圧倒的に優秀

 

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令和3年の春

 現在の総理大臣が、内閣官房長官だった昨年「霞ヶ関の官僚には、圧倒的に優秀なひとが多い」という発言をしたという報道をどこかで読んで、唖然とした記憶があります。折りしも、新型コロナウイルス対策で、PCR検査の目詰まり、雇用調整助成金の申請受付機能不全、国民一人あたり10万円の一律給付金その配布方法をめぐるドタバタ劇、アベノ・マスク配布の幼稚さ、各省庁のデータを統一集計もできない、などなど見ていたさなかだったこともあって、( こりゃダメだ )と思いました。新型コロナウイルスパンデミックは戦時下ともいえる有事です。国の統治機構のあり方が、数々の失敗が山積みされた太平洋戦争の状況と酷似しています。76年経った今、何も変わっていないことに慄然とします。

さて、問題の本質は何なのか。問題のルーツは明治維新にまでさかのぼります。260年間つづいた江戸時代は、封建制度すなわち身分が固定されていることを前提とした時代でした。明治時代になって、一部爵位などは残ったものの、身分制度が崩れました。江戸時代よりまえの戦国時代までは、武士の時代。腕力、武力、策略で出世できる下克上の時代でした。明治維新になって、まさかまた腕力の時代にもどるわけにはいきません。そこで身分出世の基準にいつしか、知らず知らずに選んだのがお勉強だったようです。司馬遼太郎氏の小説「坂の上の雲」で、のちに陸軍、日本騎兵の父と呼ばれた秋山好古が9歳のとき弟、真之が生まれ、経済的に困窮している両親が「いっそ寺へやってしまおう」と相談しているのを聞いて、「赤ン坊を寺へやってはいやぞな。ウチが勉強してな、お豆腐ほど(の厚みの)お金をこしらえてあげるぞな」と懇願する場面が書かれています。明治元年9歳の少年に、すでに「お勉強」が貧困から抜け出る方策だとの意識があつたようです。お勉強、学問を重要視するのは悪いことではありません。しかし、難関試験を突破すれば、将来の身分、特に経済的な安定が保証されるという意識が、制度として確立すると、それがおかしなことになってくるようです。試験の結果が身分の有利、不利に関係するとなると、試験そのものの公平性は必ず保たれなくなります。また、一旦難関を突破しさえすれば、安心してそのあと勉学に励まなくなる弊害も出ます。「一流国立大学出の俺の年収が、三流大学出のお前より少ないのはオカシイ」と言って失笑を買ったひとがいました。何より問題なのは、人の創造性という大切な能力は、試験で測れないことです。お勉強試験で選んだ集団が、平時にうまく行っても、有事に機能不全におちいるのは、創造性が欠落しているひとびとの集団だからでしょう。また、民間企業の活力はこの創造性によるところ大です。わが町で急成長したモーター製造業の創業者が講演で、求人募集に「国立大学の学生を採用するよう助言を受け、採用したものの役にたたず、すべてダメだつた」と話していました。「これこれこんなモーターを作れ」というと、「無理です。それはこうこう、こういう理由で不可能です」と答えが即座に返ってくるというのです。状況理解には長けた能力があるものの、創造力は皆無だといってました。「三流大学出の社員は、あれこれ苦労しながら何とかこちらの要求に近い製品を創り出す」とも言っておりました。つまり秀才は状況理解ができるが、創造性はないとも言えます。「秀才」という言葉は、中国随から1300年間つづいた、科挙という官僚登用試験科目の名称だそうです。最も難しい科目で、言葉だけが残ったようです。太平洋戦争で作戦遂行にあたったのは、合格難関の海軍兵学校陸軍士官学校の成績優秀な秀才たちでした。結果は目を覆いたくなるような、馬鹿で幼稚な失敗山積でした。行政面において、高等文官試験に合格した秀才たちも同じでした。東京大学卒業、元通産省官僚で、作家だつた堺屋太一氏は「東京大学の入学試験は、クイズに強いひとを選んでいるようなものだ。腕立て伏せを何回できるかで選んだ方がよほどマシだ」と生前言っていたのを思い出します。

霞ヶ関の官僚群、成績優秀なひとが多いのも確かでしょう。しかし、誤解してはいけません。試験に圧倒的に成績優秀でも、有事に能力を発揮するかしないかは、むしろ逆だと思ったほうが良い。新型コロナ対策という有事に、随所に機能不全を通り越して、馬鹿で幼稚な対策があらわれてきて、世の中を不幸にしているのはこれを表しています。業界の常識は、一般世間の非常識。官僚世界の常識は、一般市民の非常識。こう考えれば、いまのこのどうにもならない現状を、少しは理解できるのではないかと思います。

菅直人議員の再評価

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写真は東京電力ホールデングスより

 

東日本大震災から10年目となる311日、当時総理大臣だった菅直人氏がBS8チャンネル、プライムニュースに出演しました。東京電力福島第1原発の事故対応に関して、司会キャスターが繰り返し執拗に「総理大臣が、現場へ出かけていって、混乱を招いたのではないか。現場へはしかるべく対応にあたる人間を派遣して、司令塔たる首相は東京から指示を出して対応すべきではなかったか、という批判にどう応えるか」と強くただしました。菅氏は「事故は東電の責任であり、住民が被害を受けることへの対応は、政府の責任」としたうえで、「東電のトツプは東京におらず、事故の現状説明を東電担当者に聞いても、原子力保安組織に聞いても『わからない』としか返事が返ってこなかった。現場へ行くしか事故の内容がつかめないじゃないですか」とたんたんと応えました。司会者がさらに「現場へ派遣する適任の人がいなかったのか」と問うと、「当時私はすでに65歳。若い人を放射線の強い現場へ送るよりも、自分が行こうと思った」と応えました。

経営者をつづけてきた私の乏しい経験から言えることは、のるかそるかの危機にさいして大切なことは、トップにある立場の人が、現場に立つということです。平時にはそれぞれ役目を担当している人が、対応すれば良いのですが、有事にそれが上手く機能するかどうかわかりません。有事には能力の有無が顕在化します。担当者を信じて任せてみては、大失敗することの方が多いものです。内閣府原子力安全委員会委員長は同行したヘリコプターのなかで「総理、原発は大丈夫なんです。(原子炉は)構造上爆発しません」と述べたけれども、水素爆発、「アー」とため息ついたとか。電力会社の役員なんてエリートはサラリーマン貴族。事故が起これば病院へ入院するか、雲隠れ。東電の原子力保安担当員は、理科系の知識がないエリートで「わからない」の連発だったそうです。原子炉緊急冷却のため、海水を注入すれば再臨界を誘発して危険だと、東電本社は現場へ海水注入中止を命じたけれど、現場の吉田昌郎所長は面従腹背、本社につながったテレビ・モニターで「注入中止」を声高に叫びながら、部下にこっそり注入を続けさせました。これも現場の判断です。菅氏は「私が海水注入中止の命令を出したと誤報された」ともその番組で語っていました。インパール作戦ガダルカナル島など、作戦の立案張本人が現場に行かず、離れた場所から命令を出しつづけた失敗は太平洋戦争で山積みされています。機密が解読されて現場に向かう途中、撃墜されて死んだ山本五十六も現場で指揮する大切さを知っていて、戦地へむかっていました。もしも、あの事故当時菅氏のあとに就任した総理大臣の面々の誰かが対処していたら、「事故はオレの責任じゃないよ」と多分現場へ行かず、状況を理解できず被害は拡大、日本の北半分は人が住めない状態になっていたかも知れません。菅氏は「住民避難の際、バスで移動させた老人たちの数人が病死したこと」を悔やんでいました。「震災後10年が経ち、少しづつ当時の真実が現れてきて、私への風当たりも和らいできました」とも語っています。自分の決断、行為が評価どころか非難されつづけ、口惜しい想いで生きてきた10年だったようです。当日の番組を見ていて、このひと、事故の最悪結果を予測して、なりふり構わず「良くやった」のではないかと思えてきました。もうひとり「良くやった」吉田昌郎原発所長は、私が罹患した同じ癌で事故から2年数ヶ月後に死去されました。私が癌から助かった放射線治療の経緯は2日前のブロクで書いた通りですが、吉田氏は仕事柄、放射線治療をどう考えていたのか、わかりません。手術は受けたと報道されています。

いまはコロナ禍の有事、相変わらず永田町も霞ヶ関も、平時の対応で目詰まりを起こしています。ワクチン接種にだけ頼らず、ブラック・ボックスながら効果が報告されている、すでに薬事承認されている寄生虫薬・イベルメクチン(800-1回限り)を治験をどうこう言わずに国民に投与すれば、それが有事の対応、やってみる価値はあると思っています。

( 追記 )これは菅直人議員を見直したブロクです。政治的な意図はありません。ただ彼が所属する政党の評価が、いっこうに上がらないのは、立法・政策能力が劣っているからではありません。いまはむしろ、与野党知恵を出し合って、コロナ禍で困っているひとや、組織への政策すり寄せが進展しています。少し新しい民主主義のステージに入ったような気もします。野党に国民がウンザリしているのは、議会で議員や官僚をヤリ玉にあげて攻撃する、国政調査権の乱用です。立法・政策を二の次にして、プロ・レスリングさながら、特定のひとを殴打、連打し喝采を浴びて選挙を有利にしようとする魂胆が醜いのです。ルール違反や犯罪は、警察と検察に任せるべき事柄です。日本社会党という政党が、ヤリ玉追求に特化ばかりして、しだいに国民からそっぽを向かれ、凋落していったのもそれが原因です。正義の味方ぶるのは忘れられない、美味しい味なんでしょうネ。

 

東日本大震災から10年

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震災から今日で10年が経ちました。震災1と月前、16年間飼っていた猫が死にました。私のこのブロクのプロフィールに使っている写真の猫です。そのまた1と月ほど前、私は、からだのある部分に違和感を感じはじめました。自覚症状としては、かすかなものでしたが、ずっと気になっていました。健康には自信があり、医者ぎらいの自身にしては、なぜそんなに気になるのか不思議でした。思い返せば神様のお告げだつたとしか考えられません。それでも何事も起こらず、平穏な日々がつづいていたなら、自分の健康に関しても、それほど神経質にならなかったかも知れません。猫の死を目のあたりにし、震災、津波の映像が繰り返し流れ、原発事故があり、騒然とした雰囲気の中で、自分のからだに危機感を感じつづけていました。偶然の幸運に背中を押され、決心をして5月のはじめに病院へ飛び込み検査を受けました。「間違いありません」。癌の宣告でした。私はその部位の癌に罹患した知り合い10人ほどの、ほぼ全員が死亡したのを体験しています。「もうダメだ」と思いました。5年生存率は33%です。3人に2人は死にます。1人だけ命が助かった友人がいました。手術を受けず、放射線治療で完治しました。私は外科医から手術の詳細と日程を説明されました。聞いていて「これ、やったら死ぬぞ」と直感しました。セカンド・オピニオンどころか、4’thオピニオン、4人の医師を選んで相談しました。4人とも言うことも治療方法も違いました。治療方法は確立されていない。ならば助かった友人と同じ、放射線治療で行こうという結論に達しました。受診していた病院には放射線科はあったものの、検査用で治療のためではありませんでした。隣の県の大病院を紹介され、説明を受けると、治療日程の最終に大手術が用意されていました。「自分の命は自分で決める」。手術は拒否。その医師は「そんなことで治るもんか」と怒り、喧嘩になりました。一歩も譲りませんでした。「廊下で待っとれ!」と怒鳴られ「これ持って帰れ」と紹介してくれた医師への手紙を託されました。「この患者は言うことをきかない」とでも書いてあつたのか、ジーっと手紙を読んでいた外科医は、「よし。放射線だけで行こう」とつぶやき、「私の同級生がO市の病院で放射線科医やっているので、頼んでみよう」と掛け合ってくれ、いったんは満員と断られましたが、「1人ぐらい何とかしろ」と押し込んでくれました。2ヶ月の入院、治療が終わったのは8月も終わりかけていました。10月になって元の病院で検査を受けました。生検と言われる組織検査の結果「組織に悪性のものは見られない」と明記されていました。その検査結果票を持ってO市の病院、放射線科医に報告に行くと、「シロでしたか・・・」と少し意外な表情でした。帰るとき廊下で、入院時世話を受けた看護師の女性にバッタリ会うと、まだ生きていたの ? という表情。検査結果を見せると、「癌が消えたっ ! 」と驚いていました。猫が生きていた時、私が仰向きに昼寝をしていると、いつのまにか猫が私の上に乗って、腹部をべったり私にくっつけて、昼寝をするのが常でした。、私が癌を発症した部位に猫はいつも腹部をくっつけていました。あとから考えると、私の入院前に死んだ猫は、私の癌をもっていってくれたような気がしています。日本ではすぐに手術になりますが、欧米ではとりあえず放射線治療をやってみるそうです。先に放射線を当てると、癌が消えなかったり、再発した時、手術をしにくくなるそうですが、選択肢のひとつとして、癌になったときのために知っておいてほしいと思います。2011年は東日本大震災で亡くなった方々、肉親を亡くした方々、原発事故でふるさとを追われた方、失った方の記憶に残る歳でしょう。被災した人々には、忘れてはならない記憶の歳でしょうが、私にはそれに加えて、癌で生死をさまよつた歳として、10年経ったという安堵、10年生きられたことを神様に感謝しています。

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わたしの音楽人生

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もうすぐ77回目の誕生日がきます。つくづく歳をとったナと感慨無量です。振り返って永い人生に、音楽がうるおいを与えてくれました、音楽に満ちていたと実感します。小さいころ聴かされた子守唄や大人たちが歌っていた流行歌は別にして、最初の体験は手回し蓄音機でした。家族の誰が買ったのかは不明ながら、鮮烈に残っている記憶は、ある部屋で繰り返しかけて聴いていた78回転のSP盤です。記憶にあるその部屋は、小学1年生まで住んでいた家なので1950年(昭和25年)かそれ以前です。その曲は、ずっとエルビス・プレスリーのハート・ブレイク・ホテルだと思っていましたが、調べてみるとハート・ブレイクの録音は1956年なので記憶違いでした。聴いていたのは何の曲だつたのか、わからなくなりました。楽しくて、同じ曲を繰り返しかけていました。回るのは電気ではなくゼンマイというバネの力、増幅された音も電気ではなく、レコード針の振動を、針を付けたこぶしほどの円形箱が反響し、直接音を出す蓄音機でした。エルビスのハート・ブレイクを繰り返し聴いた記憶はもっとあとで、それは45回転シングル盤(ドーナツ盤)かも知れません。そしてSP盤がモノラル録音だったところへ、ステレオ録音のLP盤、シングル盤が登場、驚いて感動したのを覚えています。スピーカーが2つついて、軽いピックアップ、ゼンマイを手回しする必要なく、ターン・テーブルが電気モーターで回るステレオ・プレーヤー。買ってもらつたプレーヤーの形がいまも脳裏に焼き付いています。「錆びたナイフ」という歌、中学3年生、「南国土佐をあとにして」高校1年生、同級生が歌っているのを聴いた時、からだの中を言いようのない感覚が走ったのを明確に覚えています。小学校5・6年時の担任先生は、戦時中軍国少年だつたようで、敗戦を境に手のひら返したように民主主義を唱えたひとでした。戦闘機パイロットにあこがれていたらしく、民主主義を標榜する舌の根も乾かないうちに、戦闘機操縦のテクニックを懐かしみながら語ることも多く、このひと偽善者だと小学生ながら直感的に感じていたものです。その担任から「歌謡曲、流行歌は下等で卑猥だ。歌ってはいけない」と、教えられました。歌って良いのは小学唱歌のみ。歌謡曲など歌おうものなら、怒鳴られ、チョークが飛んできたものでした。当時、我が家にはラジオがなく、歌謡曲のみならず、音楽、歌から隔離された無菌状態。中学生、高校生になって、友達が歌う歌謡曲は乾いたスポンジに水を垂らすようにこころに染みました。そしてポピュラー音楽の大流行、ドーナツ盤の発売、テレビでは「ザ・ヒットパレード」。無菌状態だった少年が、頭から音楽の集中豪雨を浴びた状態でした。中学生のころから、伝書鳩を飼っていて、高校1年生の時、同級生K君も鳩を飼っていると知って、彼の家を訪ねました。大阪船場の家具問屋、大きな家の大屋根の上に、まだ1軒分ぐらい住宅規模の広さの鳩舎が設けられていました。鳩の数も半端でなく、ほとんど血統書つきです。後日、血統書つきの数羽を無償でもらいました。訪問したとき、Kクンの部屋が広くて、美しく整えられていたのに驚きました。お手伝いさんが毎日、掃除ベッドメイクをしている感じがしました。裕福な家庭とはこんなものなのかと。私の部屋は、押し入れのような3畳間でした。その時、これが兄貴の部屋だと、隣のドアをわずかに開けて、のぞき見させてくれました。やはり広くて整理されていて、目をひいたのはギターが立てかけてあったことです。高校1年生の暮れ、別の同級生Sクンとアルバイトをすることになりました。Sクンは家庭が経済的に苦しく、生活費に困っていて働くのは当然のようにしていました。軽い気持ちで、デパートの歳暮配達アルバイトにつきあいました。自転車のうしろに歳暮品を山積みして配達するのですが、行った最初の日、住んでいる区を聞かれ、「東山区です」と答えたら、「よし、お前は東山区担当だ」となって、配達先は坂道ばかり、急な上り坂ではうしろの重い荷物で自転車の前輪が浮き上がり、ハンドルを体全体で押さえなければなりません。登り下りの連続、毎日クタクタになりました。大晦日がきて、受け取ったおカネ、Sクンは生活費にするのですが、わたしは使う目的を考えていませんでした。おカネを手にして、さて何に使おうかと思ったとき、思い浮かんだのがKクンの兄さんの部屋で見た、ギターでした。調弦のしかたもわからずギターを買いました。教則本を買ってきて調弦し、単音でメロディーを弾いていましたが、教則本を進むと和音が出てきて、ド・ミ・ソ・ドと押さえて、ジャーンと弾いたとき、雷に打たれたおもいがしました。( スゴイ ! )。これが私の音楽のはじまりです。同じ体験を寺内タケシさんは、「最初に和音を弾いたとき、からだに電気が走った」とラジオ番組で話していました。私はこの歳まで、16枚のオリジナルCDを発表できました。クラシック音楽も、ポピュラー音楽もやります。作曲をするようになって、なおいっそう音楽の奥深さを感じるようになりました。音楽にかぎらず、絵画でも文学でも、創造することは、ある程度のテクニックが必要です。しかし、テクニックの別に、曲にはこころの琴線にふれる芯になるものが必要です。そのいわばエキスのようなもの、それを私の中につくってくれたのは、蓄音機の音楽、同級生が歌う歌、そして少年時代、青年時代に頭から集中豪雨のように浴びた音楽のかずかずです。音楽でこころが震える要素、それを何よりも大切にしています。神様に感謝しております。

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五線紙に鉛筆で音符を書くこともあるのですが、主にパソコン画面の五線紙に音符を貼り付けてゆきます→音源につなげば、そのまま音楽になります

トイレット・ペーパーのミシン目に関する考察

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公衆便所や他家などのトイレは別にして、私は男子ですが、自宅で排尿するとき、ズボンと下着を下ろし便座に座って排尿します。直立スタイルで排尿しますと、どうしても便器の中へうまく尿を収められないのです。外へこぼれます。飛び散ります。また、直立スタイルでは排尿後、振って泌尿器口に残っている尿を切ることになります。便器の内側壁はもちろん、外も汚すことになります。私が腰掛け排尿をしますので、我が家の洋式トイレは、それほど頻繁に掃除をする必要がありません。小さいときから父親の、長年この習慣を見ている娘たちは、嫁いでからも、亭主にも腰掛け排尿を要求しているようです。娘婿も男子孫も当家で排尿をしたあと、便器が汚れていないのでわかります。直立スタイルでも、正確に便器の中へ排尿し、あと振らずにペーパーで泌尿器口を押さえるという方法もあるのですが、ペーパーをちぎって持っておいてから、排尿にかかるという手順が必要です。だいたい、直立スタイルでの排尿時、右手左手、あるいは両手の指で泌尿器をつまむのが常態です。そうしないと、便器の中央へ命中しにくくなります。泌尿器口に数滴尿が残っている状態で、片手で壁のペーパーをちぎるのは、難しい作業になります。かくして、腰掛け排尿を毎度していますと、気になるのがベーパーの切れ具合、残り具合です。使用後のペーパーの残り具合には①ミシン目にそつて横一文字に切れている ②引きちぎられて斜め切れ ③ミシン目からは外れているけれども、ペーパーボックスの蓋に刻まれたノコギリ状のギザギサにそつて、横一文字に切れている、の3パターンがあります。ボックスによっては、ギザギサがないものもあり、最悪ミシン目がないペーパーが装填されていますと、引きちぎられた状態、舞妓の「だらりの帯」のように床ちかくまで長く伸びてちぎられた状態になっています。これは公衆便所でよく見かけます。トイレット・ペーパーのミシン目、推奨パターンを順番に並べますと、1.間隔が短く紙が二重 2.一重でも間隔が短い 3.間隔が長い 4.ミシン目なし  となります。便器によっては、局部を温水洗浄後、温風を吹き付けて乾かすものもありますが、ペーパーでぬぐう、押さえるのが一般的のようです。ミシン目間隔の短いのは、大小用途に適して切れ、省資源にもなります。私は腰掛け排尿後、必要最低限の紙を横一文字に切って整え、泌尿器口のしめりを押さえます。この習慣のため、トイレット・ペーパーのミシン目と残った紙の形が気になる変な性格になってしまいました。トイレはみんなで使うものです。トイレット・ペーパー使用後の形は、次のひとへのエチケットです。

トイレが男女共同のとある酒場で、ホステスがトイレを使ったあと、同席の友人(男子)がそのトイレを使って出てきました。友人はそのホステスに「アンタ、トイレしたあと、紙を使わないのかい ? 」とたずねました。ホステスはすぐに質問を理解して、「紙は使います。あと、紙をきれいに三角折りにして、まだだれも使っていないペーパーの状態にいつもしておきます」と答えました。私は意地悪く言いました。「アンタ紙で拭いたあと、座ったままその手で三角折りにするんでしょう。あまり清潔じゃないよネ」。ホステスは「・・・・そー言われれば、そーですネ」と反省していました。私は「いやいや、着服して一旦手を洗ってから、三角折りにしてくれれば、いいんです。紙が湿るおそれがあるけれど」と取りなしました。ホステスのこの気遣いを褒めて良いのか、悪いのか、微妙です。

今日のブログはあまり上品な話題ではありませんが、最近の風潮を危惧する気持ちがあり、あえて書きました。排泄に関するマナーにもまして、危惧するのは食物摂取についてです。テレビ番組や雑誌などで、グルメだ○○メシだと「モノ喰う」行為が公共の場に多々展開されます。テレビでモノ喰う行為を映しても、味も香りもわかりません。喰ったタレントが親指立ててウインクしても、本当に旨いのかどうかわからないじゃないですか。永六輔さんが「だいたいテレビ・カメラの前でモノ喰うなんて、むかしはみっともなくてやらなかったことなんだ」と言っていたのを思い出します。番組もCMもなんとモノ喰うシーンが多いこと。数十年前までは、食事しているところををひとに見せるものではなかったはずです。向田邦子脚本、テレビ番組「寺内貫太郎一家」あたりからでしようか、毎回、食事シーンが定番でした。いまや、若い女性が往来歩きながら、モノ喰ってるのはよくみかけること。インバウンド賑やかなりし2年まえ、京都の錦小路市場ではあちこちで、コマ切れの食い物をトレイに乗せ、爪楊枝を立てて外国人に売っていました。どこの国のひとがそれを喰いながら歩いていたかは、ご想像にまかせますが、喰っている日本人の若者も結構いました。コロナ・ウイルスが「日本人ヨ。ここで一旦立ち止まって、行儀を考え直してみては」と言っているようにも思えます。このまま行くと、食物摂取どころか排泄までもひとに見せることになりはしないかと心配しています。

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競馬ロマン-その2 ( 競馬とカネと )

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スピードシンボリ(Wikipediaの写真から)

 

前回につづき競馬についてブログします。日本の競馬は、神社境内で流鏑馬のように、直線をせいぜい2頭が競争するものだったそうです。楕円型のトラックを走る形式を持ち込んだのは、明治以後、西欧人だったとされています。以後どの馬が速いのか、カネを賭ける歴史ですが、博打容認派と不謹慎派のあいだを振り子が揺れます。結局、カネを賭けない開催をすると、さびれを招きまた賭けて開催を繰り返します。野球やサッカーは、敵味方に別れて応援を楽しむもの、相撲やボクシングは1対1の力と技のぶつかり合い。それらはよほどの博打好きはべつにしてカネを賭けなくても楽しめます。しかし、麻雀やルーレットはカネを賭けずにやっても面白くありません。賭け麻雀が発覚して職を失した検察官がいましたが、カネ賭けずに麻雀するひとっているんですか。競馬も同じ、そこには「運」がかなり作用します。競馬は馬が走るのです。騎手がまたがって操作しますが、騎手の力量だけでは限界があります。逆に騎手が下手をして負けることもあります。競馬も多く「運」の要素に左右され、楽しむものです。

歳相応に仕事と家庭の責任も増し、競馬にうつつをぬかしているわけにはいかなくなりました。以後ずっと競馬のことは頭から抜けていました。ある日、もっていたクレジット・カードの会社からDMがとどき、それは共有馬主の勧誘でした。1頭の競馬馬をグループで共有するシステムです。競走馬を個人で持つほど資金力はもちろんありません。出資比率に応じて、馬の購入費用、預託料 ( 飼料代、飼育・調教費用等 )を負担し、もしもその馬が賞金を稼げば出資比率に応じて配当金を分配するというものです。よせば良いのに、物好きにも参加しました。出資した額は馬の一部分、20分の1、ヒヅメひとつ分ぐらいだったでしようか。購入料を支払い、毎月定額の預託料が口座から引き落とされ、やがて2歳になった若駒はレースに登場します。馬の名前は忘れました。ヒヅメ分ほど所有していたので「ヒヅメ馬」としましょう。大手放送局では放送されないレースを見るためにグリーン・チャンネルを契約しました。最初のレース、ヒヅメ馬は、スタートから最後尾を走り、第4コーナーをまわって、さあこれから追い込むゾと思いきや、どんどん離されて行く。着差は「大差」。1着馬からではありません。10数頭の最後尾よりひとつまえの馬からの「大差」です。有力馬が最後尾を走っていると、レース後半に追い上げてくるのを知っているので、アナウンサーは「○○は後方待機です」と言います。ヒヅメ馬は画面から外れて、そのままです。ダメなのがわかるのでしょう「後方待機」などとは決して言いません。黙殺です。テレビカメラは4コーナーを回るとき、走ってくる馬群全体を映します。カメラ・アングルのおかげで、どんなに遅れていても、画面に入ります。ここで馬群の直後にいれば、望みはあるのですが、ここでも離れたままです。そのままどんどん引き離されてゆきました。ヒヅメ馬は数週間の出走停止を喰らいました。出走停止処分の条件に「調教が十分でないとき」があり、該当したようです。停止解除後、第2戦、同じく最後尾「大差」。ヒヅメ馬はいつしか放牧に出されました。帰ってきませんでした。どこかの乗馬クラブに売却され、引退です。懲りずに、翌年次の馬、また次の馬と、このヒヅメ馬主を3頭ほど経験しましたが、結果はほぼ同じでした。2頭目3頭目の、最後尾を走るヒヅメ馬を見ていると、馬が走りながら含み笑いをこらえているように見えるのです。馬は笑いません。しかし、そう見えて仕方ありませんでした。( ウフフフフ。何でそんなに必死に走らなアカンのヤ。別に格別旨いもン喰わせてもらえるわけでもないのに。走らんでも喰わせてもらえるデ。馬群に加わるのは危険ヤ。落馬、転倒があっても、離れて最後尾にいれば回避できるデ。あいつ等あほヤ。フフフフ・・・・ )。離れた最後尾になると、騎手もムチを打って走らせようとはせず、あきらめています。ムチは競り合った時に使うものです。これはまさしく人間社会を見ているようでした。あなたの職場にもこんなひといませんか。しんどい仕事から逃げまくって、休暇や待遇はしっかり要求する。それを恥とも何とも思っていない・・・。毎年、若駒の発売時期になると、血統などがくわしく記載された写真つきのパンフレツトが送られてきます。4年目ぐらいに馬鹿馬鹿しくなってやめました。ところがちょうどその年、やめて捨て去ったパンフレットのなかに、のちに皐月賞2着、ダービー3着、菊花賞2着と活躍した若駒がいたのです。惜しくもGⅠ馬とはなりませんでしたが、GⅢ、GⅡは勝っています。トータル獲得賞金は4億6千万円となっています。毎年そのパンフレットには10頭ほどの1歳馬が載っていましたので、うまくその馬のヒヅメを買えていたか疑問ですが、口惜しい思い出です。競馬とはこんなもんです。タラレバは通用しません。もしももう1回買っていタラ。第4コーナーで内側があいていレバ・・・・・。競馬でタラレバは禁句です。

地方競馬から中央競馬へ躍進し、頂点を極めたハイセイコーオグリキャップの大活躍は多くの競馬ファンのみならず、一般のひとびとに夢と感動を与えたにちがいありません。しかし、私は競馬から離れていて観ていません。スピードシンボリだけが感動の思い出です。以後、わずかですが、私の競馬とのかかわりは、不純にもカネの思い出だけになります。失敗した思い出がほとんどです。

競馬ロマン

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Wikipediaから

私は京都から大阪府にある高校へ通っていました。親しくしていた友人Xクンが競馬調教師の息子で、淀の競馬場(現在は京都競馬場という)に住んでいました。ある土曜日、学校の帰り、淀駅で途中下車して、私はもうひとりの友人といっしょにXクンに連れられ彼の自宅(厩舎)をたずねました。その日は競馬が開催されていて、当然、見に行こうとなります。緑の芝生にカラフルな装束の騎手がまたがって、一団の馬が走ります。歓声が上がります。夢のような世界でした。スタンドではなく、第2コーナーの植え込みの陰から、高校生3人が息をのんで見ていました。「未成年は買うてはアカンのやけど」とXクンにいわれながら、高校生を隠すために、着ていた詰め襟の学生服を脱いで、ワイシャツ姿で友人と私は投票所へ行って100円馬券を買いました。当たった記憶はありません。これが私の競馬体験のはじまりでした。その年の秋、菊花賞を観にXクンの厩舎をたずねました。厩舎のある一画は騒然としていました。菊花賞だからではありません。厩務員が待遇の改善を求め、大レース当日にぶつけて、ストライキを行って混乱していました。スタンドではわからなかったでしょうが、厩舎では出走馬を爆竹で威嚇したりしていました。馬は観客席の歓声でもおびえて気持ちのバランスを失ったりします。爆竹で威嚇、もう無茶苦茶でした。菊花賞の出走時間がきて、私たちはスタンドへ移動しました。出走馬の本馬場入場、その年皐月賞、ダービーを制して史上2頭目三冠馬をねらう本命馬コダマを目のあたりにしました。小柄な体格、栗毛の馬でした。小さくてほかの出走馬と比べ、弱々しく感じました。これが三冠をねらう圧倒的に強い馬かと不思議な感じがしました。厩舎の大混乱を知っているだけに、コダマは被害を受けなかったかとの心配もありました。人気は圧倒的な本命。しかし結果は5着の惨敗でした。夕闇がせまったレース後の馬場には寂しさ悲しさがみなぎっていました。1960年晩秋、高校2年生の時の思い出です。以後なんとなく競馬に興味を失い、競馬場に行くこともなく、テレビでもレースを観ていません。史上2頭目の三冠場シンザンも観ていません。社会人になってから、自らの道を歩んでいたところ、世の中で最も就職したくなかった会社である家業に引き戻され、代表取締役の印鑑を無理矢理もたされました。とてつもない借金が両肩に重くのしかかりました。望む道を断たれ、運命を恨んで鬱屈していた時、競馬に足を踏み入れました。半分はウサ晴らしだったのだと思い返します。その時感動をくれた馬がいます。スピードシンボリです。デビューから華々しい戦績を上げていたわけではありません。もちろん並の馬よりも成績はそこそこ上げていました。新馬戦、2戦目はともに4着、未勝利戦をようやく勝って、次に2連勝したものの、明け3歳クラシック戦線では皐月賞21(23頭だて)、ダービー8着、菊花賞2着、有馬記念3着で、この年は3月の京成杯を勝った1勝のみです。ただ、菊花賞はハナ差の2着と注目されました。4歳になって1月、3月とGⅡレースを連破、春の天皇賞を勝ってようやく遅咲きのGⅠ馬となりました。細身の足長馬で、生産者シンボリ牧場オーナーは生まれた時から、走る馬だとの確信をもっていました。買いに来た幾人もの馬主と価格が折り合わず、売れ残って牧場主が馬主となつた経緯がありました。私がこの馬に感動したのは、7歳になったスピードシンボリが前年につづいて、連覇をはたした引退レース1970有馬記念です。テレビの競馬中継、前年と同じライバルのアカネテンリュウ(5)をクビ差はなして、ゴール板を駆け抜けた時は、涙が止まりませんでした。なぜそんなに感動したのか。7歳にもなった競走馬が人気投票レースで勝ったことはもちろんです。しかし、振り返れば、大阪万国博覧会景気で商売は超多忙な時でした。世間様が博覧会に浮かれていた時、家業は大車輪そして超人手不足、睡眠不足。博覧会に出かけるどころではありませんでした。心身ともボロボロになり、私は人生のドン底であえいでいた頃と重なります。私はそこに若い頃うだつの上がらなかった馬が、必死で這い上がってきた姿を重複させていたような気がします。先が見えない暗闇の中で、(オレもいつかはなんとかなるかも)と希望の光を見たのかも知れません。作家の虫明 亜呂無氏はレース前、野平厩舎で馬体に手のひらを当て、しばらく目を閉じて掌に勝てる感触を感じたと、のちに語っていました。みんな7スピードシンボリの引退レースに祈りを込めていたのだと思います。