ウクライナ危機

 

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福島原発事故-資料

昨夜はよく眠れませんでした。ウクライナへのロシア侵攻はすでに一週間に及びます。首都キエフ、東部の都市でも戦闘が激化し、ロシア軍は進撃しつづけています。18歳から60歳のウクライナ男子は民兵として銃を持って戦っています。戦いが一週間にも及びますと、食料や武器弾薬、燃料などの補給が気になります。3日目ぐらいに食料品が店の棚から消えた映像がありました。欧米諸国から食料と武器弾薬が補給されると報道があったものの、それは誰が、どのルートで、どの交通手段を使ってと心配になります。兵士だけでなく、女性、老人を含む民間人も大勢取り残されています。気温は夜、氷点下になるようです。トラックなのか鉄道なのか、どうやって運ぶ。運搬中に攻撃は受けないのか。心配すればキリがありません。また、都市を取り囲んだり、道路に隊列を組んでいるロシア兵たちも、同じく武器弾薬、食料はどうしているのか。後方からの補給はあるのか。そして、これが戦争なんでしょう。インパール作戦、補給なしにビルマのジャングルで壊滅した日本軍の悲劇を思い出しました。マニラ市街戦アメリカ兵がつぶやいていた言葉も思い出します。「戦争をオッ始めた奴に戦争をやめさせるには、そいつをこの最前線に連れてくることだ。弾の飛んでこない後方から命令を出していては、戦争の悲惨さはわからない」と。この時、後方から命令を出していたのは、ダグラス・マッカーサー。以前、日本兵からマニラを追われた時、くやしさ余って吐いた言葉が「I shall return」です。マニラを奪還する彼の意地のために、民間比人10万人、日本兵1万2千人、米兵1千余人が死にました。

このブログを書いている現在(3月4日)、ロシア軍がウクライナ原子力発電所を攻撃し始めたというニュースも入り始めました。原発に着弾すれば、チェルノブイリ原発事故の10倍の被害が出るとウクライナは警告しています。世界では民主主義体制国家と専制義体制国家の対立が際立ってきました。冷戦時代は資本主義体制国家と共産主義体制国家の対立という図式でした。資本主義が自由主義に言い換えられ、専制主義国家は共産主義だけではなくなりました。と言うより、純粋にマルクスレーニンが標榜した、土地や生産設備を所有する特権階級から、農奴や労働者を解放するという根本理念はどこかへ行ってしまい、逆に国家の正義が一部の独裁者に利用されて、権力の集中を招いて専制主義に国家が乗っ取られている現状です。この自由主義専制主義の対立は、宗教戦争の様相を呈し、相手の立場をまったく理解しない構図です。宗教戦争は、自らの正義(神)と相容れない正義(神)を全否定、一神論による排他性は歩み寄りなど不可能です。宗教戦争は収拾が付かないと言われる所以です。頭の上に押し頂く神(信念)の相違は、相手を邪教すなわち悪として、まったく許容性を持ち得ません。

加えて、肉食を中心とする人々は、得てして血の気が多く、闘争心が強烈です。日本人のように草食・魚食中心で生きてきた民族のように、「和をもって尊しとなし」得ないのです。ウクライナの男性たちが、武器を手にして勇敢に戦い、隣国からも戦うために自国へ戻る姿を見ていると、その捨て身の姿に感動すると同時に勇ましさを感じます。これはそうなってみないとわかりませんが、国土侵略や身に危険が及んだ時、日本の男性たちがはたして、武器を手に積極的に戦うかどうか、考えてしまいます。これは私のように平和な時代をノホホンと生きてきて、もはや戦場へ駆り出される恐れが少ない、後期高齢者が偉そうに言えたものではありませんが・・・・・。この相容れない対立、有効な解決方法はあるのでしょうか。

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鴨川の鴨の群れ-日本は平和です

フォーク・ソング日本上陸後

 

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前回、アメリカ60年代フォーク・ソング・ブームのことをブログしました。その頃、私のように日本でもAmerican Folk Songを歌っていた人たちがもちろんいました。そのFolk songが日本上陸後の展開を、今回は、和製フォークとして私にわかる範囲で記述します。ただ、当時活動していたグループや歌い手は、プロの歌手、作詞家、作曲家になって和製フォークの表舞台に登場しました。それを実名を挙げて書くことは、本人の了承も必要で、了承なしに書くことは何かと問題もあり、個人名は避けて、歌の題名を中心にして書くことにします。事情をご存じの方々には、それぞれ個人名がわかるはずですが、そこはご想像にお任せします。

1960年代アメリカのPOPS音楽シーンでは、フォーク・ソングが大変な盛り上がりを見せていました。日本の音楽産業も、これを手をこまねいて見ているわけにはゆきません。66年、そこで発売されたのが、「バラが咲いた」でした。また同年、テレビ番組の同名の主題歌として「若者たち」が続いてヒットしました。両曲ともアメリカのフォーク・ソングのように、歌手が作詞・作曲したものではありませんでしたが、日常を歌ったものとして、これがフォーク・ソングなんだと世の中に受け入れられました。歌い手は学生時代からAmerican Folk Songのグループで活動していたひとびとでした。

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翌年の67年、特筆すべきことがありました。私たちと一緒に京都のフォーク界で歌っておられた1年先輩のO氏が、留学をされるのにともない、グループ解散の記念としてLPレコード「The first  and  last」を制作、発表されました。その中に日本民謡として「竹田の子守唄」が入っています。この曲は、採譜したのは誰かとか、元旋律はどうとか、被差別部落の歌なので放送禁止とか、何かと悶着の多かった曲です。しかし、合唱団「麦」が歌っていたのを評価し、この曲を歌って最初に録音したのはO氏であり、それを聴いたAグループが71年に「翼をください」のドーナツ盤A面に吹き込んでヒットさせたことは間違いありません。またこの時代に、アマチュア・グループがLPを制作・発表するなんて仰天の出来事。そのことは同じ67年、それに続いた和製フォークを転換させた大ヒット曲「帰ってきたヨッパライ」が収録されたLP「ハレンチ」の制作につながります。「ヨッパライ」がラジオで流されると大反響を呼び、各レコード会社はこぞってフォーク・ソングは商売になると力を入れ始めます。アメリカン・フォークに則って、「貧困、放浪、反権力」に加え「フツーの生活内容」も日本のフォークとされました。68年「山谷ブルース」、69年には反戦歌として「坊や大きくならないで」「戦争を知らない子供たち」、71年「教訓」が出ます。また、フォークは貧困を歌うんだとして、ショボい生活を歌った四畳半フォーク、69年「時には母のない子のように」72年「赤色エレジー」73年「神田川」となり、生活の歌としては71年「自転車に乗って」「カレーライス」「雨が空から降れば」、そして「ヨッパライ」に端を発した日本独特の奇怪歌73年「氷の世界」74年「闇夜の国から」が発生しました。

この間にもうひとつ特筆すべきは、楽器メーカー「ヤマハ」が行った「ポピュラーソングコンテスト」(略称「ポプコン」)と呼ばれるコンテストです。もともとはプロ歌手のコンテストだったのが、途中からアマチュア歌手の登竜門となり、多くの才能を発掘し新しいフォーク・ソングを生み出したことは日本の音楽史上、高く評価して良いと思います。73年「あなた」75年「時代」「わかって下さい」77年「あんたのバラード」78年「夢想花」79年「大都会」80年「街が泣いてた」81年「サヨナラ模様」82年「待つわ」などなど・・・・・。グランプリを受賞しながらヒットに結びつかなかった曲も多くあるものの、このコンテストから産出された「作詞、作曲して歌う」スタイルの歌手のあり方は、日本の音楽界にとって無視できない重要事項であります。それまでは、作詞、作曲はプロが行い、歌手はそれを歌うだけでした。こうして66年から始まった日本のフォーク・ソングですが、誰が言い出したか「ニュー・ミュージック」なんて言い方に変わり、77年「冬の稲妻」78年「チャンピオン」とつながって行きました。学生時代、American Folk Songに浸っていた私ですが、日本語で歌詞を書き、作曲して歌うSinger & Song Writerの変化は、日本のその後のフォーク・ソングとして大歓迎、当然の嬉しい結果だと捉えています。66年から80年代まで続いたこれらの事象のうち、その金字塔として、66年「空に星があるように」69年「風」74年「なごり雪」75年「シクラメンのかほり」79年「異邦人」「さよなら」80年「恋人よ」などの優れた曲は、この時代日本が生んだ誇るべき文化だと思っています。ただ、現在2022年の歌世界を見ますと、歌詞はつまらなく、曲も乗りのいいリズムだけ、歌い手はダンスや振り付けに長けたアイドル可愛い子チャンばかり。まことに貧しい情けない状態だと思います。みなさんはどう感じておられますか ? 。比べて和製フォーク誕生からニュー・ミュージックの時代が特別に輝いて見えるのです。

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私はフォーク・シンガーだったのでしょうか?

 

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「学生時代はどんな音楽をやっていたのですか ? 」と問われ、「フォーク・ソングを歌ってました」と言うと、よく言われるのは「『バラが咲いた』とか『神田川』とか、そういう音楽なんですネ」と ! 。ムムムッと押し上がってくる感情を抑えながら、「少し違うんですが・・・まあ、そんなモンです」と答えることにしています。

以下の記述は、主にAmerican folk musicのことになりますので名詞は英語表記にします(カタカナ表記だと全角で場所をとって仕方ない)。私のFolk songの入り口は、Brothers  fourでした。洋楽Popsに浸っていた高校時代、Kingston trioの「Tom Dooly」がヒットしましたが、聴いても大した感慨はありませんでした。次にヒットしたBrothers fourの「Green fields」に魂を揺さぶられました。旋律がどうの、楽器音がどうのではなく、実に不思議な声が響いていたのです。のちにそれが、Wood Bass担当のBob Flickの低音声 だとわかります。彼らのデビュー翌年に発売されたLP、「Song book」を買って、繰り返し聴き、シビレにシビレました。そして来日公演、当時まだ大学生だった彼らのコーラスも衝撃的でした。高校1年からギターを弾いていましたので、Brothers fourの真似をしたくて堪らなく、進学してからも、メンバーを集めるべく虎視眈々と狙っていました。

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1964年東京オリンピックが開かれた年になると、それまでバンカラ学生ばかりだった先輩たちは卒業し、代わって入学してきたのはIvy lookに身を包んだFashionableな学生でした。最初は(これが学生なのか?)と違和感がありましたものの、学生達の雰囲気が一気に変わり、AmericaのIvy leaguerたちがやる音楽としてFolk songも注目を浴び始めました。時機到来とBrothers four styleのgroupを結成すると、いろんなConcertから出演依頼が舞い込みはじめました。主にBrothers four とKingston trioのレパートリーを演奏したのですが、活動して曲を調べるうちに、その音楽のルーツが次第に姿を現します。上記2グループの他に、Peter Poul & Marry(PP&M)、Highway Men 、Bob DylanJoan Baez、Judy Collinsたちのレパートリーを調べて行くと、Pete SeegerやLead Belly、Cisco Houstonといった名前が現れ、その先にWoody Guthrieという名前が浮かび上がってきました。

中学・高校時代、音楽の先生から「おおスザンナ」「ケンタッキーの我が家」なんて歌を聴かされ、「これはFolk Songです。作曲したのはStephen Foster」だと教わりました。また、同じ頃Banana Boatという港湾荷役の労働歌が大ヒットし、歌っていたHarry Belafonteの歌がFolk Songだとも言われました。

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所が1960年代のFolk Songは少し雰囲気が違う。そこには「メッセージ」とか「主張」といった社会に訴えかけるものが含まれていました。Woody Guthrieのことを調べて見ると、(こんな人が居たんだ ! )と思えてきました。1912年に生まれ、極貧の季節労働者として放浪する人生の中で、1930年代~40年代後半まで約20年ほどですが、労働歌やNegro Spiritualsなど、いわゆる伝承的、口承的な歌スタイル(つまりTraditional Folk Song Style)に則って歌を作り、歌い、ラジオで流し続けた人でした。生涯に作った曲は1000曲ほど。1940年4月に音楽学Alan LomaxはVictor RecordのStudioでその歌を録音しました(LP=Dust Bowl Ballads)。1941年GuthrieはPete SeegerとAlmanac Singersを立ち上げ、それは1947年にSeegerが結成したWeaversへ発展して行きます。これは1927年から1943年にかけてBlue GrassやCountry Songを歌って録音し、人気を博した3姉妹(ハーモニカとAutoharpとギター)のバンドCarter Familyに触発されたと見て良く、soloではなくensembleでVocalするStyleは、60年代になって爆発的人気を得たHootenany boomの礎だろうと考えられます。また、Guthrieの歌に込めた抗議(Protest song)StyleはContemporary Folk musicと呼ばれるChorus groopや、solo singerにも受け継がれてゆきます。GuthrieはHootenanyが全米を席巻する前の1954年に、ハンチントン病(体が勝手に動いて止まらなくなる奇病・舞踏病)を発症し、Folk song boomの最中、1967年10月3日クイーンズのクリードムーア精神病院で亡くなりました。享年55歳。自分が生きてきた歌人生が、開花して社会現象となっているその時、本人は社会を見つめるどころではなく、奇病の苦しみにさいなまれながら、絶命したことになります。(神様はこういう皮肉が好きですネ)。

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Cisco Hustonは1938年頃にGuthrieと知り合った10歳年下のfolk singerでした。

Almanac Singersとも共演し、Guthrieとは兵役でも一緒になり、労働者としても連れ添った仲間です。Guthrieが作った曲だけのLP(↑)も発表しています。Hustonも極貧のsingerで辛酸をなめた後、ようやくFolk songが脚光を浴びだした61年に癌で亡くなりました(4月28日)。死期を悟ったのか、その1ヶ月半前Vanguard Recordのstudioで独り録音テープを回して、Guitarを弾いて歌い、音声を残しました。そのLPが「I ain’t got no homer住む家とてなく」 ↓ です。享年42歳。

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Lead Belly は生涯に重大な犯罪を何度も犯し、監獄と娑婆を出入りした黒人歌手です。1930年Louisianaの刑務所に収監されていた時、やはりAlan Lomaxに才能を発見され、Lomaxの携帯Recorderに数百曲を吹き込みました。47年結成のWeaversがBellyの作ったGoodnight Irineをヒットさせます。また、Texasの監獄に収監されていた時ひらめいたMidnight Special(夜中の列車の光が監獄の窓に当たると、その囚人の出所は近い)もヒットしました。ヒットはこの時代のFolk singerには珍しいことですが、経済的に恵まれたわけではなかったようです。そして49年に筋萎縮性側索硬化症を発症しNew Yorkで死亡しました。享年61歳。

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Woody GuthrieがThis land is made for you and me(この国はあなたのため、私のために作られた国)と歌ったU.S.A.とは、「自由と平等」の旗印のもとに建国された国でありました。American dreamという「誰でもノシ上がれる」チャンスのもと、極端な大富豪を現出させた一方、どこまでも貧困から抜け出せない、多数の底辺の人々をも生んだ格差社会です。その貧困民衆の中から生まれたFolk songは恨み節や嘆き節ではなく、身の回りの人々(Neighborhood)への愛や、将来(Negro Spiritualでは来世)への希望を含んんだものでした。だから生き延びてきたと言えるでしょう。1950年代半ばからAmerica音楽界を席巻したFolk music revivalと呼ばれる boomですが、Kingston Trio、Brothers Four、PP&M、Highwaymen、New Christy Minstrels、Bob DylanJoan Baez、Judy Collins、 Bob Gibson、Tom Paxton、Ian & Sylvia といったスター達の礎に、Guthrie、Huston、Bellyといった先達がいたことは大変重要です。65年からはベトナム戦争が始まり、徴兵制度によって戦地へ送られる若者のあいだで、歌で抗議するFolk songはさらに盛り上がりを見せました。66年に私は学校を卒業してFolk songのバンドを引退し、別のジャンルの音楽に取り組むことになります。このトシまで音楽を創ることを続けていますが、しかし身体のどこかにFolk singerのDNAが残っている気がしています。これで私が学生時代に歌っていたFolk songを少しは理解して戴けましたでしょうか。

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広告文化の不易流行・むぎ焼酎二階堂CM

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広告も「言葉、絵、映像」としてとらえれば、立派な「文化」です。中には極端に文化から遠いものもあります。製品の機能や特徴をうるさく前面に出し、「早く買わねば損をするゾ」と言わんばかり、「0120-○○○-○○○に今から30分以内にお電話申し込みいただければ、なんと70%引き。オペレーターを増員してお待ちしております」。なんて言ってる画面の片隅に小さく「この広告は1日に数回流れます」と出ていたり・・・。時のハヤリなのか数人(時に数十人)がカメラに向かって一斉に踊ったり、歌ったり。これは歌手タレントをグループにして売り出す風潮に乗っているのでしょう。1970年代、80年代に花咲いた「広告文化」の香りを残しているものもあります。今、流れている日本中央競馬会(JRA)の広告には、競走馬の走りをひとのロマンに重ねようとの意図を感じます。そんな中で特筆すべきCM、広告予算の都合なのかそれ程頻繁に流れませんが、(駅の手洗い場)→(古家の玄関)→(バレーダンス練習)→(花嫁姿)→(脱ぎ捨てられた博多帯が姿見)に写り→(女性が付け髭を外す)→そして画面に「夢よりも不思議な時間が眠っている」と文字が出て、(野原を風采の上がらない男が行く)。ナレーションが「あの日の自分を移ろう未来へ。ここで出会える。見覚えのある眼差しが心を覗き込んでいるようだ」と流れ、「麦100%、大分麦焼酎『二階堂』」と製品名が読まれます。若いひとにすれば「何だ、これッ」と思うかも知れない。しかし私たち後期高齢者には、若い頃に見ていた広告の雰囲気のひとつです。松尾芭蕉俳諧の理念を「不易流行」と言いました。「不易=変わらないものと、流行=移りゆくもの」だと。それは今や、あらゆる芸術・文化に共通にあてはまると思います。70年代後半頃、西武百貨店の広告には「マヨネーズの島では、海の中に虹が動いていた」とか、「植物は都市をソフトにする」といった文案があふれていました。当時の名だたるコピー・ライターがこぞって書いていたものです。それは当時の「流行」で、文化の先端を走るものでした。その後、西武の堤清二社長は「いくら広告を打っても、客が来ない」と嘆き、方針転換してそんな広告をやめます。実はその頃から、この「二階堂」のCMは始まったようです(1987年CM「自然」開始)。回顧調のミニ・映像は毎年1作つくられ、これが30年余りにわたって続いています。まさに頑固なまでに「不易」。制作は広告会社「大広」。CM監督は2作目から、ずっと九州在住・清水和雄氏です。ネット上ではCMのファン・クラブも作られ、各CMのロケ地を紹介するサイトもあります。ロケ地は、ほとんどが九州各地。たまに山口県もあります。ロケ費用を切り詰めている努力が痛いほど見て取れます。「二階堂酒造」で検索すると会社のホーム・ページには過去のCMを紹介するページがあり、YouTubeで閲覧できます。製品を全面に出さず、企業のイメージを訴える「企業広告」「PR広告」と呼ばれるものは、以前からありましたが、いまでは、そんな呑気に構えられる企業は少なく、せわしなく広告効果を求めて「売らんかナ」姿勢の広告主ばかりです。この広告界の変遷の中で、かくなる化石のような頑固一徹姿勢は、少しウレしくなります。ファン・クラブが作られるのも理解できます。ただ、CMにひとつ注文すれば、画面、文案、流れに「脈絡」がありません。現代詩と呼ばれる詩、現代音楽と呼ばれる十二音階音楽(無調音楽=調がなければ音楽にならない!)、一部の現代絵画や書道に見られるアヴァンギャルドに欠けているのは「脈絡」です。現代アーティストは、「脈絡」がないことで、逆にそれが「現代アート」だと粋がり、高尚ぶるヘキがあります。「二階堂CM」もこのヘキから脱却し、作品が脈絡をもって、小さなドラマになれば、素晴らしくなると・・・・私は期待しています。



 

 

シベリア抑留

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氷楔クラック地形(Wikipediaから)       つらら

一年で今が一番寒い季節です。私は、寒さに弱い。体全体、特に手足を冷やすと指、耳たぶなどに霜焼けを発症します。体を温めていても、気温が低いと指先が割れ始め、ひび割れになって痛みます。高校時代、一時山岳部に参加し、豪雪の中で1週間、テントを張って寝たことがあります。氷点下15度。朝、起きるとテントの所々から氷柱が垂れ下がり、水ばなも凍って氷柱のようになります。そのつらさは、言葉では言い表せない程のものです。ここからは、悲劇の話しです。政治的な意図はありません。しかし、悲劇の被害に遭ったひとびとには、許せない出来事だったに違いありません。

先日年末、BSの歌謡番組で少し以前のVTRが流され、二葉百合子という老婆が「岸壁の母」を歌う映像を見ておりました。「 ♪ 母は来ました 今日も来た この岸壁に 今日も来た・・・・」。聴いていてふと思ったのは、( この歌、スターリンに聴かせてやりたいナ → いやいや、大国ソビエト連邦の復活を懐かしんで励んでいる、プーチン大統領にも聴かせてやりたいナ ) と。丁度去年の年末は、ソビエト共産主義国家建設、膨大なる(69年間)実験の失敗・崩壊から30周年記念と報じられていた時期と重なっていたので、シベリア抑留をやったスターリンの悪行を思い出しました。韓国の「慰安婦問題」や「徴用工強制労働」も問題かも知れないけれど、それどころじゃない、「シベリア抑留」はもっと大問題です。ソ連は太平洋戦争終戦1週間前、瀕死の日本に、日ソ中立条約を破棄して宣戦布告し参戦、満州帝国、日本領朝鮮半島北部、南樺太、千島列島へ侵攻しました。その7日後日本はポツダム宣言を受諾し、敗戦します。敗戦時、外地にいた軍人民間人を問わず日本人50万人(一説には60万人かそれ以上)が、ソ連国内にあった約70カ所の収容所へ貨車で送られました。当時の日本人口の約1%ちかくにあたり、今で言えば富山県人口の全員ぐらいに該当します。スターリンは運河建設など公共事業を行うにあたって、囚人や侵略地の住民、捕虜を使い、強制労働を課して遂行するのを当然のことと考えており、スターリングラード戦によるドイツ人捕虜6万人のうち、強制労働による死亡者数は5万人強(90%)ちかくに及ぶと言います。日本敗戦時の外地在住日本人を連行、強制労働を当然のこととして行いました。乏しい食糧事情や劣悪な収容環境による死者の大量発生などは一顧だにせずに。厚生労働省が把握している資料では、氷点下40度極寒のシベリアでの強制労働で、飢えと過労により約6万人が死亡したことになっています(米国研究者の推定死亡数最大34万人)。最長抑留11年間。

詳しく調べたわけではありませんが、ソビエト連邦成立までの共産主義革命を概観すると、レーニンは一貫して強硬な「暴力革命」を提唱しつづけました。1905年に血の日曜日事件が発端となって始まった「ロシア革命」ですが、「プロレタリアードと農民」の革命という名のもとに、資金確保には銀行強盗も容認、1917年の二月革命帝政ロシアが倒れると、母体のボリシェビキが躍進、武装蜂起、貴族と正教会の土地を国有化します。レーニンは「この革命を確実にするためには、「恐怖と暴力が不可欠」と提唱して、翌年に組織したチェーカーによって反政府人員、数万人(一説には14万人)を処刑させます。1919年には各地に収容所をつくり、強制労働をさせました。そして1922年暮れにソビエト社会主義共和国連邦=「ソ連」が成立しました。レーニンはその約1年後病死しますが権力闘争の末、あとを引き継いだのはスターリンでした。スターリンの悪名高き「大粛正」は反革命罪を着せられた政敵や、彼が行った「農業集団化」に反対した農民を「富農」として銃殺し、その数は数百万人にのぼると言われ、正確な数はいまだに把握されていません。世紀の大実験とも言える「ソ連」国家でしたが、その始まりから銃殺や収容所での強制労働で成り立っており、それは敗戦時、日本外地にいた日本人にもスターリンが平気で行った行為でした。革命を主導したレーニンにとって、「プロレタリアードと農民のための革命」という錦の御旗の前には、帝政ロシアも政敵も正教会も、「正義」に対立する「悪」でしかありませんでした。

私たちには、この狂気としか見えない行為も、行う人間が信じる「正義」にてらして当然のこととなり、ここに「正義」の恐ろしさが内包されています。「国民が豊かになってシアワセではないか」と広言する中国政府の「正義」は、ウイグルチベット、香港の自立は、現体制を揺さぶる「悪」であり、ミャンマー軍の「正義」、シリア政府の「正義」、タリバンの「正義」、ロシアのウクライナに対する「正義」、パレスチナ紛争当事者の「それぞれの正義」、北朝鮮の「正義」の前には、民主主義国の非難や国連決議は通じません。我が日本も軍国日本の「正義」で邁進した歴史もあり、この「正義」という錦の御旗は厄介なものだと思えてきます。昨年11月17日のブログでも書きましたが、政治の世界に「善玉・悪玉」「正義」を持ち込むと、「国民のため」のつもりが、あらぬ方向へむかってしまう危険をはらんでいます。議論、理論とは「双方の意見を熟慮すること」につきるのではないかと思えてきます。一方の論理・正義を声高に主張し、突き進むだけでは「罵り合い」「殺し合い」が続くだけです。幸福と平和の前提として、双方の立場を理解してから、ねばり強く協議を重ねることが必要だと感じます。一方的に自分の「正義」で行動すれば、結果は悲劇を招くだけ。日本人の良き伝統「和」を再認識してゆきましょう。降る雪を見ながら「シベリアはもっともっと寒かろうナ」と思いながらブログしました。

 

 

 

 

年頭に際して

年頭に際して

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      ボーイ・スカウト後輩の、O.K.クン提供写真です

明けましておめでとうございます。

年が明けました。若い頃のようにやっと越年したとか、「峠を越えた」実感がなくなりました。それだけ、淡々と粛々と生きられるようになったようです。私のようにトシをとりますと、年頭に際し、これからの抱負など考える気にはならず、むしろ、ずいぶん永く生きたナと過去に想いを馳せることになります。人生を振り返って、自分のアイデンティティーは何時どう作られたのかと考えてみる元旦になりました。

江戸時代の薩摩に「郷中(ごうちゅう)」というものがありました。以下、「郷中」の内容は司馬遼太郎の「この国のかたち」からの引用です。江戸期は、礼儀作法、服装、結髪など日本中同一だったものの、教育や学問のやり方は藩によってずいぶん違っておりました。司馬はこれを「江戸期の多様性」と言って評価しています。学問を軽んじた薩摩藩ですが、そこには郷中という独特の教育制度が根付いていました。少年達は居住区ごとの「若衆組」とも言うべき郷中に所属し、寝起きをともにして共同生活しました。大人は関与せず、若者自身によって運営されました。その長たる「郷中頭」は人望主義で選ばれ、西郷隆盛などは、十八、九歳で抜けるべきところ、請われて24歳まで頭を務めたといいます。所属する少年のことで話し合う場合は、その父親の身分がいかに高くても、郷中頭は同格として対峙しました。郷中頭が訪問するとき、父親は袴をつけ、玄関まで出迎えるといったものでした。そこには大人である師匠(教師)はいなくて、同じ郷中の若者が若者を統御し訓練し、大人の干渉を許さず、運営は独立自治だったことに特徴があります。これは各居住区ごとに割り当てられて存在し、「頼山陽は『健児ノ社』と呼んで珍しがった」と司馬は書いています。下鍛冶屋町郷中頭だった西郷隆盛の配下には、成人してから明治維新以後、政治軍事の場で活躍する、大久保利通大山巌、弟の西郷従道東郷平八郎がいました。というよりは、郷中によってそれらの人材が育まれたと、評価することができます。ここからは私の見解です。少し似た教育制度として、会津藩の「什(じゅう)」というものがありました。しかしこれは、6歳から9歳児へ施された「掟」によるもので、「ならぬことはならぬのです」という言葉(のちに「NN運動」として定着する)に表される厳しい躾教育でした。什はあくまで「つべこべ理屈を言うな。ダメなことはダメ」という躾で、「所属する若者が若者を統御する」という自治を持っていた薩摩の郷中とは大きく違っています。

この郷中の話しを持ち出したのは、私が少年時代活動していたボーイ・スカウトと類似性が認められるからです。各ボーイ・スカウトの隊には大人の隊長もいるものの、活動の中心は班長以下少年達10人未満の「班」で、副隊長もしくは上級班長郷中頭の役割に該当します。週に1度ぐらいの集まりで、共同生活とまでは行きませんが、活動はキャンプやハイキングで、それは創始者ベーデン・パウエルが提唱したScouting、アウトドアとサバイバル技能に重きを置く教育方針です。そして奉仕活動がありました。時に慈善事業に見られる「弱者に対する上から目線」はなく、「一日一善」、日にひとつ世の中に対して良い行いをせよ、というものです。公園のゴミ拾いや、赤い羽根、緑の羽根の募金活動で街頭に立ちました。年齢的にイタズラやワルさをする年頃の我々も、奉仕活動によって越えてはいけない一線を暗黙の内に自覚していたと思います。会津の「什」の掟には、「卑怯なことをしてはならぬ」「弱い者をいじめてはならぬ」と具体的に明文化されていますが、スカウト活動のキャンプ生活や奉仕活動によって、自然とそれらは身についていったと思います。「道徳教育」や「いじめの問題」も野外共同生活によって、解決できる「解」がここにあるのではないかと考えるこの頃です。重いテントや食糧を背負い、風雨と戦いながら山中を歩き寝るのが私たちの活動でした。今のキャンプは、親・保護者が4駆のジープやライトバンで荷物を運ぶと聞き及びます。ボーイ・スカウト活動も、塾や習い事に少年達が忙しくて、ずいぶん見かけなくなりました。せめて、スポーツ・クラブがその役割を担ってくれればいいのですが。

自分のアイデンティティーをたどって、在りし日の少年時代を回顧する念頭になりました。自然が自分を育ててくれたと思っています。

大晦日の飲み会

 

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  八坂神社・朮(おけら)火床                                   令和4年の年賀状

 

私が中高一貫校へ通っていた頃、同学年で4人組の仲間は6年間ずっと一緒でした。と言うのも、通学は京阪電車で、内三人は同じ小学校出身。もう一人は隣の小学校出身。同じ時間の電車の同じ車両に乗ります。しかも私以外の三人は同じ陸上部。私は足が遅くて、短距離走は無理ながら、一時野球部(中学)や山岳部(高校)に参加していて練習には長距離走がありました。高校卒業した頃から、大晦日の夜、「走ろう」と言うことになって、約8kmを走ります。ランニング・コースは東山区左京区、神社仏閣が並んでいて、朮参りと除夜の鐘を目当てに参詣する人々が昼間よりも多く往き来する夜道を走ります。学生時代の大晦日の夜は、そうやって走るのが通例でした。昭和38年には道行く参詣客から、翌年に控えていた「東京オリンピック頑張れヨ!」とヒヤカシ声のをかけられたのを覚えています。学校を卒業して就職した年の大晦日から、さすがにランニングではなく、飲み会に代わりました。四人だけの飲み会も十年ほど続くと、高校の別の仲間がひとり、ふたり加わり十人弱の飲み会になって、52年間(ランニング時代を含めると56年間)、毎年大晦日に会っていたことになります。途切れたのは、一昨年、令和元年と去年令和二年、コロナ・ウイルス蔓延によるものです。永年続けてきた飲み会なのですが、いかんせん居酒屋が営業自粛となっては続けるのは無理でした。今年はなんとか再開と思っていたのですが、また、デルタ株だオミクロン株だとなって中止です。52年間の内、同じ小学校出身三人組のひとりは、29年前48歳で急死、もうひとりは四年前から体調不良で不参加です。私も10年前癌の治療で2ヶ月入院しましたものの、運良く命拾いし、ガリガリに痩せていましたが、その年の大晦日も参加して皆勤賞です。というのが大晦日の恒例行事の紹介をしました。

さて、年末は先輩、同輩、後輩、取引先などのご縁のある方々から、この所お身内の死去に伴う喪中ハガキに混じって、その奥さんやお子さんから、ご本人死去の知らせも届くようになりました。加えて、2年ほど前から、「本年をもちまして年初の挨拶を終わらせていただきます」と年賀状の打ち切り通告も出てきて、何となく寂しい限りです。「もう年賀状はやめた」と宣言したひとに、こちらから年賀状を送るのは、ちょっとしつっこい気がして、今まで出していた年賀状の送り先を今年は整理しました。やや、薄情かと思いながらも、一方通行に送っていたひと、商売上のつながりなど大幅にカットし、送付先は去年の約半分になりました。それでも、もう何十年も会ってなくても、毎年必ずくれるひとまでカットできません。「そうか ! 」と思いました。年賀状は過去にご縁でつながっていたひとびととの音信で、無事を確かめ合う「年に一度の交信」なんだと気づきました。そして音信が途絶えたり、ご逝去のお知らせが来てご縁が切れたとき、懐かしい思い出や感謝が浮かび上がってきて、今、自分が生きていることを有り難く思う良い機会なんだと。それも、毎年の年賀状のやり取りが途切れてしまっては、お互い生死の「消息」さえわからなくなってしまいます。「消息」という言葉通り、年に一度の年賀状は生きていることの「確認」だと思えてきました。「袖触れ合うも他生の縁」とは、何事も目に見えないご縁で結ばれているという、仏教からきた考え方なのでしょう。私自身はまだまだ、天(お浄土)に召される思いはなく、この世にやり残したことが山積みです。でも、いずれ寿命が尽きて、天国へ行ったら、ひと足先に天国へ行った仲間達と飲み会ができればいいなと思っています。むかし死んだ愛犬、愛猫にも会えるかもしれない。それも楽しみです。12月22日は冬至、今年も豊作だった庭の柚子を湯船に浮かべて、柚子風呂につかり、中風除けをお祈りしました。令和3年、年の瀬を迎えての心境です。

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