夭逝-その4 「3人の音楽家」

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♪ 春高楼の花の宴 めぐる盃影さして ♪ 「荒城の月」という日本人の琴線にふれる歌、悲哀、詩情に満ちた曲を調べていて、作曲者、瀧廉太郎が23歳で死んでいるのを知りました。( 明治12年生まれ、明治35年死去 )。豊後国の上級武士だった父親が、廃藩置県後、官僚高官となり恵まれた家庭環境で育ちました。尋常小学校の高学年のころからピアノを弾いていたようです。15歳で東京音楽学校( 現在の東京芸術大学 )へ入学、ピアノ演奏と作曲を勉強していて、本科を卒業後も研究科へ進み、音楽のエリート・コースを歩んでいたと言えるでしょう。21歳で音楽学生として、ドイツ・ライプツィヒ音楽院へ留学するものの、まもなく肺結核に罹患。現地で治療を受けていましたが改善せず、7ヶ月後帰国の途につき、帰国1年後に死亡しました。「荒城の月」は代表曲の「花」「箱根八里」とならんで明治33年作となっており、留学前の作品のようです。直筆譜面の多くは結核の感染を恐れて焼却処分されており、実際の作品数は不明。確認されているのは34曲です。

私が10年前入院していた病院では、お知らせのアナウンスの前にピアノ曲の「乙女の祈り」が鳴るのが常でした。テクラ・バダジェフスカ作曲のこの「乙女の祈り」は鉄道のアナウンスなどに良く使われ、オルゴール曲の定番となっています。昭和30年頃、化粧品のラジオCMにも使われ、日本人にはおなじみの曲です。ポーランド人、バダジェフスカの生まれ年は1834年1838年の二説あり、死去は1861年となっています。「乙女の祈り」の楽譜出版は1851年で、作曲時の年齢は34年生まれなら17歳、38年生まれなら13歳のときになります。この曲はワルシャワで出版され、ほどなくフランスの音楽誌に転載されて、フランス人に知られることになりました。日本へは明治時代に楽譜が入ってきて、以後日本人に人気の曲となっています。ところが正規の音楽教育を受けていない作曲家の作品だという理由からか、現地ポーランドではこの曲はほとんど知られていないようです。バダジェフスカが生きた時代のポーランドは、ロシア帝国の圧制下にあり、国家として存在していなかったと言える状況でした。同時代のフレデリック・ショパンは留学先のウィーンからパリへ逃れ、難民となってフランスで暮らし、生涯ポーランドへ帰国することはありませんでした。バダジェフスカはこの曲の作曲後結婚し、5人の子供を設けて10年後に病死しています。享年27歳もしくは23歳です。

和製フォーク・ソングの代表曲のような「神田川」。この曲の前奏から南こうせつの歌声に並行して、そして間奏へと哀愁に満ちたヴァイオリンの旋律が流れます。上条恒彦が歌った「出発の歌」。これらを編曲したのは、木田高介です。上条は第三回合歓ポピュラーフェスティバルの出場が決まっていたものの、「出発の歌」の作曲完成は前日、木田は三重県合歓へ向かう列車の中で編曲譜面を書いたと伝えられています。結果はグランプリ。一世を風靡した曲としてご存じの方も多いと思います。木田は東京芸術大学卒業の打楽器奏者ですがフォーク系、ニューミュージック系の数々の編曲を手がけています。芸大在学中にロックバンド「ジャックス」に参加、バンド解散後POPS音楽の世界へ向かい、個性豊かな編曲家になりました。31歳の時、山梨県河口湖でクルマ運転中、同乗の友人と共に交通事故死しました。

上記、夭逝した3人が作曲・編曲した曲に私は啓示のようなものを感じてブログを書いています。瀧には哀切や日本人が持つ無常観。「乙女の祈り」の高音へ跳ねるように向かうアルペジオ・メロディーには10代の乙女が見つけたこころの底にある躍動の芽。木田の編曲には特異な感情の表現力を感じ、どうしてこんな表現力を会得したのかと言う不思議。私は2019年12月のブログで、夭逝-その1として画家・関根正三のことを書きました。なぜか今、こうして夭逝した才能が気になっています。彼らに共通する運命の残酷さをしみじみ感じるこの頃です。

世はいかさま

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食い物や飲み物CMで芸人、タレントが「旨い旨い」と言うのはわかるんですが、料理人や料理研究家が出てきて「旨い。本当に旨い」なんて言うCM見てると、この人たち普段からマトモなもの食ってないんじゃないのかと思ったりします。本物、技を極めた料理人などは、CMに出るわけがなく、イマイチ高評価が得られていない料理人には、CMに出ることで名前と顔が売れて、何も知らない視聴者に有名料理人だと思い込んでもらえるので、得る所が多いのでしょう。これを称してハッタリと言います。かって雑誌編集者・評論家だった山本夏彦氏は「世はいかさま」と題する写真コラム集を発表しています。マスコミに上手く乗って、顔と名前が売れれば、素人にとっては一流人。料理番組大盛況、料理人が先生先生とおだてられ、食材の選び方、調理の仕方をこと細かく説明します。しかし、本物の一流はそんな所には出てこないものです。乾燥味噌汁やパスタ、缶詰ジュースなど、たいして旨くもない食い物、飲み物をゼニもらったからと言って「旨い旨い」と良心ある人間なら言えるわけがありません。三流の野球選手がコーチや解説者になると、饒舌になって、あることないこと説明しまくるのと同じです。大体、自分が苦労してつかんだ技術はペラペラと簡単に公開しないものですし、またその微妙な機微は、言葉で説明できるものでもない。王貞治氏や長嶋茂雄氏から打撃の神髄を聞いて納得したひとなどいないでしょう。王氏はバットの代わりに真剣を振ってコツをつかんだとか、長嶋氏の説明は「バック・スウィングの時、グリップエンドをここに上げれば打てるんだ」とか、川上哲治氏に至っては「球が止まって見えた」といつた説明で、凡人に理解できるシロモノではありません。禅問答のような世界です。テレビの料理番組で、出演料理人からこと細かくされる説明は、それで素人は感心し、番組が成り立つモノですから、余り罪はなくそれはそれで構いません。しかし本物はこんなモンじゃない、隠れた名人、職人が多くいることを知ってほしいと思います。私はなぜこんな憎まれ口を言うか。それは本物の職人仕事がわからない人が多すぎることへの警鐘です。マスコミ、特にテレビで放映されると、そのことはほぼ無条件に真実だとされてしまいます。STAP細胞を作り出したと科学誌Natureに発表し、割烹着で実験に取り組む姿を公開し、大発明だと世間に持ち上げられたあと、その後の検証で論文にいくつもゴマカシが見つかり、論文の手順で細胞の再現が試みられたが、再現されず大恥をかいた女性。考古学の分野で、次々に旧石器時代の埋蔵物を発掘して「神の手」を持った発掘者なんて言われたひと。それによって旧石器時代の歴史事実、研究に大影響を及ぼしたものの、前もって埋蔵物を埋めているところを見つかり、ウソがバレた。このウソに影響された中・高校の歴史教科書を書き直す必要が出てきて、大学入試試験問題もひっくり返さなければならなくなりました。日本の考古学学会もメンツがつぶれた捏造事件。難聴なのに交響曲を書いたとして、現代のヴェートーベンと賞賛されたひと。私も音楽好きなので、友人からその交響曲第一番「HIROSHIMA」のCDが送られてきました。聴いてみたものの、眠い。つまり退屈で退屈で早く終わらないかと、我慢をしながら聴いたおぼえがあります。誰だと名前を公表することは避けますが、現代日本の作曲者としてトップ・クラスに評価されているひとが「これだけ立派な交響曲を書いたのだから、特別に大きな賞を作って表彰してあげる必要がある」とテレビ・カメラに向かって発言していました。その後の顛末は、実は音楽大学の講師に多額の報酬を支払って作曲してもらい、自作として発表したこと。ゴースト・ライターだったその講師は「あのひと、普通に会話できて耳は聴こえてるヨ。譜面を書く能力はもっていない」と打ち明けました。難聴の障害者手帳もだまし持っていたようです。こうして数年づつの時間の割合で、虚偽捏造欺きが世間を賑わします。ある意味で冗談の一環として笑い飛ばすのなら、結構楽しいのですが、それが真実として社会問題になってしまうとそうも言っていられません。これらのウソは発覚して幕切れとなって良かったものの、発覚しないままのものもあるでしよう。その一歩手前のバレない栄光の専門家や権威は、相当たくさんいるはずです。こうなると山本夏彦氏のように「世はいかさま」と達観して平気でいるのもひとつの生き方ですが・・・。ただ、私の住んでいる京都という町には、過去から今日まで隠れた芸術家、工芸家が連綿と世の本流から外れ隠れていて、その作品にふれると雷に打たれたほどの衝撃をうけます。とくに名もない作家、職人の素晴らしい仕事は、華やかに名をなした「大先生」の仕事と比較すれば、問題にならないほど輝いています。

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マスコミ、特にテレビで有名になった「大先生」の仕事が本物なのかどうか、深く検証する文化をこの国に根付かせることが必要だと思っています。割烹着で実験した女性の実験も再現できなければ意味はなく、何度も発掘できたことよりも、その埋蔵物が本物かどうか検証する必要があり、難聴のひとが書いた交響曲も、聴いて感動できるかどうか、眠ければ眠い音楽です。ことの本質よりも、付随するエピソードを好む日本人の性癖が本質を見えなくしています。大切なことは、世間の評価は信用しない。本物を見極める自分の感性を持つことに尽きます。「秘すれば花」むしろ光が当たっていない場所に本物がある可能性の方が高いと言えるかも知れません。料理人が「旨い、本当に旨い」と言う食い物のCMを見るにつけ、「世はいかさま」と理解した上で、だまされずに隠れた本物の仕事を見直していただきたく、今回のブログになりました。

インバウンド & パンデミック 白書

 

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何かイヤな感じがする。普段での生活とは違和感を感じる。話し方も行動もけたたましくて、土足で座敷へ踏み込まれているようだ。インバウンドと称して2年半前まで押し寄せていた外国人観光客に、日本人の多くはそう感じていたに違いありません。他方、そんなことは、どうでもよろしい。簡単にカネを持ってきてくれる有り難い客だと、千載一遇を謳歌していた業者もたくさんいました。これはブームと呼ばれる社会現象でした。何かが急に流行りだし儲かりだすと、日本人はそこへ殺到します。戦後だけでも、次々にブームはやって来ましたが、どれもそれに無関心でいて、参加しなければ特段影響は受けませんでした。しかし、インバウンドだけは、周囲に迷惑を掛けまくります。私の暮らす京都では、ホテルの利用許容量が逼迫し、次々と新築されるホテル用地の奪い合いで市街地の地価は高騰、固定資産税は上がり、市民の台所・錦小路市場や神社には外人があふれ、立ち食い、ゴミ捨てが横行、観光地ではレンタル着物店が軒を並べ、市バスは一日乗車券を握りしめた客を満載して走っていました。異常でした。イヤだなと思っていました。何か悪いことが起こりそうな予感がしていました。世の中には嫌われても平気なひともいます。また、そのひとがかかわってくると、病気や不幸が発生する事態もあります。面と向かって口にはしませんが、死に神のような感じを受けることもあります。2年半前まで、そんな人々と否応なく付き合わなければならない不愉快な状態でした。別にインバウンド目当てに商売をしていたのではなくても、迷惑を被ります。祇園町ではカメラを構えて舞妓を追い回し、帯や袖などを触ります。一日中通りを、車付きのスーツケースが音をたてて行き交います。いつか死に神がやって来そうな感じがしていました。

来ました。

武漢で手に負えない、厄介なウイルスが人間のあいだで蔓延しはじめると、まずそのことを隠蔽し、次にヒトヒト感染は起こらないと言い、大量の肺炎患者が死亡しはじめても、そんな病気はないとシラを切り、罹患した人々が春節祭で世界中を移動してこのパンデミックを引き起こしました。これが少しはまともな国で始まったのなら、初期に何とか押さえ込めたていたかも知れません。その後、自国開発のワクチンを、開発途上国にもったい付けて恵み与え、我が国はこのウイルスを押さえ込んだと、記念展までやる始末。そもそも、この迷惑を世界にバラ撒いたのは、誰なんですか。責任は誰が取るのですか。

インバウンド特需は蒸発し、コロナ蔓延でホテル、飲食店の倒産廃業が頻発しました。

そもそも、簡単に開業できすぎます。陶器磁器を売る店、竹細工や扇子を売る店など、かっては商品を自家で制作して売っていました。今は販売であれレンタルであれ、業者から仕入れて店頭に並べれば商売成立です。もっとひどいのは、売れてはじめて仕入れ代金を支払う、売れるまでは店頭に委託で並べているだけというのもあります。料理店というのは、普通10年も20年も修行を積んだ料理人が、食材を厳選し、調理技術を駆使して作った料理を提供するものです。ステーキ・ハウスや焼き鳥屋が乱立していますのは、こう言っては失礼ながら、大した調理技術はいらないからです。焼くだけです。焼き肉屋は客が自分で焼いて食べてくれます。営業許可は簡単に取れ、その気になれば明日からでも商売できます。大手居酒屋チェーン店では、ほとんど調理済みのものを仕入れて、注文があれば温めるだけで出しているようです。そうでなければ、あれだけの多種類のメニューがあり、注文から数分で出てくるわけがない。ある会席料理店に、弁当屋から転職してきた若者が、入店初日、「エッ。料理って一から作るの ? 」と驚いたといいます。以前の店では、できあがったものを買ってきて、弁当箱に詰めるだけだったそうです。「こんなことしていれば、儲かりませんヨ」と言うので、ご主人から「料理屋が儲かる商売だと思うことが間違いだ ! 」と叱られた逸話が残っています。ホテル、旅館は旅行者が夕刻から翌朝まで生活するところです。食事、入浴、排泄、就寝など快適に提供しなければなりません。病気や怪我をするひともあり、それに対処もしなければならない大変な商売です。宿泊施設を建設し、あとは運営会社にまかせる。これ、安易に考えすぎていませんか。簡単に開始できる商売は、簡単に閉店してしまいます。平時に戻れば、また雨後の竹の子の乱立です。

職人仕事が少なくなりました。一般のひとは、職人仕事と簡易仕事の区別をしなくなりました。週休2日制、祭日連休の増加、「休め休め」の号令で、面倒な仕事から逃げるようになりました。安ければ良いという風潮、値打ちのあるものを大切に使うことを時代遅れだとする風潮が日常化しています。コロナをバラ撒いた国は、かつては労賃が安いという理由で、世界の工場だなんておだてられ、それはまた世界中に価格競争という弊害をバラ撒きました。永くつづくデフレーションの圧力は、あの国から出ています。インバウンドの反省は、コロナ・ウイルス蔓延の責任追及に通じます。死に神と早く縁を切って、本来のわれわれの国の姿に戻るべきです。カネになるのなら、何でもやるという、卑しい生き方でこころ豊かな人生が送れる訳がありません。

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広報後進国ニツポン

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立ち話しがはずみます

 

戦国時代の映画やテレビ・ドラマのシーン。斥候か伝令の若武者が早馬を飛ばしてくる。戦陣に到着、馬から飛び降りると武将に対して「申し上げます。ただいま敵は○○川を渡りました。3万の軍勢が△△城に向かっております」などと息せき切って報告する。このとき若武者は武将に対して、かならず膝をついて申し述べるのです。けっしてツッ立ったまま言うことはありません。私が生まれ育った所は、京都の花街、祇園の近くです。若い舞妓見習が田舎から出てきた当初、座敷で、お茶屋の女将や先輩芸妓に立ったまま話をすると、「ちょっとアンタ、立ってモノ言うのやめヨシ!」ときびしく叱られます。襖の開け閉てはもちろん、必ず畳に両膝をついて話すのが、祇園に限らず京都では当然の行儀作法です。日本の総理大臣も東京都知事も、国民、都民に立ったまま話をします。新型コロナ蔓延下、毎日のように首相も都知事もテレビ画面に出てきます。それは首相官邸や都庁の廊下(ロビー)に記者やカメラマンがじっと待機していて、相手が出てくると質問を投げかける段取りになっています。前もってそこにマイクが設置されている場合もあります。質問に適当に応え(詳しく説明することはありません)、ひとつかふたつ出た質問に手短に答えると、サッとどこかへ行ってしまいます。逃げ腰なのです。この国の政治は、まともに国民と向き合う気があるのかと疑問に思います。新型コロナに関する会見、ニューヨーク州クオモ知事は広いテーブルに資料を並べ、椅子に座ってニューヨーク州の現状を、毎日詳しく説明していたそうです。データを開示し、あとは記者の質問がなくなるまで応じていたと伝えられます。台湾でもコロナ蔓延を抑えた衛生福利部長・陳時中は毎日会見を開き詳しく説明。記者の質問がなくなるまで応じ、台湾のひとびとは現状が良く理解できたと納得し、彼の人気は高いと伝えられています。

日本の政治家にこの姿勢がないのはなぜか。ひとつはトップが現状を全体的に把握できていない。各部署に任せっきりで総合的に問題を把握できていません。だから記者から数々の質問がでると、答えに窮するのがわかっているので逃げ腰になります。もうひとつは、旧弊からくるもの。政治家派閥の領袖が力をもってしのぎを削っていたころ、記者は番記者として領袖にくっつき、そこから特別に情報を得ていました。まともな国民向け会見のないこの国では、そうしないと重要情報が得られない。政治家のほうも、世論操作や派閥運営の裏ワザとして、本情報、ニセ情報を番記者を利用してリークしたりしていました。内閣官房長官の毎日の定期会見はあるのですが、すでに実情報が行き渡ったあとの発表で、セレモニーのような感じがします。会見に、官房長官は大きな冊子をかかえて登場しますが、そのなかのデータなどを見ながら数字あげて具体的に説明しているのを見たことがない。しかもツッ立ってやってる。質問を希望して挙手をする記者を、傲慢にも手のひらを立てて恣意的に選びます。記者を選ぶと言うことは、すべての質問には答えないということ。質問のある記者は、着席順に質問できて最後のひとりまで答えるのが内閣の広報担当大臣ではないですか。国会の答弁もしかり。前日ぐらいに前もって提出された質問に対して、委員長が挙手した答弁者を指名し、閣僚席もしくは官僚席から答弁者がノコノコと答弁席に歩いてくる。答弁がズレていようが、食い違っていようが、的を得ていようが、言いっ放しですぐに元の席へ戻ってゆく。この不毛な繰り返し。これやめたほうがいい。民主主義の本家、イギリス議会の映像を見ますと、質問者も答弁者もテーブルをはさんで椅子に座って、普通に話しするように審議、質問答弁しています。これをやるには問題に対する知識、見識が必要です。ごまかしたりすれば、すくにバレてしまい、見ている国民は (ア!このひとダメだ) とか (このひと良く勉強しているナ) とか感じて、議員としての資質がマルわかりになります。日本の議会もこの方式に変えましょう。それに、首相や都知事の廊下立ち話、逃げ腰方式をやめて、椅子に座って現状や自らの意見を知ってもらうよう努力をし、しっかりやるべきです。国民、都民を自分より目上の存在と思う意識があれば、立って話すのは失礼なのであり得ない。国民、都民は納税者、選挙民なのですから。みなさん声を大にして言いましょう。「ちょっとアンタ、立ってモノ言うのやめヨシ!」と。やんごとなきお方が、「引退したい。次の代へ譲りたい」とテレビで国民に向かって述べられた会見でも、ちゃんと椅子に座って話されていたではないですか。たかが首相や都知事が立ってモノ言うなんて、馬鹿にしています。皆さんそう思いませんか。

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空港ピアノという番組

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柚子の花とサクランボ

庭の柚子の木が花をつけました。今年の冬には実をつけそうです。サクランボもわずかですが、小さな実がついています。

さて

BSテレビ放送で「空港ピアノ」という番組があります。15分間ほど、番組と番組のあいだに放映されます。日本だけでなく、世界の空港や駅ロビーに設置された中型グランド・ピアノに目をとめた、通りかかったひとが、思い思いに演奏します。弾くひとの心境や、どんな訳アリの旅行中なのかなど、それぞれの事情がテロップで出ます。旅には人生の特別な意味もあり、こころ打たれるシーンもかずかず見られます。プロのミュージシャンあり、ピアノ教師あり、むかし習っていたピアノ演奏を退職してから再開した老人あり、独学我流で弾く若者ありで、21世紀にもなると、これほどひとびとのなかに、音楽が、ピアノが根付いているのだと知って「人間ってイイな」と思えるのです。ふと足をとめて演奏するひとを、ロビーのひとは遠くから見て聴いていて、ときに拍手があつたりします。多くの空港にピアノが置いてあるようです。まったく無関心に通り過ぎるひともあつて、さりげない風景が空港の日常を表しています。以前、ある国会議員さんが、ほんの短い期間でしたが、棚からボタ餅のように、総理大臣になって外国を訪問ました。その時、まったく我流でマスターしたピアノの腕前を、外国要人のまえで披露したことがありました。なにごとにも器用に取り組んで自分なりに身につけ、話題もあきれるほど豊富、冗談ユーモアも実に上手いひとでした。それをある音楽家が「正規のピアノ教育も受けず、まともな教師に師事もしていない我流のピアノを、外国要人のまえで弾くなんて、国の恥だ」とマスコミで発言しました。それが誰だかは私は今も覚えています。それに対しある高校生がした反論は「正規の音楽教育を受けた受けていないは関係ない。音楽教育を受けたひとの音楽だけが音楽ではない。音楽はひとそれぞれ自由に楽しむもののはずだ。我流のピアノ演奏も立派な音楽ではないのか。それを恥というひとが間違っている。音楽を誤解している」という主旨の発言をした記事がありました。私は、これは我流演奏を批判した音楽家が赤恥をかいたのだと、大いに溜飲を下げたものです。「空港ピアノ」には決して上手いとはいえない、たどたどしい演奏もありますが、それはそれでまた何となくこころ暖まるものでOKです。「ウサギ追いしかの山 小鮒釣りしかの川・・・」あるピアニストが、この「ふるさと」の曲を弾いてる映像、画面には「東日本大震災の被災地巡回したとき、この曲を弾くと、各地の会場ですすり泣きがきこえてきた」とテロップが現れました。ショパンやリストでなく、「ふるさと」というのがイイじゃないですか。ここに本当の音楽のちからを感じます。むかし旅のドラマやロマンは夜行列車でした。いまは世界各国の主要都市、日本の多くの都道府県に空港があって、ひとびとは飛行機で移動することが増え、空港を行き来するひとびとはひとりづつ旅の物語を抱えています。そこにピアノを置いてみれば、上手い下手もプロもアマも関係なく、意図せず人生の事情がにじみ出てきます。こころ打たれたり、涙ぐんだりして、この15分間ほどの映像に引き込まれています。ピアノのまわりに数個のカメラとマイクを設置してあるだけ。そこには製作者の意図も演出者の技量もなく、通りかかったひとの人生がさりげなくにじみ出てきている、出逢いのような、身の上話を聞いているような時間を体験できている気がします。こんな番組があるかぎり、まだまだ日本の文化も捨てたものではありません。

 

アオバズクの鳴く夜

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琵琶湖疏水の森

「男は家から一歩外へ出れば、7人の敵がいる」と言われます。50数年にわたって商売にたずさわっていれば、そんなことは当たり前、何かと誹謗中傷にさらされます。それは決して気分の良いものではありませんが、これはひとの世の習いと受け流して、そんな時は大自然のことを考えるようにしています。大自然の中にひとりボツンといる自分にとって、世の習いなんて大したことじゃないと思えます。特別にひろい海や樹海へ行かなくても、大自然は感じられます。毎年5月のゴールデン・ウイークの頃、夜にアオバズクの鳴き声が聴こえ始めます。森の葉っぱが青葉に変わる頃、日本にやってくる鳥なので「アオバズク」という名前がついているそうです。暗闇に「ホッホー、ホッホー」と響く声は、ユーモラスでもあり、寂しくもあり、こころに沁みわたります。ひとの世の習いなどどこかへ消えて、大自然を肌で感じることができます。野鳥図鑑によれば「大木に空いた洞穴に営巣する」と書かれていて、大木の洞穴なんてそうそうあちこちにあるものではなく、毎年同じ大木に同じ鳥が渡ってくるのかと思い、今年も帰ってきたかと親近感が増してきます。「アオバズクー東南アジアやインドから、夏になると渡ってくる」とあり、南方から海の上を一気に飛んでくるのか、島から島を渡ってくるのか、はたまた大陸沿いにベトナム→中国→朝鮮半島対馬海峡を渡ってくるのか。そして秋には帰って行く。この鳥の旅路を思い描くだけでも、壮大な気分になれるものです。

 

人恋しさのあまり 書き始めた日記に

もうひとりの僕との 出逢いがあった

淋しさになれた今 木の葉ずく( コノハズク )も去って

押し花残るページに 思い出を語る

落ち葉が雪に・・・・・

どうして僕は ここにいるのだろう

布施明 作詞・作曲 「落ち葉が雪に」から

 

これは布施明歌手が自分で作って歌った曲です。コノハズクが出てくるので、それはアオバズクのことかと調べてみました。同じフクロウながら別種でした。コノハズクは「日本のフクロウで最も小さい種」とあり「鳴き声は『仏法僧』と鳴いて、同じ名前の鳥と間違えられているようだ」と野鳥図鑑には載っていました。布施明歌手はどこか山間部の家で夏期にこの鳴き声を聴いていて、帰って行ったことで冬の到来を感じたようです。「落ち葉が雪に」いい曲ですヨ。良かったらYouTubeで聴いて見てください。「木の葉ずくも去って」というのは、寂しさの表現としては上手いネー。

昨日午後電話が鳴り、出ると2年後輩のXクンでした。声に元気がない。心筋梗塞で入院中だと言います。2ヶ月前は脳梗塞で入院したとも言います。どちらも早く救急搬送され、命に別状はなかったものの、脳梗塞では少し歩行が困難になり、リハビリテーションを行ったそうです。十数年前に2度の胃癌手術をし、ほぼ胃を全摘出、そのあと腎臓癌もなんとか克服したのを私は知っています。これだけつづけて大病を患うとモグラ叩きさながら、次はなにが出てくるのかと弱気になるのはわかります。「まァのんびりやれよ」と慰めるのがせいいっぱいでした。私自身丁度10年前、気になることがあつて、病院へ検査に行きました。昔のスケジュール表を調べてみると、連休明けの5月6日でした。5年生存率33%という危険な癌がみつかり、一度は死を覚悟しました。治療には4ヶ月を要しました。こうして生死の問題が迫ってくると、人間社会のこと、つまり「世の習い」はどうでもよくなります。そして、この世に生を受けたこと、自分の存在を大自然の一部だと認識します。これが人間が特技として手にいれた「宗教」というものの入り口かも知れません。普段は人間社会の嵐に翻弄され、苦しんだり、くよくよ悩んだりします。もしも今、そんな人がいたら、自分が大自然の一部だという認識に戻ってみて下さい。きっと気が楽になります。風の音を聴いたり、水の流れを見たり、野鳥の声を聴いたりして・・・・・。アオバズクの声を夜更けに聴いていると、自分が大自然の中で生かされている気持ちになって、こころが落ち着きます。今年も暗闇で「ホッホー、ホッホー」と鳴きはじめました。

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天智天皇陵の森

 

今出川通り

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鴨川左岸から

 

祇園町の会社事務所にいて、特段用事のない日、午後になると散歩に出ます。三条大橋から鴨川左岸におりて、河川敷の遊歩道を上流(北)へ向かいます。御池大橋、二条大橋、丸太町橋荒神橋をくぐって賀茂大橋 ( 出町柳 ) 手前で川端通りへ上がり賀茂大橋を西へ。この東西の道路は今出川通り、青春の思い出が数十メートル単位でいっぱい、ころがっています。中学、高校は男子校でした。服装は黒の立襟制服・学生帽という装いで6年間通いました。高校卒業して、この今出川通りを歩くようになると、私服の女子中学生・高校生そして女子大学生に遭遇します。なんとまあ、そのきらびやか華やかなこと。世界が一変しました。高校までの通学電車で会う女子中高生はみんなダサいセーラー服。少し年上になる通勤のお姉さん方は華やかでしたが、何か遠い遠い存在に見え別世界のひとびとでした。高校卒業後、自分の服装も自由な私服になって、今出川通りですれ違う私服の女の子たちの輝く世界に、なんとなく溶け込んだような気分になったものです。いまも散歩でこの賀茂大橋を西へ渡るとき、向こうから歩いてくるたくさんのカッコイイかわいい女子学生を観察して楽しんでいます。今出川通りを西へ、寺町通りをこえると左手は京都御苑です。京都人は正式なその名称ではなく「京都御所」もしくは「御所」といいます。学生時代好きになった女の子はたくさんいましたが、デートを重ねた子はひとりです。最初のデートは、御所でした。夢見心地、雲の上を歩いているような気分で慣れないデートをはじめました。楽しい日々がつづいたあと、女性のこころを理解できていなかったと言うか、扱いに慣れていなかったと言うか、別れがきて以後は別々の人生になってしまいました。謝罪の気持ちと後悔が残りました。今、御所を歩いてみると50数年前のはじめてのデート、そして苦い、甘酸っぱいもろもろの思い出がよみがえってきます。失敗と悲しみのない人生なんてありません。青春とはそれに抗って、何とか何とか乗り越えて歩く旅なのでしょう。振り返れば、理屈では説明できない運命をいくつも体験しています。友達に怪我をさせてしまったり、すんでのところで、大事故になっていたかも知れない行為、思い出すだけでも冷や汗が出ます。無事是吉祥、無事がどれほど有り難いことかいまは実感しています。今出川通りをはさんで、北側に煉瓦づくりの図書館がありました。期末の試験が危なく、単位を落としそうな時、友達に隠れてこの図書館でひとり勉強したことが何度もあります。実家が料亭で、宴会客の歓声、芸者衆の三味線音・長唄常磐津の歌声と嬌声、板前、仲居たちのあいだで戦場のように飛び交う怒号、器を整理洗う音、とてもじゃないが帰宅して勉強には向いていない自室よりも、午後の静かな図書館は有り難い空間でした。試験になんとか合格しようとしたセコい勉強ではなく、そこで本格的に学問に取り組んでいたら、違った人生が展開していたかも知れません。平岡精二作詞・作曲「学生時代」・・・秋の日の図書館のノートとインクの匂い、枯れ葉の散る窓辺、学生時代→青山学院大学出身のヴィブラフォン奏者が作った歌ですが、ここもまったく同じ雰囲気です。

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図書館-啓明館 ( W.M.ヴォーリーズ設計建築 )

そのまた北には相国寺があります。南門を入って左手には池があり、その前に門があります。結成したアメリカン・フォークソングの練習はいつもその門の下でした。雨の日も濡れずに練習できました。久しぶりに見に行きましたが、網のフェンスが設けられていて、入れなくなっていました。あの頃は自由に入れて、大声で歌っていても、だれにも注意されませんでした。ここで始めたバンドは、以後わたしの人生に、聴くだけではない、音楽をするという宝物をもたらせてくれました。この近辺の思い出を書き出せばキリがありません。いまは烏丸今出川まで歩いて、敬老乗車券をつかって地下鉄で帰ってくる。逆に地下鉄に乗って烏丸今出川まで行って、歩いて帰ってくるパターンが散歩のルートのいくつかのひとつです。このエリアに足が向きがちなのは、青春時代にもどったような気分になれるからなんでしょう。いま振り返って見ると、若い頃が輝いて見えていますが、当時の気分は暗いトンネルの中にいて、先行き不安におびえながら、無限大の可能性にも希望をふくらませる二律背反に揺れていました。このトシになると、その不安は解消されたものの、いろんな可能性も秘めていた青春に、もう戻れない寂しさを感じます。人生って、こんなものですかネ。

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鴨川の水鳥