から「どうか絵を描いて下さい」と常に懇願されながらも描けず、グータラ生活を続けました。私も退院から2~3度自宅近辺に外出しましたが、ほとんど家に居ます。食って寝て、落ちた体重を回復すべくリハビリの毎日とは言え、「これ穀潰しじゃないか」と思ったりします。絵が描けない守一は、当然極貧の生活で、5人の子供をもうけたものの、3人を失っています。次男の「陽」が肺炎に罹っても医師へ支払う金がなく4歳で亡くしました。絵が描けなくて苦しんでいた守一ですが、その時急に狂ったように絵筆をとり、布団に横たわる「陽」の死に顔を描きました。画面全体が荒いタッチの「陽の死んだ日」は、何とも鬼気迫るものがあります(大原美術館蔵)。その4年後には、三女の「茜」も病死しています。長女「萬」が21歳、結核で亡くなり、火葬場からの帰りを描いた作品、「ヤキバノカエリ」は、野辺を中央右手に守一らしき人物、その左に骨箱を両手で抱えた男の子、その左に小さな女の子が衣服か布団のようなものをもって、歩いている絵です。晩年の守一画の単純化されたタッチで、画面全体に寂しさと悲しみがみなぎっています(岐阜県美術館蔵)。70歳に近づいたこの時期あたりから守一は、子供が描く絵のように単純化された絵を描き始めたようです。「ヤキバノカエリ」に見られる、単純な輪郭と色使いが守一画の転機になったのかも知れません。カエル、蟻、蝶々、猫、花、野菜などなど旺盛な制作意欲で死ぬまで書き続けました。ただ、次第に世の中の評価が高まっても、その仙人生活に変化はなかったようです。

日光浴にと、雑草のあいだに座った目の前を、ヒラヒラ飛んだ蝶々から熊谷守一に思いが及び、何もしない毎日の自分と、守一の仙人生活に思いを巡らすことになりました。毎日私の療養生活も、変化はありません。長い人生に思いがけなく訪れた「仙人生活」として、神様からプレゼントされた「かくも長き休暇」。これも人生の一ページとして、粛々と過ごすしかありません。長らえた命に感謝を込めて。



 

 

夢の世界

これまで生きてきた現実世界が、今年5月から「夢の世界」に変わってしまいました。事情は親しい友人や、身内の人間には知ってもらっていますものの、人生の回り舞台がクルリと180度回ってしまった感じがあります。5月15日以降、プログを更新していませんのに、日々、多くのひとが我がブログ・サイトへ訪れておられるようです。過去のプログも含めて、読んで戴いているのでしょうか。5月以降は常に「死」が伴侶のように傍らにあり、未来は頭に浮かばず、過去に過ごしたひとびと、特にすでに逝ってしまったひとびとのことばかりが頭に浮かび、夢の世界を懐かしんでいる状態です。健康に生きてこられたこと、ここまで長生きできたこと、ひとりの人間としてまがりなりにも大過なくやってこられたこと、感謝感謝であります。この「夢の世界が」もとの「現実世界に」変わる時、ふたたび皆さんにブログを読んで戴く日が来るのでしょうか。周り舞台がもう1周180度回るのかどうか、ひとごとのように眺めています。





 

神様、仏様

「神様、仏様、稲尾様」。これは1958年の日本シリーズ三原脩監督率いる西鉄ライオンズが、読売ジャイアンツ(巨人)に3連敗し、次の2戦を連勝、あと1勝でタイ。2勝すれば大逆転で日本一のフラッグを手にすることができる状況で、地元福岡のスポーツ新聞見出しに書かれた言葉です。「神様、仏様、稲尾様!」。

前年1957年、稲尾和久投手はシーズン中20連勝をふくむ35勝。この年は33勝を上げています。現在の中5日や中6日登板からは、信じられない勝利数です。このシリーズも7戦中6戦に投げ、絶対のエースでした。ひとは絶体絶命の窮地に追い込まれたとき、自分の力ではどうにもならない現状を、何とかして欲しいと願望します。それが「神様、仏様」との言葉になります。

我が家には神棚がひとつと、仏壇がひとつあります。勤務先の仕事場には、祠がひとつと神棚がひとつあります。仏壇には毎朝、水をお供えし過去帳をその日に合わせ、線香を焚いて手を合わせます。毎月1日と15日には、祠と神棚の榊を取り替えて、水、お神酒、米、塩、赤飯をお供えし、二礼一拍一礼します。ここで神様と仏様(ご先祖様)に対峙するわけですが、「何とかして欲しい」とか「助けて欲しい」といったお願いはいたしません。苦しい時期ももちろんあるのですが、痩せ我慢を張って、お願いはせず、毎日の「平安」と「無事」の感謝を捧げます。もうひとつ、お客様の安全も祈ります。

宗教とは「祈り」「願い」ですが、現世ご利益つまり「良い方向へ向けて欲しい」というのと、感謝「平穏・無事」を祈り、感謝するとの2つの面があるように思われます。今の所、私には現世ご利益ではなく、感謝を捧げることが宗教、つまり神様、仏様への向き合い方になっています。そりゃー私にも欲はありますし、イイ目もしてみたいけれど、いつも痩せ我慢を張って、感謝をするのが「神様、仏様」への対峙姿勢になっています。こんな風に、ちっとも頼ってこないヤツは神様、仏様にとって可愛くない存在かも知れません。

毎日報道されています、山梨県道志村で当時小学1年生の小倉美咲さんが行方不明になった事件、私がブログで余計なことを言って、捜査や社会の方々に影響することは懸念しますものの、私の小さな体験をひとこと。

高校生の頃、山岳部にも所属していた私は、ある日独りで京都市の西にある愛宕山へ登ってみることにしました。山陰線の保津峡駅国鉄を降りて、水尾から登り始めましたが、途中霧が出はじめ、視界が30メートルほどになってしまいました。そこで道に迷い、歩けど歩けど道はだんだん細くなって行きます。焦りはじめ、元来た道へ引き返しますが、いくつも分かれ道が出てきて、自分が来た道がわからなくなってしまいました。そして突然、恐怖に襲われました。そうすると動転してしまい、冷静に考えることができなくなります。焦りと恐怖にさいなまれ、ついに走り始めます。愛宕山京都市亀岡市の中間に立つ千メートル弱の山です。斜面を東へ降りれば京都市へ、西へ降りれば亀岡市へ、南へ行けば保津峡・老ノ坂国道9号線で、余程運悪く北へ向かっても京北町周山へたどりつくはずです。ところが動転すると、これらの判断はどこかへ行ってしまって、山奥へ山奥へ向かっている恐怖心に駆られます。走って走って疲れ果て、最終的に運良く、元来た水尾近くまで降りることができました。水尾では霧が晴れて、保津峡駅になんとかたどり着いて助かりました。それから教訓を得ました。①どんな小さな山でも、地理を知らない場合は「絶対に単独行はしない」→もしも、斜面から転げ落ちたり、怪我をしたときも独りではどうしようもない。②迷ったら一度立ち止まって冷静になるまで休憩する。③沢をみつけて水の流れに沿って下山する。水は最終的に海へ向かって流れている。

などです。

今回、道志村の山中で見つかった骨や靴などは、キャンプ場からかなり離れて、尾根を越えた沢で見つかっています。「小学1年生が、そんな距離を移動するのは考えられない」という意見も多く見られますが、私は、バニックになった時には、それ位は十分な移動距離だと思います。事件の可能性も視野に入れて調べられています。私の意見としては、道に迷えばあり得る距離だと感じました。ただこれは、私の個人意見として、参考にして下さい。美咲さんのお母さんが、神様、仏様に「無事帰ってきて、平穏な生活に戻れますよう」と祈られたのに残酷な結果になったようです。美咲さんの恐怖、孤独を思うと言葉にできない思いがあります。山の恐ろしさを皆さんに知って戴きたくて、書き加えました。

庭のサクランボが小さな実を付けています。



 

 

静かな日常

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今朝(4月3日)の朝刊、沢木耕太郎の一文があり、読んで(フフン、そうだネ)と思いました。沢木が東北のある都市を訪れ、夕食をしようと居酒屋を探していて、街頭でキャバクラの客引きから思いがけず教えられた店に行き、良い料理と酒に出会えた話しです。思えばこの3月、私は4本のブログを書いていますが、それはウクライナ戦争のことばかりでした。侵略戦争、爆撃の凄惨さに怒り狂って、プーチンのアホ行為を黙っていられませんでした。大体ブログやエッセーなんてものは、日常の何げないシーン、ちょっとしたこころ温まる小さな出来事をお洒落に書くものでしょう。読んだひとに(フフン、そうだネ)(ハハァ、いい話しだ)と思ってもらえば十分の行為です。私はこの3月は侵略戦争に感情を激昂させていて、ずいぶん逸脱していたと反省します。高校時代、授業中机に伏せて寝てばっかりの友人Sクンがいました。成績は悪かったのですが、音楽や映画、文学の他人が気づかない面白いものを見つけてくるのに長けていました。30代の頃、「面白い本があるヨ」と彼が教えてくれたのは、沢木耕太郎のノンフィクション「人の砂漠」でした。兄の遺体に添い寝して暮らし、餓死したお婆さんの話しや、天皇陛下を新年参賀の時パチンコ玉で撃った男、皇太子殿下ご成婚パレードで石を投げつけた少年のその後の人生を取材した話しなど、実にショッキングな内容でした。面白かったので更に本屋で「敗れざる者たち」を買って読んでみると、私が野球少年だった頃憧れた毎日オリオンズ榎本喜八選手の知られざる奇行に胸打たれ、1964年東京オリンピツク・マラソン銅メダルの円谷幸吉選手がメキシコ・オリンピックを前に自殺した経緯、その遺書の記述があり、やり切れない想いで読んだものです。沢木耕太郎はルポ・ライターとして出発し、10年ほどして日本社会党委員長浅沼稲次郎の刺殺犯を描いた「テロルの決算」で大宅壮一ノンフィクション賞を受賞して作家として認められます。「敗れざる者たち」は浅沼事件の3年前、「人の砂漠」は2年前に出版された作品で、まだほとんど無名だった沢木が、特異な人生をたどった人々を、好奇心に突き動かされ必死になって取材した熱意が随所に感じられる書物です。自暴自棄になった榎本喜八が猟銃をもって部屋に立て籠もったとき、奥さんから連絡を受けたプロ野球入りの恩師、荒川博が駆けつけて部屋へ入ると、天井へ向けて発砲したエピソードなど、まさに尋常でない出来事を次々に書き連ねた作家でした。その沢木が粋な客引きに出会って、思いがけない居酒屋で飲食できた幸運を、旅の醍醐味だと何でもない話しを何でもなく書いています。戦争の惨状を伝える映像や、人生の極端な不運、不条理、悲劇を追っかけて書くのではなく、日常に出会った小さな出来事に、人生の味を噛みしめることができるのは、何て良い事なんだと思えた朝刊の一文でした。沢木耕太郎を教えてくれたSクンは4年前に亡くなりました。人生のいろんな出来事が、我が身に沁みるのを感じるこの頃です。戦争も終結して早く平穏な「静かな日常」を取り戻したいものです。



 




大っき過ぎるのは良くない

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写真はクレムリン天安門 Pixabayから

世界地図を開いてみると、ユーラシア大陸の北にロシアという大国があります。その南、中央部にはまた中国という大国があります。我が日本国の領土よりも何十倍も広いこの二大国を見ていると、私はひとつの感慨に襲われます。それは私の半生にわたる格闘から導かれるもので、(よくまあ、こんな広い国を統治しているなァ)との思いが湧いてきます。

物事には何事にも「適正規模」というものがあって、大き過ぎても、小さ過ぎても上手く行かないものです。私は経営する我が家の家業を、5年前に縮小しました。装置産業と言えるような家業ですが、先代(我が親)は虚栄心のかたまりのような人でして、目いっぱい背伸びをして業種としては桁外れの広さの土地を手に入れ、無理に無理を重ねて経営を続けていました。業種としての適正規模をはるかに超えた経営が上手く行くはずがなく、いよいよ行き詰まり、学校を出て別の道を歩んでいた私が、自分の道を断念して、代わって経営しなくてはならない羽目に陥りました。当時、日本は高度成長期の真っ只中、朝、昼、夜、睡眠時間も削って、滅茶苦茶大車輪の忙しさ。そうして何とか借金も返せたころから、敷地規模の過大が重荷になりはじめました。それから約30年間、ほとんど利益も出ず、それでもなんとか借金も増やさずやってきましたが、振り返れば家業の維持に時間を浪費しただけの、虚しい想いが悔しく残ります。(いつまでも、こんなことを続けていられない)と思い立って、7年前に土地建物を売却、以前の土地面積の10分の1以下の面積土地を市中に購入、建物を建設し移転、5年前から営業を再開しました。そこへ2年前から新型コロナ・ウイルス蔓延、我が家業の業種はモロに影響を受け、売上げは激減しました。あのまま以前の規模で経営を続けていれば、間違いなく倒産していたはずです。しみじみと感じます。(過大な規模のものを所有していても、良いことは何もない !  )。昭和はじめ頃から日本国も領土拡大に邁進しましたが、確保したその領土維持に大変な思いを味わい、やがて後退を余儀なくされ、最後は国土が焦土と化しました。「身の丈を知る」のがいかに大切か経験したはずです。

ロシアのプーチン大統領は、1721年から200年間にわたったロシア帝国の復活を夢見ているようです。今回のウクライナ侵略を見ていると、帝国とそこそこ同じ規模だった、ソヴィエト連邦崩壊を目の当たりにした悔しさに怒り狂った所業に見えてきます。ソ連時代の不自由と、統制国家運営に懲り懲りした東欧諸国のロシア離れ、NATOへのなびきの原因を反省もせず、ウクライナという逃げた嫁ハンを追いかけて、力ずくでヨリを戻そうと焦っているような無様な姿が見てとれます。また、中国、習近平国家主席は、ユーラシア大陸の大部分を制圧したチンギス・カンよろしく、その広大な国土とともに、強大な経済力、軍事力を誇っています。自国の領土でもない海洋に人口島まで作って、近隣諸国と摩擦を起こしています。プーチンのモチベーションには、かって大繁栄した帝国への浅ましいまでの回帰、郷愁が感じられます。ジョージアチェチェンウクライナといった離反国に対し、執拗なまでの非人道的対処は、スターリンの粛正にも共通する残酷さを感じます。習近平新疆ウイグル自治区住民への圧政、チベット自立を目指すダライ・ラマ政権への威圧、南シナ海への進出は、飽くなき領土拡大欲求とも見て取れます。私は言ってやりたい。「プーチンよ、去る者は追わず、手放しなさい。南樺太も、北方四島も日本へ返してしまいなさい。感謝されて何もかも上手く行くよ。習近平よ、そんなに拡大ばかりに向かっていると、やがて崩壊するゾ。拡大欲求とは、虚栄心とメンツの裏返し。ウイグルチベットも独立国として認めて手放し、領土をいったん縮小してみろよ。ずいぶん楽になって、こころ休まるよ。君達はそれでも十分広大な領土をもっているんだから。アメリカだって大きすぎて、国民が二分されて困っているんだよ」と。

ウクライナ戦争2-民間人を殺すな !

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写真はPixabayより

2022年3月19日現在、ウクライナとロシアとの戦闘員同士の戦いは、膠着状態だと報道されているものの、非戦闘員である民間人への爆撃はますます激しくなってきています。そもそも民間人は戦争とは関係がないのです。18世紀ごろまでの戦争は、主に戦士同士の戦いでした。主にと断ったのはもちろん例外もあって、蒙古帝国のチンギス・カンなどは、武器を持たない農耕民を襲撃し収穫物を略奪しました。彼は「男の楽しみは殺戮、略奪、強姦だ」と言ってます。日本での関ヶ原の合戦のイメージでは、武士が東西に別れて戦い、近隣農民はクワをかついで、近くの丘の上から髙みの見物といった感じでした。19世紀に入って、ナポレオン戦争の後ぐらいから、男子には愛国心が求められ、普段から軍人でない男達も戦争に参加させられることになったようです。それは一般民衆が階級闘争の末の革命によって、君主や貴族から自立し、国民意識が国家を成立させた結果、国家間の戦争は兵士だけにとどまらず、一般市民をも巻き込んで行くことになります。19世紀始めの戦争から、気球が偵察に使われ、やがてエンジンをつけた飛行機が登場すると、偵察からしだいに爆撃への試みがなされて1920年代には航空母艦が建造されます。第一次、第二次世界大戦は、都市を砲撃・破壊する戦争となり男女年齢関係なく、非戦闘員を殺戮する戦争になってしまいました。今回ロシアのウクライナ侵攻でも、プーチンは「虐殺され、しいたげられている人々を救うための戦争」だと言いながら、その人々を砲撃するという辻褄の合わない行為を行っています。太平洋戦争の終盤、米国ルーズベルト大統領はマンハッタン計画と称する「原子爆弾開発」を命じました。開発が成功すると、はじめての核実験から1ヶ月もたたない1945年8月6日、ルーズベルト病死後就任したトルーマン大統領は広島の市街地中心部へ原子爆弾を投下しました。さらにその3日後、長崎へもうひとつ原子爆弾を投下したのは、広島のウラン型原爆と並行して開発していたプルトニウム型原爆も試して見たいという意味がありました。戦争を早期に終結させるためとの言い訳ですが、生身の人間が生活している都市の中心部への投下は、人的被害の実験場でもあったのです。すでに日本外地では日本軍が瀕死の状態まで追い込まれていたにもかかわらずです。1945年3月に入ると東京、名古屋、大阪、神戸の人口高密度地域へと相次いで大空襲を行いました。米軍は沖縄上陸後、沖縄日本軍を壊滅させ、県民の死者は10万人近くに上りました。どう考えても、軍人同士の戦争ではなく、いかに多くの民間人に被害を出すかが戦争の目的になったとしか考えられません。世界史を俯瞰すれば、一面では争いの歴史でもあります。最初の武器は投石や棒、やがて太刀、槍から弓矢となり、銃という火器の発明はそれを所持するしないで、支配、被支配を明確に分けました。銃を持って現れた西欧人に対して、槍や弓矢で抵抗してもアフリカ原住民に勝ち目はなく、奴隷貿易を成立させました。アメリカ新大陸の発見、米国の立国も銃による先住民への駆逐によってなされました。武器は銃にとどまることなく、大砲、爆弾、地雷、ミサイル、核兵器へと移って行きました。いま、ウクライナではミサイルによる爆撃が主とした攻撃です。誘導爆弾は目標に正確に着弾する爆弾だそうですが、ロシア軍はそれを使い切ったのか、あるいは高価だからか(無誘導爆弾の10倍高価)、はたまたわざと無差別攻撃を企てているのか、圧倒的に多数の無誘導爆弾をミサイルで打ち込んでいます。結果は非戦闘員の想像を絶する惨状です。

こうなってくると、どうしても考えてしまうのは、「神」の存在です。この現状は神の意志なのか、神はいるのかいないのか。ひとはいつも神に祈ります。神に頼ります。しかし、このむごい状態は何なのか。宗教論、神学論に行き着きます。そして、戦場よりも遠くにいる我々は何をすればよいのか。攻撃を続けるロシア(プーチン)を非難したり声明を出したり、いくら宣言を出しても始まりません。しないよりはマシと言う程度の、犬の遠吠えのようなものです。避難民への食料、衣服、医療品などの支援はもちろん大切です。しかし、事ここに至っては、夜間の状態をトレースできるレーダーは当然のこと、世界はウクライナへの武器だけでなく、軍用機の供与も行うべきです。ウクライナ政府からの志願兵呼びかけに、日本では元自衛官を中心に70名ほどの民間人が応募しているとの報道があります。日本政府は応募を認めず、取り下げるよう呼びかけています。本気で支援するのなら、知らん顔して応募の黙認をすべきです。「憲法!憲法!」なんて言わずに、武器も含めた実効性のある協力が何よりも必要です。